国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

大東亜(太平洋)戦争・激戦地慰霊訪問

当時東洋一!台湾で今でも尊敬される八田興一が建てた「烏山頭ダム」

親日家が多い事でも知られる台湾。そんな台湾で尊敬される日本人の一人が日本人技師である八田興一です。八田興一が台南市に建てた烏山頭ダム。ダムは1930年の完成当時に東洋一の規模を誇るものでした。烏山頭ダム建設による灌漑整備によりダム周辺は台湾最大の穀倉地帯になりました。

今回は、台湾の教科書に載るほど台湾の人々に尊敬されている八田興一が建てた烏山頭ダムをご紹介いたします。

たびねす記事は下記をクリックしてご覧ください。
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たびねす記事

台湾・台南・飛虎将軍廟(杉浦茂峰兵曹長)【台湾で尊敬される日本人】

【台湾で尊敬される日本人の1人】台南の飛虎将軍廟
民間信仰の廟で日本軍人が神として祀られている廟です。日本の絶対国防圏であるサイパン島等のマリアナ諸島陥落後に、米軍による本土空襲が日に日に増しました。

日本統治の台湾においても、アメリカによる空爆が支那の遂川基地からの新竹空襲などがありましたが、本格的な空爆は、フィリピンの戦いのために第38任務部隊の艦上機が来襲した昭和19年10月12日に始まりました。このときに台湾沖航空戦が展開されています。
台湾では台南航空隊と高雄航空隊が活躍。

アメリカによるフィリピン・ルソン島占領後は陸上機も頻繁に来襲し、屏東や虎尾の製糖アルコール生成工場、高雄港、岡山航空廠を目標にしました。

昭和19年10月にアメリカによる台湾空襲が本格化する中、米軍との空中戦による墜落などで家屋への被害も少なくなかったのです。

そして、ここで祀られている飛虎将軍こと杉浦茂峰兵曹長21歳の飛行機が米軍機に迎撃するために出撃するも、攻撃をかわせず、被弾。杉浦兵曹長は、パラシュートで脱出することも可能でしたが、そのまま戦闘機を操縦士し、家屋のない田園地帯に墜落。

これは、住民を犠牲にすることを避けるために、杉浦兵曹長が自ら命を捧げたのです。

その後、現場となった付近の住民の枕元に、杉浦兵曹長の霊が現れるようになったために(夢でみる等)、台湾の住民が彼の献身をたたえる廟を1971年につくったのです。

台湾・高雄・日本統治時代に建てられた旧高雄市役所(現高雄市立歴史博物館)

【日本統治時代の痕跡調査】高雄市内の高雄市立歴史博物館。これは日本統治時代に建てられたコロニアル風建築の旧高雄市役所です。高雄で訪れるべき名所の一つです。

タイ・カンチャナブリー・日本軍敷設・泰麺鉄道!クウェー川鉄橋橋!

今も使われている鉄道!5年半年ぶりにタイとビルマ(ミャンマー)の国境地帯に近いカンチャナブリーを訪問しました。ここは、多くの方々がご存知だとは思いますが、先の大戦下において、ビルマへ軍需物資を運ぶために、日本軍により敷かれた泰麺鉄道の場所です。

連合国の戦勝国史観で語られている映画「戦場にかける橋」の舞台となった場所であります。
実際に連合国軍の捕虜を使い鉄道を敷設したのは事実です。そのほかに、賃金を払い現地タイや他の東南アジアの人々が鉄道敷設に関わりました。
バンコク郊外からビルマのタンビュッザヤまで結ぶ415キロの鉄道路線。
現在もカンチャナブリーから80キロ先のナムトックまで列車が分こうしており、人々の足となっております。

ちなみに一番最初に出来たのは、昭和18年2月にまず木造橋が出来ました。(3か月で出来た事で有名な橋)その2か月後には100メートル先に鉄橋が出来ました。
しかし、昭和19年2月~6月に連合国軍の爆撃により使用不能に。戦後、昭和25年に日本が再建したものが現在の鉄橋です。

多くの方がご存知だとは思いますが、靖国の遊就館に飾られている蒸気機関車はこの泰麺鉄道で実際につかわれていたものです。

いくつかの戦争博物館があるのですが、アメリカがかなり入り込んでいるのが分かりました。アメリカ、イギリスを始めとした連合国GHQが戦勝国史観で大袈裟にかかれているのは目にみえてわかりました。日本軍を何がなんでも悪者にしようと。
勝てば官軍、負ければ賊軍とはまさにこのことです。これは幕末の倒幕派VS佐幕派の戦いをみてもわかります。
日清、日露での日本の勝利は日本は悪くいわれません。それは勝者であるから。

