国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

海外の日本庭園

【世界で人気の日本庭園】カナダ・バンクーバー・新渡戸稲造記念日本庭園!

【カナダで客死した新渡戸稲造】
私の海外での渡航調査は多岐にわたりますが、調査のうちの一つが海外日本関連物調査です。(いずれ本として出版します)
新渡戸稲造は5000円札の肖像としてよく知られていますが、どんな人物だったのか知らない人も多いと思います。
新渡戸稲造は1862年9月1日(文久2年8月8日)に盛岡藩士で藩主南部利剛の用人を務めた新渡戸十次郎の三男として生まれました。
新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、そんな環境で育った稲造は、子供の時から西洋への憧れをいただいていました。新渡戸家のかかりつけ医師から英語を学びました。
札幌農学校(後の北海道大学)の2期生として入学。
稲造はこの頃から目を悪くし、眼鏡をかけるようになりましたた。やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまいます。
数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取りました。
稲造にとってそれはあまりにも大きすぎる悲しみであったため、鬱病がさらに悪化してしまいました。
その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出ます。
その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、『サーター・リサータス』(Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となり生涯に幾度となく読み返したようです。
東京帝国大学に入学するも当時の農学校に比べ、東大の研究レベルの低さに失望して退学する。1884年(明治17年)にアメリカに私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。
日本についての講演をアメリカ国内でした時に、聴衆の一人であったメアリー・エルキントンが稲造を見初めて告白をしました。(後の稲造のアメリカ人妻)
その後、ドイツに留学。
世界的に有名な著作である『武士道』を英文で書き上げて世界に日本人の武士道とは何たるかを広めました。
日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えました。
台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命されました。
民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献しました。
(台湾の糖業に関しては昨年10月の訪台時に高雄の台湾糖業博物館(台湾製糖跡地)に現地踏査しました)
その後、東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。
1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な稲造が日本人として事務次長のひとりに選ばれました。
稲造らはらは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されています。
1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同。しかし、フランスの反対にあい、結局実現しませんでした。同年、バルト海のオーランド諸島帰属問題の解決に尽力。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任。
日本が国際連盟を脱退した1933年(昭和8年)の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するためカナダに渡った稲造は会議終了後、当時国際港のあったカナダ西部のビクトリアで倒れて祖国に帰ることなく亡くなりました。
UBC(ブリティッシュコロンビア大学)を訪れた最大の理由が
カナダで亡くなった新渡戸稲造の記念日本庭園があるからです。
大学の敷地内に1960年に出来た庭園です。
新渡戸稲造との関係性もあり
盛岡市とバンクーバー市は姉妹都市提携を結んでいます。

バンクーバーにある新渡戸稲造記念庭園
【海外日本庭園】
今まで世界各地の日本庭園を訪問しましたが、日本庭園は海外で非常に評価が高いです。
バンクーバー市内にあるブリティッシュコロンビア大学内にある日本庭園。カナダで客死した新渡戸稲造を記念して1960年に日本国外で多くの日本庭園を手掛けていた森歓之助が手がけた日本庭園です。
新渡戸記念庭園(Nitobe memorial garden)と名づけられました。
北米には多くの日本庭園がありますが、程度の高さは北米随一と呼ばれている庭園。
2009年7月に天皇皇后両陛下がカナダに行幸啓の際にこの日本庭園も訪れています。
平日でしたが多くの外国人が訪れており、日本庭園の美しさに感動していました。
日本人の自分からみてもやはり日本庭園は非常に美しいと実感できるものです。
今まで海外で訪れた日本庭園は下記。
1.イギリス・ロンドン
2.ドイツ・ミュンヘン
3.モナコ
4.オーストリア・ウィーン
5.フィリピン・マニラ
6.タイ・バンコク
7.ブルガリア・ソフィア

アメリカ・サンフランシスコ・1894年に造られた日本庭園(ゴールデンゲートパーク内)

【1894年のカリフォルニア万博で造園された日本庭園】
サンフランシスコ市内のゴールデンゲートパークには日本庭園があります。
日本庭園は1894年のカリフォルニア万博で造園された日本庭園で、萩原真という日本人が設計したものです。
その後、彼の一家は強制収容されるまで50年近く日本庭園を管理していました。
先の大戦が始まり、日米が戦争状態になると
日本庭園は東洋庭園(オリエンタル庭園)と名称変更され、内部の建物も多く壊されましたが、戦後、1952年のサンフランシスコ平和条約締結後に日本庭園として復活。
庭園内には
五重塔や太鼓橋、茶室などを完備。
日本人の自分からみても程度の高い日本庭園であると思いました。
入園料は9ドル。
数百人のアメリカ人+他の外国人が見学して
日本庭園の美しさに感動していました。
今まで世界各地の日本庭園を訪問しましたが、日本庭園は海外で非常に評価が高いです。
今まで海外で訪れた日本庭園は下記。
1.イギリス・ロンドン
2.ドイツ・ミュンヘン
3.モナコ
4.オーストリア・ウィーン
5.フィリピン・マニラ
6.タイ・バンコク
7.ブルガリア・ソフィア
8.カナダ・バンクーバー
9.台湾・花蓮

