国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

海外における日本の援助

タイ・バンコク・日本のODA援助で出来た橋。日本のODA援助に対しての感謝の碑

【Thai-Japanese bridge in Bangkok】
いたるところに掲げられる日本からのODA援助に対しての感謝の碑】
タイは戦後、日本政府が多額のODA援助(資金と技術双方、日本が最大のODA援助国)をしてタイの発展に貢献してきました。
道路、橋、下水道、建物、空港、地下鉄等。
これらにタイの人々は非常に感謝しており、下記写真にあるような日本の協力によって建てられたという事が分かる旨をプレートで記載等しています。

日本政府は今までにタイだけでなくアジア各国、アフリカ、中東、中南米、東欧、旧ユーゴ諸国、バルト三国等にODA援助をしてきました。(ほとんどの国が日本が最大のODA供与国です。)
日本の近隣の極一部の諸国をのぞいて日本の援助、助力に対しての感謝を示すためにそれがわかる碑をもうけています。

海外でのODA援助は日本にとっても利点があり、
対日感情がさらによくなることで、外交に関しても優位に働き
日本企業の海外進出、投資も入りやすくなっています。

また、建設関係は日本の大手や準大手のゼネコンが参入しやすく
なっています。

※撮影場所は
タイ・バンコク市内シーロム地区
BTSサラデーン駅から地下鉄シーロム駅に向かう途中にある橋。

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天皇皇后両陛下!タイのバンコクを弔問のために御訪問!タイの人々から大歓迎(奉迎)で迎えられる

【タイの人々に温かく迎えられる両陛下】
Many Thai people warmly welcomed the Japanese emperor and empress
天皇皇后両陛下は無事に弔問を終え、1泊バンコクでして本日、バンコクより政府専用機にて帰国されます。

現場には現地駐在の日本人も多く見かけましたが、それ以上にタイ人が多く来ていました。(目視では500人くらい)
タイでは王室は非常に尊敬されています。昨年10月にプミポン国王が崩御されてから政府機関の人間は1年喪に服し、勤務時でも上下黒の服を着用しています。

一般の人々でも上下黒もしくは華美でない服装で喪にふくしているいる人々は多いです。

先の大戦下でアジアで完全な独立国だったのは日本とタイのみです。そして同じ枢軸国側として戦い、イギリスを駆逐するための日本軍のマレー攻略やビルマ攻略の際に、国境付近の土地を使用させてもらい(日本軍が駐留)、食料補給等の支援を受けていたのは事実です。

真珠湾奇襲とともにマレーやビルマ攻略が迅速に進んだ背景には、日本軍が勇敢で強かったのはもちろんですが、現地マレー人やビルマ人の内からの協力、そしてタイの協力があったからでもあります。

戦後、わが国はタイに多額のODA援助(資金と技術双方、日本が一番のODA援助国)をしタイの発展に寄与してきました。

日本の皇室とタイの王室は非常に長い間、親密な関係にあり、貿易面、人的交流においても兄弟といってもよい関係にあります。

両国の関係が今後も末永く良好である事を願います。

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ブータン・パロ!農業の父、ダショーとして尊敬されている日本人・西岡京治氏のお墓

【ブータンの農業の父・ダショーと呼ばれる日本人・西岡京治氏】
ブータンが親日国というのは事実ですが、その最大の要因はブータンの農業の父・ダショーと呼ばれる日本人・西岡京治氏の功績だと現地踏査の結果わかりました。

西岡氏は日本統治時代の昭和8年(1933年)に朝鮮の京城(現在のソウル)で解剖学者の西岡辰蔵・利恵夫妻の長男として生まれました。

大阪府立大学、大学院卒業後、高校の教師として勤めた後に、昭和39年(1964年)に海外技術協力事業団(現・国際協力機構)のコロンボ・プランの農業指導者として夫人とともに赴任。

ブータンに赴任当初は、インド人が大半を占める農業局から冷遇を受け、試験農場すらまともに用意されませんでした。

切磋琢磨しながらも、日本から導入した野菜の栽培および品種改良、荒地の開墾など、ブータンの農業振興に尽力しました。
西岡氏の誠実な人柄と常にブータン人の立場でものを考えは、ブータン人の支持者を増やし、3代国王にも認められ、ボンデにデモンストレーション農場を造ることができました。

西岡氏の振興策は援助側の一方的な施策の押し付けではなく現地の実状に即した漸進的なものでした。

当初2年の赴任の予定がブータン側の要望で平成4年(1992年)に59歳で氏が敗血症で亡くなるまで28年間に引き延ばされてました。(人生の半分近くはブータンに居住)

昭和55年(1980年)に西岡氏は4代国王より最高の爵位である「ダショー」を授かり、同国において唯一にして史上初の外国人受爵者となりました。

西岡氏が亡くなられた平成4年(1992年)3月26日にブータン王室およびブータン政府によって西岡京治の国葬が執り行われ、遺体は夫人の意向に従ってパロ盆地が見渡せる丘に埋葬されました。