しかし、事実な事は、日本軍が執拗に拷問したというのは嘘で極一部いう事を聞かない捕虜に対してだとは思いますが、コレラ等の疫病、伝染病で多くの人々が亡くなったのは事実です。

伝染病ですから広まりますからね。カンチャナブリーは本当に暑いです。自分も脱水症状を起こしそうになるくらい汗をかいたものです。猛暑の中の作業は確かに過酷であったとは思います。
かつての光景が脳裏をかすりました。

静岡県富士市憲法講演会!(改憲派)パネラーとして登壇!

静岡県富士市憲法講演会

と き:平成28年5月3日(火)    13:30~16:00 (開場 12:00)
ところ:富士市交流プラザ多目的ホール

主催:憲法改正を考える市民の会

後援:日本会議静岡、自民党富士支部

◎講師:江崎 道朗氏(評論家)
◎演題:「憲法制定に何があったのか~
GHQが日本国憲法に込めた意図とは」

国際ジャーナリスト大川原 明として登壇し、何故、日本に今、改憲が必要なのかを

海外61か国渡航で自分の足で集めてきた情報と証拠写真&動画を使用しパワーポイント

で作成した15分程の資料を用いて発表&解説

主には日本がうけている周辺諸国からの脅威。日本だけでなく、アジアの多くの国々

が脅威に直面している事を現地調査、取材で得てきた情報や証拠写真&動画を

もとに説明。

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海外戦跡地慰霊訪問&日本関連地取材へのご支援公募

先日、お伝えした海外戦跡地慰霊訪問&日本関連地取材でクラウドファンディングを利用し、支援を募ることをお伝えいたしましたが、審査が通りましたので公開募集させていただきます。

ご支援は3000円~10万円まで設定いたしました。ご支援はただ支援というものではなく、こちらからのお返しをおつけいたします。詳細は、下記ページをご覧くださいませ。
ご支援に関しては下記ページから入ってください。

いわゆる反脱原発派はチェルノブイリ視察で600万ほどの資金を集めましたが、愛国陣営も負けてはいられません。

日本が関連した先の大戦(第二次世界大戦)もしくは第一次世界大戦の戦跡地取材。一人の日本人として戦争で亡くなられた方々の慰霊をさせていただくとともに、戦争を知る世代が減る中、それを風化させないために、日本国民への周知活動に従事。また、海外に数多くある日本関連地を取材。

海外調査においては多額の資金がかかるために、今回、支援プロジェクトをたちあげました。(今までは自費で調査をしてきましたが)

目標金額に達成しない場合、支援表明いただいた方にはその額が戻されますのでご安心を。
目標金額に達成しましたら、プロジェクト成立となります。

質問等がありましたら、私までメールをいただければと思います。

支援プロジェクトは下記を参照クリック

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支援プロジェクト

マルタ共和国・日本海軍戦没者慰霊碑(墓地)イギリス軍墓地内・昭和天皇が皇太子時代に行幸の地

日本海軍・第二特務艦隊戦死者之墓。(日本人墓地・慰霊碑)
前述いたしましたが、第一次世界大戦中に、日本とイギリスは日英同盟を結んでおりまし­­た。
第一次世界大戦時に、日本はイギリスの要請を受け、地中海に艦隊を派遣。
ドイツやオーストリアの潜水艦の攻撃をうけたのですが、駆逐艦榊の乗務員計78名が死­­傷いたしました。
マルタは、かつてイギリス領でしたが、カルカーラに英国海軍の墓地があり、その中に、­­日本海軍戦死者の墓があります。
墓地の奥にあるのであすが、慰霊・合掌させていただきました。

タイ北部クンユアム!タイ日友好記念館!第二次世界大戦関連地訪問!現地ルポ!世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第3話!

