国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

海外での日本人の偉業

バングラデシュの首都のダッカ!日本由来のリキシャ

人口密度の高い事で知られる首都のダッカ。宿泊した中級ホテルの部屋が10分に1回の割合いで停電になったのがびっくりしました。インフラが整っておらず、日本のJICAなどの団体がバングラのために尽力。

数年前にダッカの高級住宅街&外国人居住区(東京でいう青山)のイタリア料理のレストランをISに感化されたイスラムの過激派集団が入り込み、日本人を惨殺。
治安的には決して良好ではなく(夜間に銃器を使用した強盗被害が多発するなど)素人の単独渡航はおすすめしませんが。

ダッカ市街地では
毎日のようにホッタールと呼ばれる政治デモがおこっています。
政治情勢に関しても決して安定した国ではないのですが
日本人に対しての感情は頗る良く、親日国であると私は断言できます。

ダッカ滞在時にリキシャと呼ばれる日本の人力車が起源の乗り物の運転手と直接交渉し、5日間色々な場所に案内してもらいました。

明治以降、日本の人力車は世界に輸出されました。
その中で日本の人力車は自転車を前につけたサイクルリキシャ、モーターをつけたオートリキシャ(タイでいうトゥクトゥク)が東南アジアや南アジアで広まっており、現地でリキシャやオートリキシャと呼ばれています。

日本人が襲撃されたグルシャン地区のイタリア料理のレストランのすぐ近くに北朝鮮政府直営の「平壌アリランレストラン」があり、夜訪問しましたが、懐かしいものです。

ダッカまでは
タイのバンコクのスワナプーム国際空港よりTG(タイ航空)を利用して往復。

世界で活躍する日本製品!欧州マルタ共和国空港内のヤマハのピアノ!

欧州の小国マルタ共和国を訪問。空港内でヤマハのピアノを発見しました­。
ヤマハは。明治時代の創業以来の事業であるピアノ製造をはじめとする伝統的な楽器事業­は国内トッ­プブランドでピアノ生産量では世界シェア1位。楽器は機械的な面での質の­良さから、海­外においても非常に知名度のあるブランドとなっている。

タイのプラーニン(仁魚)とは?天皇陛下が皇太子時代に送った?

タイ人大衆に食されれるプラーニン。
タイ語でプラーは魚。仁は陛下の明仁の御名前から1字をとりました。プラー仁

今上陛下が皇太子時代にタイを行幸された際に、一昨年、崩御されたタイのプミポン国王からタイの食料事情の悪さについて相談を受け、ティラピアを50匹タイに寄贈しました。
タイ政府は、それを養殖し、安く市場で流通させる事に成功し、タイの国民的食用魚になりました。

ティラピアはタイ名でプラーニン(仁)と名付けられ、現在も多くの人々に食されています。

もともとアフリカと中近東に分布したが、食用にするため世界各地の河川に導入されました。
味は白身であっさりしていて美味です。日本では沖縄などで自然繁殖。日本での流通名として、クロダイにも似ているが、イズミダイと呼ばれることもあります。

今上陛下は魚の研究者でもあり、魚に精通されている方です。国内外で研究論文を発表しています。

現在では、若い人はプラーニンの由来を知らない人々がほとんどですが、古い人々は今上陛下が送った魚であることを知っている人々が多いです。

【海外で尊敬される日本人】ブータン・パロ!西岡京治氏のお墓!農業の父、ダショーとして尊敬される日本人!