台湾・嘉義市・嘉義神社!(日本統治時代建立・映画KANOの地)

日本統治時代、明治44年(1911年)に開園した公園です。公園内にはかつての嘉義神社(現在は忠烈祠)の名残が残っており、社務所はそのままの残っています。社務所内部は資料館になっており、貴重な資料が展示されています。

公園内は広く、見どころも多いですが日本的な香りのするものが多く残されているので
日本統治時代の匂いをかんじとってみるとよいでしょう。

善化駅(ぜんかえき)は、台湾台南市善化区にある台湾鉄路管理局縦貫線の駅。かつては台湾糖業鉄道玉善線、善化線が接続していました。
台南市のほぼ中央に位置するので、バス連絡で佳里、麻豆、玉井、烏山頭ダムなどへの要路を占めて居ます。

ブルガリア・ソフィア・日本ホテルと呼ばれるマリネラホテル!?日本庭園!何故、日本ホテル?

ソフィアで宿泊しているマリネラホテル。1980年代共産党支配化に建てられたホテルです。前述したとおり、日本の御三家ホテル・ニューオータニが建てたものです。設計は建築家の黒川紀章です。
10年少し前にドイツの0会社にわたり、今は他の別会社が経営してますが、現地の人々から日本ホテルと呼ばれ親しまれてます。
5つ星のホテルで、日本庭園等日本に関連したものも多く残っております。

オーストリア・ウイーン・シェーンブルーン宮殿内の日本庭園!サラエボ事件で殺害されたオーストリア皇太子(日本通)が造営指示! 世界中で大人気の日本庭園!

日本人必見!!オーストリアのウイーン!かつて中世にヨーロッパに覇を唱えたハプスブ­ルク家が居を構えていた土地である。(元々はスイスの小領主出身)
シェーン­ブルン宮殿には日本庭園があります。これは大正2年(1913年)にフラン­ツ・フェルディナント大公(サラエボ事件で殺害されたオーストリア皇太子)が日本訪問­から帰国後造営させたもので、オーストリアの庭師に見よう見まねで作らせたも­のであ­ります。
1892年、約1年の歳月をかけて世界一周の見聞旅行に出かけ、その途上で日本を訪れ­ております。
この時、フランツ・フェルディナント大公(オーストリア皇太子い)は日本の風物や伝統­文化などを詳細に手記に記しており、これは後にまとめられて出版されています。
オーストリア皇太子の日本日記という題名で講談社学術文庫から翻訳されて日本でも発売­されております。

皇太子は「海外を見聞してみたい」と思うようになっていきました。
1891年、ロシア皇帝と謁見しにペテルブルグを訪れたのがきっかけになったようです­。「異質な国民、民衆、文化、民俗についての知見を獲得し、異国の芸術を鑑賞し、さら­には、汲めども尽きない異郷の地の自然に肌で接したい」と思うようになった皇太子は、­世界一周の見聞旅行に出かけます。そして、その訪問先の1つが日本だったのです。
熊本、下関、宮島などを経た後、京都、大阪、奈良、大津などを訪問。
その後、東京に赴き、明治天皇に謁見。政府から大歓迎をうけもてなされました。
日光東照宮も訪問し、そこでは、かつての会津若松藩主であり、宮司になっていた松平容­保公に迎えられました。(薩摩、長州等主体の新政府からはよくは思われていませんでし­たが)

ちなみに松平容保公の曾孫である徳川恒孝氏は養子で徳川宗家に入り、徳川宗家18代目­の当主となられたわけですが。奇遇にも18代目当主のご長男(家広氏)の方とは、当方­は仕事でお会いした事がございます。

大正2年(1913年)に、日本の庭園が忘れられなかったオーストリア皇太子がオース­トリアの庭師にみようみまねで造営させました。
その翌年、ボツニアのサラエボにてセルビア人青年により、オーストリア皇太子は暗殺さ­れました。(サラエボ事件)
それにより第一次世界大戦勃発!!そして敗戦!
オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後は日本庭園は荒廃し、誰ともなしに「アルプス庭園­­」と呼ばれるようになったが、平成8年(1996年)にここを訪れた日本人が日本庭­園ではないかと­指摘により発覚。

その後調査が進められた結果、手水鉢と思われる石など見つかり、日本庭園と­いうこと­が断定されました。
これを受け平成10年(1998年)、日本から庭師を招いて枯山水の日本庭園­として­修理復元されました。

オーストリア・ウイーン・シェーンブルーン宮殿内の日本庭園!