タイ北部の小さな町、ビルマとの国境地帯に近い­­場所にあるクンユアムを訪問。そこ­にあるタイ日友好記念館。

クンユアムは、メーホーンソーンの南約65キロの場所にあります。かつては、日本軍が­­­駐留し、日本兵が野営を張ったり、現地のお宅にお世話になるなど、日本兵と現地タ­イ­人­の深い交流が結ばれた町です。
インパール作戦の失敗後、多くの日本兵がビルマ戦線で亡くなられましたが、戦争末期か­­­ら終戦後、多くの日本兵がビルマ国境を通り、同盟国であったタイ国内に敗残兵とし­て­入­ってきました。終戦後、枢軸国の一員で英米に宣戦布告していたタイも英米に従­わざ­るを­得なくなりました。
そんな中、ビルマからタイへ多くの日本兵が移動してくる中、コレラや飢え、傷病で亡く­­­なる日本兵は大多数おりました。
かつて隊をおいていたクンユアムを目指し、敗残兵と化した日本兵。クンユアムにつき、­­­クンユアムの人々の手厚いもてなしをうけました。治療、看病、食事や衣服提供等。
これは、それだけ日本兵の方々が現地タイ人に信頼されていたのもあります。慈悲深い精­­­神をもった人々が多いタイですが、死にそうになり困っている日本兵を見ていられな­か­っ­たのでしょう。
多くの日本兵がクンユアムでお世話になり、日本へ無事に帰国する事ができました。それ­­­ら、日本兵は、水筒やヘルメット、毛布等を世話になった家庭それぞれに残していき­ま­し­た。
そしてそれら家族はそれらを大切に保管しておりました。
それから50年程たった1995年にクンユアムの警察署長として赴任したタイ人が、か­­­つての日本兵とタイ人との交流に興味を持ち、私費を投じて、それらを集めて199­6­年­に博物館をつくりました。そして8年前にクンユアム市に管理が委託され今にい­たっ­てお­ります。
中には多くの展示物や写真があります。
クンユアムでお世話になった日本兵の中には現地タイ人と結婚し、それらの孫や曾孫が現­­­在、日泰の混血としているようです。

親日国パラオ!子供や会社に日本名をつけるかつての日本の委任統治領パラオの人々!なぜ日本名を?世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第2話!

子供や会社に日本名をつけるかつての日本の委任統治領パラオの人々!世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第2話!

【パラオとは?】

パラオは、太平洋に浮かぶ小さな国。かつて日本が国連に依頼され、委任統治しました。日本が統治する前は、ドイツの委任統治領であったのでした。しかし、第一次世界大戦でドイツが敗戦をした結果、日本が国連よりパラオの統治をゆだねられ、30年程日本の委任統治領であったところです。通称パラオは、太平洋上のミクロネシア地域の島々からなる国である。首都はマルキョク。平成18年(2006年)10月7日に旧首都コロールから遷都されした。
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パラオは、16世紀頃より、スペイン人が初めて渡来し、次いでポルトガル人、イギリス人がやってきました。パラオはその後、1885年にスペインの植民地下に入りました。これらのヨーロッパ人により天然痘などが持ち込まれ、また現地人に対する搾取が行われた結果、パラオの人口は90%程度減少したといわれています。1899年に、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却、パラオもこれに含まれ以降ドイツ植民地となりました。

【日本の統治】

1914年に第一次世界大戦開戦後、当時、日英同盟を結んでいた日本は、米英と同じ連合国側として参戦し、連合国は勝利をおさめました。日本軍は、第二次世界大戦とは違い、ドイツ軍と戦ったのですが、日本軍は海軍を派遣してドイツ軍と戦い、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領。第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領になったのです。

日本の統治が始まった後、首都のコロールには南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島における植民地統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住しました。コロールではそれら日本人が住んでいた痕跡が今でも残っており、時折、日本統治時代にパラオに住んでいた方が、パラオを訪れております。

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日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病 院、道路など各種インフラストラクチャーの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させてきました。また、日本統治の開始にともない日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになりました。

太平洋戦争末期に、アメリカ軍がパラオに侵攻してきた際に、南のアンガウル島やペリリュー島は激戦地となりペリリューでは日本人兵士約11000人が玉砕する(アメリカ軍死者は約8000人)程、激戦地となった。アメリカ軍が攻めてくる前に、日本軍はペリリュー島民を戦争の犠牲者にならないように本島へ移住させた。しかし、日本軍と一緒に戦うと島に残ったペリリュー島民も多くおりました。

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※上記写真はペリリュー島にある旧日本軍戦車

【親日国&パラオ共和国初代大統領は日系人】

今でもパラオは親日国であり、1994年独立の際は、尊敬する日本の国旗を真似て、国旗を作りました。初代大統領は日本人の血を引く日系人(現地人との混血)のナカムラ・クニオ氏です。日本はアメリカと並ぶパラオへの最大の援助国であり、それらへの感謝の碑をいたるところで発見します