【ブータンの農業の父・ダショーと呼ばれる日本人・西岡京治氏】
ブータンが親日国というのは事実ですが、その最大の要因はブータンの農業の父・ダショーと呼ばれる日本人・西岡京治氏の功績が非常に大きいです。

西岡氏は昭和8年(1933年)に朝鮮半島の京城(現在のソウル)で解剖学者の西岡辰蔵・利恵夫妻の長男として生まれました。

大阪府立大学、大学院卒業後、高校の教師として勤めた後に、昭和39年(1964年)に海外技術協力事業団(現・国際協力機構)のコロンボ・プランの農業指導者として夫人とともに赴任。

ブータンに赴任当初は、インド人が大半を占める農業局から冷遇を受け、試験農場すらまともに用意されませんでした。

切磋琢磨しながらも、日本から導入した野菜の栽培および品種改良、荒地の開墾など、ブータンの農業振興に尽力しました。
西岡氏の誠実な人柄と常にブータン人の立場でものを考えは、ブータン人の支持者を増やし、3代国王にも認められ、ボンデにデモンストレーション農場を造ることができました。

西岡氏の振興策は援助側の一方的な施策の押し付けではなく現地の実状に即した漸進的なものでした。

当初2年の赴任の予定がブータン側の要望で平成4年(1992年)に59歳で氏が敗血症で亡くなるまで28年間に引き延ばされてました。(人生の半分近くはブータンに居住)

昭和55年(1980年)に西岡氏は4代国王より最高の爵位である「ダショー」を授かり、同国において唯一にして史上初の外国人受爵者となりました。

西岡氏が亡くなられた平成4年(1992年)3月26日にブータン王室およびブータン政府によって西岡京治の国葬が執り行われ、遺体は夫人の意向に従ってパロ盆地が見渡せる丘に埋葬されました。

平成22年(2010年)に在留邦人有志により、再整備がおこなわれました。

仏塔にて合掌させていただきました。

一個人ででここまで国を動かすのはすごいことです。

西岡氏に関しては、若い世代や僻地に住み、教育を受けてない人々以外には絶対的な知名度ど人気を誇っており、ブータンの人々から「ダショー・ニシオカ、ニシオカさん」と呼ばれています。

台湾で神様になった日本人!森川清治郎巡査が祀られる嘉義県の富安宮!世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第7話!

台湾で神様になった日本人!森川清治郎巡査が祀られる嘉義県の富安宮!世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第7話!

親日家が多い台湾。そんな台湾で尊敬される日本人の1人が森川清治郎巡査です。日本統治時代1897年に渡台し、嘉義県副瀬村の派出所勤務となった巡査は、治安改善や教育改善等、村の発展に貢献。村の中心にある富安宮は、森川巡査が亡くなった後に巡査を慕う地元の人々により建てられ、巡査は土地神として祀られています。

今回は、台湾の人々に尊敬されている森川清治郎巡査が祀られる富安宮をご紹介いたします。

土地神として富安宮に祀られる森川清治郎巡査

土地神として富安宮に祀られる森川清治郎巡査

写真:大川原 明

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台湾中西部の木材や製糖業が盛んな産業都市である嘉義市。嘉義の鉄道駅からタクシーで30分程西に進んだ所にある東石郷副瀬村に、日本人の森川清治郎巡査が土地神として祀られる富安宮があります。

日本ではほとんど知られていない森川巡査ですが、台湾では多くの人々が知っており、尊敬しています。毎日のように観光バスが押し寄せ、多くの台湾人が富安宮を訪れています。

※タクシーは、嘉義の鉄道駅前にとまっているメータータクシーを利用し、運賃は700~800元程。帰りは、富安宮周辺にタクシーはとまってませんので、富安宮の管理人にたのみタクシーを呼んでもらいましょう。

村の発展に貢献

村の発展に貢献

写真:大川原 明

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日本統治時代1897年(明治30年)に台湾に渡り、嘉義県東石郷副瀬村の派出所勤務となった森川巡査は、当時治安が悪かった村の治安改善に尽力しました。また、識字率が非常に低かった村において、教育の重要性を認識し、私費を投じて、日本から教材を取り寄せ、教師を雇い寺子屋を開き、識字率の向上に貢献しました。