平成22年(2010年)に在留邦人有志により、再整備がおこなわれました。

仏塔にて合掌させていただきました。

一個人ででここまで国を動かすのはすごいことです。

西岡氏に関しては、若い世代や僻地に住み、教育を受けてない人々以外には絶対的な知名度ど人気を誇っており、ブータンの人々から「ダショー・ニシオカ、ニシオカさん」と呼ばれています。

28年間にわたって日本から導入した野菜や米の栽培および品種改良、荒地の開墾など、ブータンの農業振興に尽力しました。

日本から持ち込んだものとして
ビニールハウス、有刺鉄線などもあります。
ブータンの農業発展に多大な貢献をした西岡氏は今もなお、ブータンの人々の中で語られています。

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ブータン・ティンプーにあるJICAの事務所

ブータンの首都のティンプー市内にあるJICAの事務所を訪問。
ブータンが親日国である理由としてJICAの現地での援助活動がかなり大きいです。
28年間ブータンに住みブータンで亡くなられた西岡さんはブータンの農業技術発展に大きな貢献をして、国王から最高位の位を与えられましたが、ブータンでは知らない人(子供を抜かして)がいないほど有名な方です。

世界各地発展途上国を訪れていると日本の経済援助や人道支援、技術援助などがいたるところでされています。JICAの方々とは今までに多く交流してきましたが、JICAの方々のおかげで世界での親日家が増えているのは事実です。

これは、日本にとっても利益になることです

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台湾で神様になった日本人!森川清治郎巡査が祀られる嘉義県の富安宮

旅のWEBメディア「たびねす」に記事寄稿!今回のお題は、台湾で神様になった日本人!森川清治郎巡査が祀られる嘉義県の富安宮

親日家が多い台湾。そんな台湾で尊敬される日本人の1人が森川清治郎巡査です。日本統治時代1897年に渡台し、嘉義県副瀬村の派出所勤務となった巡査は、治安改善や教育改善等、村の発展に貢献。村の中心にある富安宮は、森川巡査が亡くなった後に巡査を慕う地元の人々により建てられ、巡査は土地神として祀られています。

今回は、台湾の人々に尊敬されている森川清治郎巡査が祀られる富安宮をご紹介いたします。

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たびねす記事

タイ・バンコク・日本からのODA援助に対しての感謝の碑(地下鉄)

タイは他のアジア諸国と同じように日本が最大のODA援助国です。
タイのバンコクはBTS高架電車は1999年、地下鉄は2004年に開業。

地下鉄に関して、日本国政府が資金と技術援助をしたのですが、日本のODA援助に対しての感謝の碑。
地下鉄駅全てにあります。

撮影場所は地下鉄スクンビット駅。

日本は今までアジア各国、東欧、バルト三国、旧ユーゴ諸国、中東、アフリカ、中南米、太平洋等諸国に多大なODA援助をしてそれら国々の発展に寄与してきました。
極一部(某2国)をのぞいてほぼ全ての国で日本のODA援助に対しての感謝の碑を設置して、日本からの援助で出来た旨を国民に伝えています。

日本の血税から出たODAの援助金。(無償援助も多いですが、有償援助も結構ある)
これによりそれら国々の対日感情が向上、外交で有利に働く、日系企業の経済活動も優先される等の利点もあります。

資金は日本からの拠出金、建設は日本のゼネコンが建設するなど。日本のゼネコンに金が落ちてもいる。

世界各地でこういった日本のODA援助に対しての感謝の碑を見て画像と映像におさめてきました。

ミャンマー・ヤンゴン日本車大人気!昭和時代の日本車集結!海外日本車市場流通調査!

ミャンマーはかつてビルマと呼ばれた国です。ヤンゴンはかつてラングー­ンと呼ばれ、日本人にも馴染み深いくでした。

先の大戦では、一時期、日本は、ビルマを占領。多くの日本人が駐留した場所です。

ヤンゴン郊外に日本人墓地があるのですが、慰霊訪問もさせていただきました。

ヤンゴン市街地は隈なく歩きましたが、昭和時代の日本車が数多く走っており、懐かしさ­を覚えたものです。

ヤンゴンの人口は市域を合わせて410万人程。それゆえ街中は活気に満ちております。
日本人墓地に行く際に、軟禁されていたスーチーさんの家も通りました。

戦前~戦中、日本に留学していたビルマ人が多くおりましたが(スーチーさんの父親など­)
それらが、戦後のビルマをつくりあげました。
戦後は、軍事政権のもと、中国共産党と強い結びつきがありました。
しかし、ビルマの人々は、心の底では日本と仲良くしたいという気持ちは強かったのです­。
ミャンマーはこれから、民主化が進んでいくと思いますが、これから日本との結びつきも強くなっていきます。日本の資本もこれからさらに進出しやすくなると思います。

実録【世界中で尊敬される日本】セルビア・ベオグラード・日本政府から寄付された新車バス93台!