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【親日国パラオ!自分の子供や会社に日本名をつける!?】

パラオ人は、日本統治時代に日本がした貢献に関して非常に感謝しており、非常に親日。日本、日本人を尊敬しております。そのため、自分の子供や会社、お店に日本名をつける人々が多いのです。
パラオ訪問時にタクシーを利用していると、タクシー運転手の証明書の名前が、YOSHIO(ヨシオ)という名前でした。著者が運転手に、「日本の血が入っているのか?」と尋ねると運転手は「いえ、純粋なパラオ人です。自分の父が日本が大好きで、尊敬する日本人の知り合いに自分の名前をつけてもらった」とのこと。

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他に、マラカル島を歩いていると、YOJIRO(ヨージロー)という自動車修理工場を見つけました。聞き取り調査すると、経営者はパラオ人。尊敬する日本(人)の名前を自分の会社名につけたとのこと。このように、この国では生粋のパラオ人が、日本人の名前を子供や会社につける事をしております。それだけ日本が尊敬、愛されているということです。

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【さいごに】

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いかがでしたでしょうか?日本は世界で非常に好かれた国である事は事実です。世界数多くの国々を渡り歩き、この目でみてきました。世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!シリーズはこれからも続々とアップしていきます。

【文章&写真】

〚略歴〛タイ⑬

国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。

 

上記記事に関しての質問や問い合わせ、取材、記事寄稿依頼、講演依頼等ありましたら

下記までご連絡ください。

大川原 明(オオカワラ アキラ)

E-mail:last-samurai-akira@hotmail.co.jp

携帯電話:090-6078-6677





大東亜戦争の真実・タイ北部慰霊の旅 タイ人に手厚くもてなされた日本兵 クンユアム・タイ日友好記念館訪問&パーイ日本軍敷設橋!国際ジャーナリスト大川原 明!現地取材ルポ!

大東亜戦争の真実・タイ北部慰霊の旅
タイ人に手厚くもてなされた日本兵
クンユアム・タイ日友好記念館訪問&パーイ日本軍敷設橋

【はじめに】

二年四か月ぶりに東南アジアの雄で親日国として知られるタイを再訪いたしました。タイは、かつて仕事で駐在経験がある国で、多くの場所を訪問いたしましたが、今回は、タイ北部での大東亜戦争での日本軍の関わりが深い事に着目し、今回は、それらに対しての調査と慰霊の旅を敢行。

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【かつて日本軍が駐留したメーホンソーン県】

かつて日本軍の第十五軍が駐留したメーホーソーン県。ビルマ方面への拠点となった場所です。タイは緩衝国の意味合いもあり、欧米列強の植民地にならず、アジアでは日本と同じく独立国でありました。同じ枢軸国側として参戦。日本はタイから土地使用、食料や水分補給等の助力を受け、現地ビルマからの内からの協力もあり、昭和十七年五月末にはビルマ全土を占領し、連合国軍を駆逐しました。

しかし、インパール作戦が失敗に終わり、戦況悪化。戦争末期もしくは戦後に、敗残兵としてビルマ戦線から逃れてきた日本兵の方々がタイとビルマ国境地帯でコレラ等の病気や飢えで亡くなりました。そのため、メーホンソーン県には数多くのビルマ戦線日本兵(将兵)慰霊の碑があります。そのうちの一つが左の写真です。メーホーソーン市街地外れにあるお寺ワット・プラノーンにあるビルマ戦線将兵鎮魂之碑です。

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 【日本軍が敷設したパーイの橋&中国国民党残党勢力の村】
メーホンソーン県にパーイという小さい町があります。チェンマイとメーホンソーンの中間に位置し、バスの休憩地点として栄えた町でもあります。周辺には中国国民党の残党勢力の村、リス族やラフ族の村もあります。写真は、パーイの中心街から4キロ程の距離にある中国国民党(KNT)の残党勢力の村。

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村の中には商店や飲食店があります。戦後、中国共産党と国民党は争い、中共が勝利し実権を握りました。その結果、蒋介石率いる部隊は台湾に逃れ、南西部にいた部隊はビルマに逃れました。
しかし、中国共産党とつながりを深めたビルマ政府軍に追いやられ、中国国民党の残党勢力はタイ北部に逃れました。彼らは、武装したまま、居座り集落を形成。麻薬売買(ゴールデントライアングルは有名)等で生計をたてておりました。
中国共産党の残党勢力(KMT)は、武装訓練もおこない武装したまま数十年がたちました。いつ大陸に攻めこんでもよいように機会を伺っていたようですが、一九八七年にタイ政府との交渉で、武装解除、タイ国籍取得。いまではほのぼのと暮らしております。隣には山岳少数民族リス族の村があったのでそちらも立ち寄りました。

