国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

沖縄

沖縄県・那覇市と豊見城境・旧海軍司令本部壕!

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊①】
沖縄県豊見城市と那覇市の市境に位置する海軍司令部壕。
日本で唯一の陸上線である沖縄戦で大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕。

昭和19年、先の大戦において
絶対国防圏を守る上での最重要拠点であるサイパンやグアムなどのマリアナ諸島やパラオ戦線やフィリピン戦線での敗北でそれらを失い、敗色が強まってきました。

戦線が南西諸島付近まで後退したため最前線となった沖縄の軍備が強化されることになりましたが、沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(現在の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになりました。

昭和19年8月10日に着工されましたが、実際には十・十空襲以降に始められ同年12月に完成しました。

壕はかなり深さがあり、枝分かれした全長約450mの坑道といくつかの部屋からなり、砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されています。
部屋は作戦室、幕僚室、司令官室、暗号室、医療室、下士官室、兵員室、発電室があり広大な壕です。

昭和20年1月20日から大田実海軍中将が沖縄方面根拠地隊司令官として赴任し現地の指揮を執ることになりました。
アメリカ軍による本格的な攻撃は3月23日頃から始まりましたが、3月31日には那覇市の北西沖約10キロメートルに浮かぶ神山島に上陸し、4月に入ると島に設置された砲台や海上艦船からの攻撃も始まりました。

6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲。

6月11日朝、司令部壕に米軍の集中攻撃が加えられ、同日夜には司令部壕からの最後の報告として海軍根拠地隊が玉砕したとの電報が発せられました。
6月13日に大田司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結し、戦線は南部に。

司令官室には
壁面に大田司令官の愛唱歌「大君の御はたのもとに・・・」の墨書が残されています。

戦後の調査で壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集された、昭和33年には更に1500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立されました。

沖縄は綺麗なビーチが多く見所が多いですが
先の大戦では日本唯一の陸上戦がおこなわれ、約20万人の方が犠牲になった場所です。沖縄を訪れるのあればこういった戦跡や慰霊をしていただきたいと思います。

沖縄県・宜野湾市・キングタコス長田店でタコライスとタコス!

【沖縄発祥のタコライス】
I ate Tacos and Taco-rice at a KIng-Tacos shop in Ginowan city in Okinawa.
メキシコのタコス。タコスはヒスパニックの多いアメリカ西海岸でも広まり、タコベルなどのチェーン店があることでも有名です。
米軍基地がある関係で
沖縄にはアメリカ的なレストランが非常に多いです。(当初は米兵向けであったのだが)
一昔前はジャンクフード大好きな自分で、留学時などはマックやKFC、バーキン、サブウェイなどをよく利用していました。

今回はある方からお薦めいただいたタコスとタコライスを食すことが出来るキングタコスに。
タコライスは名前の通り、タコスの具材を米の上にのせた
ものです。

タコライスは金武町のキャンプハンセンのゲート前に広がる飲食店街にあった「パーラー千里(せんり)」の創業者、儀保松三の考案により1984年に販売開始されました。
後にチェーン展開することになる系列店の「キングタコス」を通して沖縄本島各地に広まっていきました。
現在は沖縄に複数店舗を展開するタコス&タコライスの有名店。

名護から車で南に下り
宜野湾市の長田店に。米軍ヘリが墜落したことでも知られる
沖縄国際大学の近くにあります。
店内は狭く、立ち食いできる場所はあるものの
持ち帰りの人々が多いです。

タコスは今までに食べた事はあっても
タコライスは此間、那覇のレストランで初めて食しました。
両方の味を楽しみたいと思い、タコスとタコライス両方を注文。

【沖縄の色鮮やかな魚】沖縄県那覇市・国際通り近くの第一牧志公設市場③1階!

那覇市内の牧志公設市場に。
本土の市場では見る事が出来ないものを見る事が出来ました。国内外の市場めぐりは面白いですが、沖縄の市場も興味深いです。

沖縄の近郊で獲れる魚。やはり熱帯、亜熱帯だと獲れる魚は本土とは異なります。見たことのない魚もあれば毒魚かと心配になるほど色鮮やかな魚ばかりです。
イシガキダイは何度か釣り上げたことあります。

釣り好きな自分ですので
魚はやはり同じ魚でも寒流にもまれた魚のほうが身が締まっていたり、脂がのっていたりして美味しいですが、沖縄の近郊で獲れる魚も食してみるとよいでしょう。

沖縄県うるま市・宮城島!果報バンタ(塩工場ぬちまーす隣)

世界遺産に認定されている勝連城跡を訪問後に
本島の東海岸に。海中道路を通り、平安座島、宮城島、伊計島に。宮城島にある「ぬうちなー」の塩工場の横にある果報バンタ。
バンタは沖縄の方言で崖で、標高120メートルの崖の上からはエメラルドグリーンの綺麗な海を見ることが出来ます。

到着時に曇りで晴れ間のときのように
綺麗な写真を撮ることが出来ませんでしたが
晴れたらより綺麗に見ることが出来ます。

沖縄の人気絶景場所の1つ。

沖縄県那覇市・国際通り界隈!沖縄家庭料理の店「まんじゅまい」沖縄料理満喫!

那覇の国際通りに近い沖縄家庭料理の店まんじゅまいで食事。初めて食すタコライス、パパイヤチャンプルー、てびち、豚の三枚肉、海ぶどうなどを沖縄のビールであるオリオンビールとともに食しました。

昔ながらの古臭さが残る雰囲気の良いお店で味もよくお薦めのお店です。

【世界遺産】沖縄県うるま市・勝連城跡!