セルビアのベオグラード市内で日の丸発見!日本から寄付されたバス。
1999年のNATOによる空爆、経済制裁により、セルビアは経済疲弊しました。
そこに救いの手を出したのが日本なのです。バスは93台程寄付、病院施設、橋や道路なども日本の援助で建設。

セルビアがその後、洪水に見舞われた時も、日本は援助いたしました。それだからか、バスの運転手、横にいたセルビア人青年、道を尋ねて、英語は通じずとも親切に対応してくれると思いました。対日感情は良い国です。

【日本政府がブルガリアに50本の桜を贈呈した事に対する記念碑】世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第5話!

【日本政府がブルガリアに50本の桜を贈呈した事に対する記念碑】

場所はソフィア市内にあります。(現地にて撮影)春になれば桜が咲きます。
親日的な国であるブルガリア!様々な理由があります。ブルガリアと日本の関係は、19世紀までさかのぼります。19世紀末より公式関係にありました。
第一次世界大戦では日本は連合国側にて参戦、ブルガリアは枢軸国側で敵対関係にありましたが、直接的な交戦はありませんでした。第二次世界大戦下では、日本とブルガリアは同じ枢軸国で味方同士でした。
しかし、1944年9月のブルガリアクーデター(英語版)により、ブルガリア王国政府が枢軸国から離脱したため、国交は断絶されました。戦後、旧ソの影響を受けて共産社会主義国家として歩んだのですが、1959年9月に15年ぶりに国交が回復されました。
共産社会主義体制当時からブルガリアは親日的であり、冷戦中も両国は敵対関係になることなく良好な関係を維持してきました。これは、周辺のハンガリー、チェコ、スロバキア、ルーマニア、ポーランド等の国々も同じです。
ソフィアで宿泊したマリネラホテルが1979年当初、日本政府のブルガリア政府観光庁への支援もあり、日本の御三家ホテルであるニューオータニホテルが建てたとお伝えしました。(設計は黒川紀章)ホテル内部には立派な日本庭園もあり、人々を魅了しています。
現在、在ブルガリア日本人は140人程、在日ブルガリア人は400名程です。年間にブルガリアを訪れる邦人の数は11000人程。そのうち9000千人は観光で訪れています。
ブルガリアでは日本の文化に関心が持つ人々が多いです。これは、欧州全土、特に東欧、バルト三国、南欧です。(実際に現地視察調査して分かった結果です。)
ブルガリアでは、琴欧州でも有名な相撲・欧州で人気を博している剣道・茶道・漫画とアニメ・俳句などをおこなう団体が数多くあいります。現地訪問した何人かのブルガリア人女性に話しかけられましたが、日本の文化やア二メに興味があるブルガリア人でした。

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【文章&写真】

〚略歴〛タイ⑬

国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。

 

上記記事に関しての質問や問い合わせ、取材、記事寄稿依頼、講演依頼等ありましたら

下記までご連絡ください。

大川原 明(オオカワラ アキラ)

E-mail:last-samurai-akira@hotmail.co.jp

携帯電話:090-6078-6677





 

フィリピン・マニラ・セブ!日本のODA援助で建設された橋(マルセロ・フェルナン橋)!

フィリピンのセブ。中心のセブシティーがあるのがセブ島。空港とリゾートが立ち並ぶのがマクタン島です。この両島を結んでいる橋がマルセロ・フェルナン橋(第二マンダウエ・マクタン大橋です。)
この橋は、日本のODAによる資金と日本の技術援助により建設された橋です。橋の長さと高低差があり、橋脚もしっかりしています。

フィリピンにある長大なプレストレスト・コンクリート橋(エクストラドーズド橋)。マクタン・セブ国際空港やビーチリゾートのあるマクタン島のラプ=ラプ市と、セブ島のマンダウエ市とを結ぶ。セブ市を中心とするフィリピン第二の大都市圏メトロ・セブの交通網の一部をなす。
マクタン島とセブ島の間には1973年にマクタン=マンダウエ橋が架かっているが渋滞が激しいため、二本目の橋として1999年8月に開通した。橋の長さは1,237mで、中央径間は185m。4車線の車道と歩道がある。フィリピンではもっとも幅が広く長い橋の一つであり、日本の円借款と日本企業の施工により完成した。橋の名は、セブ市の有力な政治家で上院議員でもあるマルセロ・フェルナンの名にちなむ。

そんな中、日本にたいする感謝の気持ちをこめてこのような碑があります。フィリピンにはこのような日本への感謝の碑をいたるところで見ることが出来ます。
今まで世界各地を訪問し、タイ、ラオス、ベトナム、スリランカ、バングラデシュ、パラオ、コソボ、セルビア等でこれらの碑をみて撮影をしてきました。