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大東亜戦争中に、ビルマ攻略を容易にするために、日本軍はビルマとの国境付近の川に多くの橋を敷設しました。映画、戦場にかける橋で知られているカンチャナブリにある橋は有名ですが、他にもタイ国内には日本軍敷設の橋があります。
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このパーイのパーイ川にかかる橋は、大戦中に、日本軍が敷設。現地タイ人が象などを使い橋敷設に協力。大戦末期にインパール作戦で敗走した日本兵たちが逃れてきました。その際に、敵の進軍を阻むために日本軍はこの橋を燃やして壊しました。

※下記写真は、パーイの人々と日本兵が一緒に写る写真。※

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しかし、橋はパーイの人々にとって便利なものでした。橋がなくなった後に、現地の人々は、再び川を小船で渡らなければならなくなりました。(日本軍による橋の建設は、現地の人々にとっても非常に有意義なものであったのです。)多くの現地人により橋の再建がのぞまれ、戦後、他から橋を移築する形で再建。
しかし、1970年代に大きな洪水に見舞われ、橋が崩壊。その後、再建。
この橋は、タイ人に大人気の映画クーカムの撮影地となった場所でもあり、ここを訪れるほとんどのタイ人はしっております。このクーカムという映画は、大東亜戦争でタイに駐留した日本兵。礼儀正しく、武士道精神をもった日本兵たちが描かれ、日本兵と現地タイ人女性との恋の映画です。

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パーイはのどかな風景が広がっております。かつて、日本兵の方々もタイのこののどかな田舎の風景を楽しんだことでしょう。

【クンユアムと日本軍との関係】

クンユアムはタイの北部にあるミャンマー(ビルマ)との国境地帯にある小さな町です。タイ北部のミャンマーとの国境地帯は、大東亜戦争において日本と非常に関わりが深い土地です。かつて日本軍の第十五軍の部隊が駐留もしておりました。

(下記写真は、タイとミャンマーの国境地帯。険しい山々が連なる)
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クンユアムは、メーホンソーンの南約六十五キロの場所にあります。かつては、日本軍が駐留し、日本兵が野営もしくは現地のお宅にお世話になるなど、日本兵と現地タイ人の深い交流が結ばれた町です。
インパール作戦の失敗後、多くの日本兵がビルマ戦線で亡くなりましたが、戦争末期から終戦後、多くの日本兵がビルマ国境を通り、同盟国であったタイ国内に敗残兵として入ってきました。そんな中、ビルマからタイへ多くの日本兵が移動してくる中、コレラや飢え、傷病で亡くなる日本兵がかなり多くいました。かつて隊をおいていたクンユアムを目指し、敗残兵と化した日本兵。インパールからの敗走路は、行き倒れた日本兵の遺体が散乱し、白骨街道と呼ばれました。無事に辿りついた日本兵は、クンユアムの人々から治療、看病、食料や衣服提供等、手厚いもてなしをうけました。日本兵の方々もクンユアムの人々であれば助けてくれると思ったのでしょう。敗残兵といえば、極限状態にあり、気が立っており何をしでかすかわからないと恐れられるのが普通でありますが、クンユアムの人々はかつての日本兵との温かい交流を思い出し、温かく日本兵を受け入れたのです。村には当時五十~六十戸の民家と寺がありました。貧しい村ではありましたが、数多くの日本兵が救われ日本に帰国できたのです。
これは、それだけ日本兵の方々が現地タイ人に信頼されていたのもあります。慈悲深い精神をもった人々が多いタイですが、死にそうになり困っている日本兵を見てられなかったのです。多くの日本兵がクンユアムでお世話になったのです。家の大きさによって異なりますが、一軒に大体五人~二十人くらいがお世話になったようです。お礼として日本兵は村の人に何でも出来ること、米の脱穀精米作業とか、農作業のときの赤ちゃんの子守などをしたそうです。義理を重んじる日本人らしい行動です。
その後、日本へ無事に帰国する事ができました。それら、日本兵は、水筒やヘルメット、毛布等を世話になった家庭それぞれに置いていきました。そしてそれら日本兵をお世話した家族はそれら日本兵が残していった物を大切に保管しておりました。建物周りには日泰の国旗が多く掲げられております。
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それから五十年程たった一九九五年にクンユアムの警察署長として赴任したチューチャイ・チョムタワット氏が、署長就任後に村の家々を挨拶して回った際、チューチャイさんは古ぼけた水筒や外套、ヘルメットといった品々が各家庭で宝物のように大切に保管されていたのに驚き。かつての日本兵とクンユアムの人々との交流に興味を持ち、私費を投じて、それらを集めて一九九六年に博物館をつくりました。そして八年前にクンユアム市に管理が委託されました。