自らを顧みず海で溺れかけている村人を助ける

自らを顧みず海で溺れかけている村人を助ける

写真:大川原 明

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ある時に、海の岩場に取り残されて身動きが取れなくなっている村人がいました。森川巡査は、自らを顧みず危険な海に入り負傷しながらも村人を助けました。こういった自己犠牲の精神は村人達の尊敬される要因になったのです。

責任を感じ自決した巡査

責任を感じ自決した巡査

写真:大川原 明

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台湾総督府が村に漁民税を制定した際に、役所に減税を求めるも聞き入れられず叱責を受けたのですが、村人の要望に応える事が出来なかった事に責任を感じ、巡査は拳銃を使い自決しました。後に巡査を尊敬していた村人達により富安宮が建設され、巡査は巡査は土地神として祀られたのです。

巡査の死後、1923年に副瀬村や近隣にコレラ脳炎などの伝染病が流行しました。当時の村長の夢に巡査が現れ、「環境衛生に心がけ、飲食に注意し、生水、生ものを口にせぬこと」ということを告げられました。内容を村民に伝え、村民がこれを守ったところ、伝染病の流行を免れることができたのです。

日本統治時代に開園した嘉義公園

日本統治時代に開園した嘉義公園

写真:大川原 明

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富安宮と併せて訪れていただきたいのは、嘉義市内にある日本統治時代1911年(明治44年)に開園した嘉義公園です。公園内に嘉義神社が置かれたのですが、今も当時の社務所や灯篭、手水舎が残ります。社務所は嘉義史跡資料館になっており、貴重な資料が展示されています。

公園内には射日塔と呼ばれる12階建てのビルが公園内にあるのですが、展望台から嘉義市内の景色を見る事が出来るので展望台にのぼってみるとよいでしょう。公園の敷地は広大ですので、脱水症状にならないようにお水を持参することをお薦めします。

※嘉義公園は嘉義の鉄道駅から徒歩25分程。歩いていけないこともないのですが、タクシーを利用するとよいでしょう。

映画「KANO」の関連地としても知られる嘉義

いかがでしたか?台湾で尊敬される日本人の1人である森川巡査が土地神として祀られる富安宮。是非とも訪れていただきたい場所です。

嘉義県は、2014年の台湾映画「KANO」の舞台としても有名です。「KANO」は、日本統治時代に嘉義市に実在した嘉義農林学校野球部が昭和6年(1931年)の日本の甲子園大会で準優勝を遂げた実話を元に製作された映画です。せっかくなので映画「KANO」の関連地も併せて訪れるとよいでしょう。

【世界で人気の日本庭園】カナダ・バンクーバー・新渡戸稲造記念日本庭園!

【カナダで客死した新渡戸稲造】
私の海外での渡航調査は多岐にわたりますが、調査のうちの一つが海外日本関連物調査です。(いずれ本として出版します)
新渡戸稲造は5000円札の肖像としてよく知られていますが、どんな人物だったのか知らない人も多いと思います。
新渡戸稲造は1862年9月1日(文久2年8月8日)に盛岡藩士で藩主南部利剛の用人を務めた新渡戸十次郎の三男として生まれました。
新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、そんな環境で育った稲造は、子供の時から西洋への憧れをいただいていました。新渡戸家のかかりつけ医師から英語を学びました。
札幌農学校(後の北海道大学)の2期生として入学。
稲造はこの頃から目を悪くし、眼鏡をかけるようになりましたた。やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまいます。
数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取りました。
稲造にとってそれはあまりにも大きすぎる悲しみであったため、鬱病がさらに悪化してしまいました。
その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出ます。
その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、『サーター・リサータス』(Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となり生涯に幾度となく読み返したようです。
東京帝国大学に入学するも当時の農学校に比べ、東大の研究レベルの低さに失望して退学する。1884年(明治17年)にアメリカに私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。
日本についての講演をアメリカ国内でした時に、聴衆の一人であったメアリー・エルキントンが稲造を見初めて告白をしました。(後の稲造のアメリカ人妻)
その後、ドイツに留学。
世界的に有名な著作である『武士道』を英文で書き上げて世界に日本人の武士道とは何たるかを広めました。
日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えました。
台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命されました。
民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献しました。
(台湾の糖業に関しては昨年10月の訪台時に高雄の台湾糖業博物館(台湾製糖跡地)に現地踏査しました)
その後、東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。
1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な稲造が日本人として事務次長のひとりに選ばれました。
稲造らはらは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されています。
1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同。しかし、フランスの反対にあい、結局実現しませんでした。同年、バルト海のオーランド諸島帰属問題の解決に尽力。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任。
日本が国際連盟を脱退した1933年(昭和8年)の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するためカナダに渡った稲造は会議終了後、当時国際港のあったカナダ西部のビクトリアで倒れて祖国に帰ることなく亡くなりました。
UBC(ブリティッシュコロンビア大学)を訪れた最大の理由が
カナダで亡くなった新渡戸稲造の記念日本庭園があるからです。
大学の敷地内に1960年に出来た庭園です。
新渡戸稲造との関係性もあり
盛岡市とバンクーバー市は姉妹都市提携を結んでいます。