那覇から車で沖縄のグスクなどの琉球王国の史跡群から構成されるユネスコの世界遺産を構成している1つである勝連城跡に。

城跡は南城、中間の内、北城で構成されていおり、北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にあり、一番上の郭からは360度の絶景を楽しむ事が出来ます。

非常に堅固な城で当時の姿が脳裏に浮かびました。
13世紀~14世紀に茂知附按司により築城されたといわれるお城で、この城の最後の城主が阿麻和利。
阿麻和利はクーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論んだが1458年に琉球王府によって滅ぼされました。その年に廃城に。

昭和47年の沖縄本土復帰とともに日本の史跡に。
平成12年11月に、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界文化遺産に登録。

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊④】沖縄県糸満市・平和祈念公園

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊④】
同じく糸満の平和祈念公園を再訪。

公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地&終焉地。
昭和20年5月、アメリカ軍の攻撃により、首里にあった日本軍司令部は、沖縄本島南部に移動。

日本軍による組織的抵抗は、6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了したがアメリカ軍は翌7月初めまで掃討戦を続けました。

平成祈念公園内には各県の慰霊碑一覧があります。
全てを訪れるのは時間がかかりますので
皆さんの出身県の慰霊碑にて合掌や焼香をするとよいでしょう。

喜屋武岬などと同じくこの摩文仁の丘からも沢山の人間が追い詰められて飛び降りて亡くなりました。

摩文仁の丘で出会った80過ぎのお婆さん。
「お兄ちゃん、慰霊はこちらからだよ。」と言われ
お婆さんの近くにいくと花を持っていってといわれました。
1束300円ですが、最初は断ったのですが
結局購入することに。
慰霊碑に献花させていただきました。
一緒に記念撮影。
80を過ぎても懸命に商売している姿に心を打たれました。

沖縄海洋博記念公園内の綺麗なエメラルドビーチ!「日本の水浴場88選」&「快水浴場100選」

公園内にはいくつかのビーチがあるのですが、一番のお勧めはエメラルドビーチです。名前のとおり、エメラルド色のビーチで、2001年に「日本の水浴場88選」、2006年には「快水浴場100選」に認定されています。

遊泳期間は4月1日~10月31日。遊泳期間中はビーチハウスと呼ばれる売店が営業し、監視員を配置して安全確保が図られます。有料とはなりますが、ビーチパラソルや浮き輪や救命胴衣の貸し出し、コインロッカーの完備もあります。また、無料でシャワーを利用する事が出来ますので、安心して海水浴を楽しむ事が出来ます。

沖縄県那覇市・対馬丸記念館!昭和19年対馬丸事件(学童疎開船)!

【沖縄戦慰霊・慰霊地】
那覇市内にある対馬丸記念館
沖縄線で忘れてはならないのは、沖縄からの学童疎開に使用された輸送船・対馬丸。アメリカの潜水艦による魚雷攻撃で沈没。1482名の死者を出しました。

対馬丸は1912年(明治45年・大正元年)から整備を開始したT型貨物船のうち、欧州航路向けの第1期船6隻のうちの一隻として、イギリスのグラスゴーのラッセル造船所で高田丸とともに建造される。船価は9万4500ポンド。

竣工後は第一次世界大戦真っ只中の欧州航路などを就航して、当時は日英同盟で連合国側についていた日本。連合国向けの軍需品や食糧輸送で活躍し、特に対馬丸は1916年(大正5年)6月21日、再開されたパナマ運河を経由する貨物船として、横浜~東回りニューヨーク航路第1便として横浜を出航しました。
開戦直前の1941年(昭和16年)9月21日に陸軍に徴傭され、南方作戦に投入されました。後に、船舶運営会使用船となりました。

サイパン島玉砕後にアメリカはB29爆撃機による本土空襲が可能になりました。
これを危惧して日本政府は
「本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせよ」との命令を通達しました。
一方で、沖縄本島などへ展開させる兵員や軍需物資の輸送も同時に行う事となり、一部を除いて往路は軍事輸送、復路は疎開輸送に任じる事となりました。

1944年(昭和19年)8月20日に対馬丸と暁空丸、和浦丸で構成されたナモ103船団は台風接近による激しい風雨の中、蓮と宇治の護衛により長崎へ向けて那覇を出港しました。

翌々日の8月22日に西沢武雄船長と陸軍少尉の輸送指揮官との間で激論が交わされました。米潜水艦による魚雷攻撃によりいくつもの船が沈んでいる事を知っている西沢船長はこの航路の危険を熟知していたので、ジクザグコースを取る事を主張。しかし輸送指揮官は、船団から離れる危険や、到着の遅延への懸念の方を重く見て直線での航行を主張し、結局「軍の命令」ということで直線コースをりました。それが命取りに。

対馬丸を撃沈させたのは
アメリカの潜水艦ボーフィン。8月22日夜に攻撃を開始。6発の魚雷を発射し、2本の魚雷が命中。命中した11分後に対馬丸は大爆発を起こして沈没。
対馬丸の乗船者1788名のうち1482名が犠牲に。生き残った人々はイカダでトカラ列島や奄美諸島に漂着もしくは漁船等に助けられました。

平成26年(2014年)6月に慰霊のために天皇皇后両陛下が行幸啓。
慰霊碑「小桜の塔」や対馬丸記念館を訪れ、事件の生存者や遺族らと対話をしました。