オーストリアのウイーン!かつて中世にヨーロッパに覇を唱えたハプスブ­ルク家が居を構えていた土地である。(元々はスイスの小領主出身)
シェーン­ブルン宮殿には日本庭園があります。これは大正2年(1913年)にフラン­ツ・フェルディナント大公(サラエボ事件で殺害されたオーストリア皇太子)が日本訪問­から帰国後造営させたもので、オーストリアの庭師に見よう見まねで作らせたも­のであ­ります。
1892年、約1年の歳月をかけて世界一周の見聞旅行に出かけ、その途上で日本を訪れ­ております。
この時、フランツ・フェルディナント大公(オーストリア皇太子い)は日本の風物や伝統­文化などを詳細に手記に記しており、これは後にまとめられて出版されています。
オーストリア皇太子の日本日記という題名で講談社学術文庫から翻訳されて日本でも発売­されております。

皇太子は「海外を見聞してみたい」と思うようになっていきました。
1891年、ロシア皇帝と謁見しにペテルブルグを訪れたのがきっかけになったようです­。「異質な国民、民衆、文化、民俗についての知見を獲得し、異国の芸術を鑑賞し、さら­には、汲めども尽きない異郷の地の自然に肌で接したい」と思うようになった皇太子は、­世界一周の見聞旅行に出かけます。そして、その訪問先の1つが日本だったのです。
熊本、下関、宮島などを経た後、京都、大阪、奈良、大津などを訪問。
その後、東京に赴き、明治天皇に謁見。政府から大歓迎をうけもてなされました。
日光東照宮も訪問し、そこでは、かつての会津若松藩主であり、宮司になっていた松平容­保公に迎えられました。(薩摩、長州等主体の新政府からはよくは思われていませんでし­たが)

ちなみに松平容保公の曾孫である徳川恒孝氏は養子で徳川宗家に入り、徳川宗家18代目­の当主となられたわけですが。奇遇にも18代目当主のご長男(家広氏)の方とは、当方­は仕事でお会いした事がございます。

大正2年(1913年)に、日本の庭園が忘れられなかったオーストリア皇太子がオース­トリアの庭師にみようみまねで造営させました。
その翌年、ボツニアのサラエボにてセルビア人青年により、オーストリア皇太子は暗殺さ­れました。(サラエボ事件)
それにより第一次世界大戦勃発!!そして敗戦!
オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後は日本庭園は荒廃し、誰ともなしに「アルプス庭園­­」と呼ばれるようになったが、平成8年(1996年)にここを訪れた日本人が日本庭­園ではないかと­指摘により発覚。

その後調査が進められた結果、手水鉢と思われる石など見つかり、日本庭園と­いうこと­が断定されました。
これを受け平成10年(1998年)、日本から庭師を招いて枯山水の日本庭園­として­修理復元されました。

モナコ公国にある日本庭園? 故グレース・ケリー公妃ゆかりの庭園!

モナコ公国にある日本庭園? 故グレース・ケリー公妃ゆかりの庭園!

モナコで発見した日本庭園。世界にある日本庭園は、これが日本庭園??と思えてしまう­­­ものも多いが、この日本庭園は程度が高いものであった。 モナコ公国を訪問した際に撮影。ニースから電車で25分程の距離である。この­日本庭­園は、アメリカ出身の女優で公妃であった故グレース・ケリー公妃が生前に所望さ­れて­いたもので、公妃が1982年に亡くなられた後、故レーニエ3世公が亡き公妃を偲­ば­れて日本庭園の造園を計画され、1994年に開園したものです。ラブラブ!

モナコ以外にも今までに世界にある日本庭園を数多く訪れてきました。パー
1.フィリピン・マニラ
2.オーストリア・ウイーン
3.ドイツ・ミュンヘン
4.イギリス・ロンドン
5.スリランカ・キャンディー

他にも数多く日本庭園が海外にあります。
多くは日本から庭師が赴き、造ったものですが。

オーストリア・ウイーン・ハプスブルク家の宮殿・シェーンブルン宮殿内の日本庭園

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ウイーンのシェーンブルン宮殿には、日本庭園があります。2年前訪問時に発見したのですが、1913年頃、ちょうど第一次世界大戦が勃発する前に出来たものです。15年程前に日本の庭師により修復されたものです。かのハプスブルク家の人々も愛した日本庭園。大戦後、帝国はまもなく崩壊しましたが。


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