バンクーバーにある新渡戸稲造記念庭園
【海外日本庭園】
今まで世界各地の日本庭園を訪問しましたが、日本庭園は海外で非常に評価が高いです。
バンクーバー市内にあるブリティッシュコロンビア大学内にある日本庭園。カナダで客死した新渡戸稲造を記念して1960年に日本国外で多くの日本庭園を手掛けていた森歓之助が手がけた日本庭園です。
新渡戸記念庭園(Nitobe memorial garden)と名づけられました。
北米には多くの日本庭園がありますが、程度の高さは北米随一と呼ばれている庭園。
2009年7月に天皇皇后両陛下がカナダに行幸啓の際にこの日本庭園も訪れています。
平日でしたが多くの外国人が訪れており、日本庭園の美しさに感動していました。
日本人の自分からみてもやはり日本庭園は非常に美しいと実感できるものです。
今まで海外で訪れた日本庭園は下記。
1.イギリス・ロンドン
2.ドイツ・ミュンヘン
3.モナコ
4.オーストリア・ウィーン
5.フィリピン・マニラ
6.タイ・バンコク
7.ブルガリア・ソフィア

マルタ共和国・日本海軍戦没者慰霊碑(墓地)!昭和天皇が皇太子時代に行啓(御訪問)&文久遣欧使節団

日本海軍・第二特務艦隊戦死者之墓。(日本人墓地・慰霊碑)
第一次世界大戦中に、日本とイギリスは日英同盟を結んでおりまし­た。
第一次世界大戦時に、日本はイギリスの要請を受け、地中海に艦隊を派遣。
ドイツやオーストリアの潜水艦の攻撃をうけたのですが、駆逐艦榊の乗務員計78名が死­傷いたしました。
マルタは、かつてイギリス領でしたが、カルカーラに英国海軍の墓地があり、その中に、­日本海軍戦死者の墓があります。
墓地の奥にあるのであすが、慰霊・合掌させていただきました。

マルタ共和国は、南ヨーロッパの共和制国家。イギリス連邦および欧州連合(EU)の加­­盟国である。公用語はマルタ語と英語、通貨はユーロ、首都はバレッタ。地中海に位置­す­る島国です。
イタリアのシチリア島から船で行くことも出来ます。

イタリア・シチリア島の南に位置する。面積は316km²で、東京23区の面積622­­.99km²の半分の大きさです。
カルタゴ、共和政ローマ時代に既に地中海貿易で繁栄し、その後一時イスラム帝国の支配­­に入ったこともあります。それに抵抗して戦ったマルタ騎士団がこの土地の名前を有名にしまし­た­。
小型犬のマルチーズの発祥の地であり、マルチーズの名はマルタに由来します。