博物館は二階建てになっており、外には軍用トラックがあり、博物館内部には、銃、軍刀、軍服、認識票、水筒、御守り、注射器、歯ブラシなど当時の日本兵が使っていた武器や日用品されております。さらに当時の写真などをふくめ、1000点にものぼる収蔵品が一堂に集められております。
また一階には現地の少数民族の生活文化を紹介しており、当時の日本兵との暮らしぶりを再現した模型などもあります。
クンユアムでお世話になった日本兵の中には現地タイ人と結婚し、それらの孫や曾孫が現在、日泰の混血としているようです。
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タイ日友好記念館内には数多くの写真がありましたが、日本兵と笑顔で写る写真が多く展示されていました。これら写真からいかに日本兵と現地タイ人との仲が良かったのかが分かります。

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友好記念館外、敷地内には慰霊碑があります。一人の日本人として慰霊合掌させていただきました。
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タイ日友好記念館向かいのお寺にも慰霊碑があります。お寺の関係者により丁重に管理されております。
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クンユアムの町を隈なく散策しましたが、当時の日本兵の方々の姿が脳裏をかすりました。道がアスファルトになったり、建物が鉄骨や鉄筋コンクリート化されたり現代化されたクンユアムですが、のんびりとした雰囲気は変わっていないでしょう。クンユアムにあるレストランでタイ料理をいただきましたが、レストランの従業員と仲良く交流いたしました。当時の日本兵もこのように現地タイ人と交流をしていたのでしょう。七十年以上たった今、一人の日本人として、再びタイの友好を深めました。
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【タイ北部には数多くの慰霊碑が】

前述通り、ビルマとの国境地帯は敗残兵と化した日本兵の方々が険しい山々を通り、タイへ逃れてきたのですが、その過程で飢えやコレラで多くの日本兵が亡くなりました。なんとか無事にタイの集落に辿りつけた日本兵はタイ人に暖かく迎えられ命拾いをしたわけです。それでも数多くの日本兵が亡くなり、タイ北部にはいたるところに慰霊碑があります。丁重に管理されているものも多いのですが、中には無縁仏と化したものもあります。日本政府もそれら慰霊碑のすべてを把握しきれていないのが実情です。

クンユアムまでは六十五キロ離れたメーホンソーンから二輪を借りて日帰りで往復したのですが、帰りに倉敷有志の会が建てた鎮魂碑を発見いたしました。メーホンソーンとクンユアムのちょうど中間地点にあります。平成十二年に建立されたものです。合掌慰霊。
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【さいごに】

 

今まで、私は、パラオ、ミャンマー、フィリピン、マルタと海外の戦跡地&慰霊の旅をしてきました。各地を訪れて現地にて丁重に管理されているのをみて一人の日本人として感動したものです。
日本は先の大戦で戦争に負けて、連合国GHQにより世界に敷かれた戦勝国史観。もしくは周辺反日諸国により嘘で塗り固められた日本軍。実際は、日本兵は規律正しく、優しく現地の人々から愛されていたのです。この友好記念館がそれを証明してくれています。多くの方々にこの友好記念館を訪問してほしいものです。

※クンユアムまでの行き方
日本からタイまでは日本国内主要空港からバンコクまで直行便が飛んでおります。バンコクから国内線に乗り換えてメーホンソーンへ。メーホンソーンからクンユアムまでは六十五キロの距離。クンユアムには空港がないのでバスもしくはタクシーをチャーターしてメーホンソーンまでいけます。

 

〚略歴〛タイ⑬

国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。

 

上記記事に関しての質問や問い合わせ、取材、記事寄稿依頼、講演依頼等ありましたら

下記までご連絡ください。

大川原 明(オオカワラ アキラ)

E-mail:last-samurai-akira@hotmail.co.jp

携帯電話:090-6078-6677