日本との関係
1862年、1858年に英仏など5カ国と個別に締結された修好通商条約の修正を求め­­て派遣された文久遣欧使節団が訪問しています。
1917年6月11日に大破した駆逐艦榊の59人の戦死や傷病による戦死者の「大日本­­帝国第二特務艦隊戦死者之墓」があります。
1921年4月、皇太子時代の昭和天皇が訪問しています。

マルタは地中海の中央部、シチリア島の南約93kmに位置する。主要な島はマルタ島と­­ゴゾ島、コミノ島の三つである。海岸線が変化に富むため良港が多い。地形は低い丘陵­や­台地からなり、最高地点はマルタ島内の標高253mの丘陵です。
気候は地中海性気候のため、冬は温暖で雨が多く、夏は暑く乾燥しています。

台湾・嘉義市・嘉義神社!(日本統治時代建立・映画KANOの地)

日本統治時代、明治44年(1911年)に開園した公園です。公園内にはかつての嘉義神社(現在は忠烈祠)の名残が残っており、社務所はそのままの残っています。社務所内部は資料館になっており、貴重な資料が展示されています。

公園内は広く、見どころも多いですが日本的な香りのするものが多く残されているので
日本統治時代の匂いをかんじとってみるとよいでしょう。

善化駅(ぜんかえき)は、台湾台南市善化区にある台湾鉄路管理局縦貫線の駅。かつては台湾糖業鉄道玉善線、善化線が接続していました。
台南市のほぼ中央に位置するので、バス連絡で佳里、麻豆、玉井、烏山頭ダムなどへの要路を占めて居ます。

台湾・高雄・台湾糖業博物館【日本統治時代に創業の台湾製糖跡地】

【日本統治時代の痕跡】本日は高雄市内にある台湾糖業博物館を訪問。日本統治時代の明治34年(1901年)に三井財閥(主に三井物産)を中心にして設立された台湾製糖。台湾最初の新式機械製糖工場を建設し、明治35年(1902年)に操業開始。戦後、台湾企業が引き継ぎました。

工場は平成11年(1999年)2月に閉鎖となりましたが、そのままの状態で残してあります。日本統治時代から使われていた機械も多数あり、社員の住居として使われていた日本家屋が今も残っています。

親日国】タイ・バンコクMRTシーロム駅近く!日本のODA援助への感謝の碑

【親日国】タイ・バンコクMRTシーロム駅近く!日本のODA援助への感謝の碑Monument of thanks to ODA from Japan,Bangkokジャーナリスト大川原 明

親日国の中でも親日と呼ばれるタイ王国。
親日である理由は数多くありますが、そのうちの1つが日本からのODAによる資金と技術援助です。
JICAもタイの発展に貢献していますが、こういった日本の国際貢献が海外の人々の対日感情を良くしているのは事実です。

タイは戦後、日本政府が多額のODA援助(資金と技術双方、日本が最大のODA援助国)をしてタイの発展に貢献してきました。
道路、橋、下水道、建物、空港、地下鉄等。
これらにタイの人々は非常に感謝しており、下記写真にあるような日本の協力によって建てられたという事が分かる旨をプレートで記載等しています。

日本政府は今までにタイだけでなくアジア各国、アフリカ、中東、中南米、東欧、旧ユーゴ諸国、バルト三国等にODA援助をしてきました。(ほとんどの国が日本が最大のODA供与国です。)
日本の近隣の極一部の諸国をのぞいて日本の援助、助力に対しての感謝を示すためにそれがわかる碑をもうけています。

海外でのODA援助は日本にとっても利点があり、
対日感情がさらによくなることで、外交に関しても優位に働き
日本企業の海外進出、投資も入りやすくなっています。

また、建設関係は日本の大手や準大手のゼネコンが参入しやすく
なっています。

※撮影場所は
タイ・バンコク市内シーロム地区
BTSサラデーン駅から地下鉄シーロム駅に向かう途中にある橋。