国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

戦争

【先の大戦‐戦跡地慰霊訪問】日米激戦地!グアムのアガット海岸‐ガンポイント!日本軍の大砲!グアム

グアム島内にある先の大戦の日米激戦地の戦跡の1つ『ガンポイント』。
昭和19年(1944年)7月21日にアサン海岸と共に米軍上陸地となったアガット海岸。アサン海岸から南に位置している。現在は太平洋戦争国立公園の1つとして整備されており、海岸沿いには旧日本軍の大砲が2門残っている。

ガンポイントはアガットの上陸海岸の中心に位置。米軍上陸当時、椰子の木が一帯に密生。石灰岩の岩盤があるが、上陸する米軍を攻撃するための日本軍陣地(偽装陣地)として使われた。

米軍が上陸前におこなった航空偵察ではこの山背一帯を単なる砂山だと見られていたが、米軍は上陸して日本軍陣地として知る事に。第77歩兵師団の数千名の米海兵隊が上陸。浅瀬の珊瑚礁の歩行は比較的容易であったが、上陸地点で日本軍の攻撃開始。米軍は数時間の間、前進を妨げられた。

海岸には日本軍の発射数毎分300発の25㎜二連対空砲と沿岸砲、トーチカが残されている。

※NIKONのフラッグシップミラーレスカメラZ9で撮影

【親日国】かつて日本が委任統治したパラオの2つの神社『ペリリュー神社&南洋神社(コロール島)』

かつての日本の委任統治領であったパラオ共和国を8泊9日の日程で訪問。コロール島のホテルを拠点に、レンタカーを借りてバベルダオブ島などを訪問。訪問目的の1つが日本統治時代の日本関連物調査と日米激戦地調査(聞き取り調査&写真と映像での撮影)
かつて日本が委任統治したパラオ共和国。

パラオには2つの神社があります。

1つはパラオのコロール島の南洋神社跡。一部は現存しているが、多くは戦後に再建されたものです。
統治時代は、敷地はもっと広く立派であったそうですが。南洋神社参拝。かつての日本人が多くこの神社に参拝していたかと思うとその光景が脳裏に浮かびます。このあたりで亡くなられた英霊達もこの神社に合祀されております。

もう1つはペリリュー島にあるペリリュー神社。
米軍最初の上陸地や1000人防空壕、司令本部跡、旧日本軍ゼロ戦や戦車の残骸、ペリリュー神社等参拝。

1934年に天照大神を祭神とする南興神社(ペリリュー神社)が建立され、現地の日本人住民は島の繁栄を祈願してきた。1944年、ペリリュー島で日米による激しい戦闘(ペリリューの戦い)が行われ破壊されました。

この近くにはかつて日本人学校もあったそうです。コロール島と同じように軍人でない日本人も暮らしていたとの事です。1982年に清流社が日本から運搬した材料を使って、ペリリュー神社が再建。
この際、ペリリュー島で戦死した一万余名の英霊が併祀されました。

パラオ

ペリリュー神社

ペリリュー島

神社

パラオ共和国

親日

親日国

南洋神社

ロシア・ウラジオストク空港内のロシア(旧ソ連)製飛行機!ツポレフのTU154Mなど!

【ロシア・ウラジオストク空港内にはロシア製飛行機多数!ツポレフのTU154M】
I haven`t seen Russian airplane in my life. There are some Russian airplanes in the Vladivostok airport in Russia.
This is One of the Russian airplane companies product Tupolev TU154M

ウラジオストクの空港内で復路便を待っている時に空港に到着した政府便?要人が乗っていたようで、送迎者や護衛の車など数多くの車が待機していました。

空港内には普段見られないロシアの飛行機製造メーカーが瀬製造する旅客機が複数とまっていました。

写真の飛行機はロシアの飛行機製造メーカーツポレフが製造している旅客機TU154M
1984年から製造開始され、現在でもロシア国内、ロシアから他国、東欧諸国内で使用されている機材です。

TU154Mの機能は下記
エンジン: ソロヴィヨーフ製 D-30KU-154-II ターボファンエンジン×3
推力: 103.6 kN (23,380lb)
座席数: 180
最大離陸重量: 100,000 kg
巡航速度: 950 km/h (513kt)
航続距離: 6600 km (3563nm)

#ロシア
#ウラジオストク
#ソ連

ウクライナ・キエフ⇒モルドバ・キシナウ(キシニョウ)行き寝台列車!ドニエストル共和国経由!

ウクライナの首都のキエフを朝6時16分に出発し、13時間30分後のモルドバのキショニョウに19時50分頃到着。親ロシア派の噂の沿ドニエストル共和国に停車(1日3便あり、長いのは迂回してドニエストル共和国を通過しないのですが、確認不足でした。
ロシアのモスクワからモルドバのキシニョウまでの国際列車ですが、同じ車両には、ロシア人やドニエストル共和国の人々、ウクライナ人、モルドバ人、グルジア人と微妙な関係にある人々が同じ車両に。アジア人は自分一人でした。
沿ドニエストル共和国停車&通過は問題なかったのですが、肝心のモルドバの入国審査がなく、入国スタンプが押してもらえませんでした。

過去に、入国審査官の押し忘れで、空港で問題になったことがありますが、その時は充分な証明と説明が出来たので問題ありませんでした。
今回は、ドニエストル共和国を通過した列車の券は車掌さんから返してもらえましたので、それを出して出国時に説明します(むこうが英語が話せないと面倒くさいですが)。出国時に色々と問題になりそうだ。
事前に届け出るのも一つの手です。

旧ソ構成国ではロシア語が流通しており、人々の共通言語になっています。中南米では一部諸国をのぞいてスペイン語が母国語で、英語の通用度が低いのと同じです。
英語の次はスペイン語とおもっていますが、ロシア語も話せるとロシア周辺の多くの旧ソ構成国で会話が出来、便利です。ロシア語もよいな。タイ語も習得したいが。

【未承認国家潜入】親露派が牛耳るドニエストル共和国の首都のティラスポリ!

親露派が牛耳る沿ドニエストル共和国に(モルドバ政府の統治が及ばず、事実上独立状態にあるが、国際社会で国家承認されていない未承認国家)
単独での渡航は緊張します。ここまでいくには幾つかの方法があるのですが、そのうちの1つがバス。
モルドバの首都のキシニョウから1時間に1本以上でており、時間は2時間前後(距離でいうと60キロほど)
費用は37レウ(240円程)。

日本人はおろか、アジア人は自分だけ。
ドニエストル共和国側に入る際のモルドバ側の出国審査は無し(モルドバはドニエストル共和国の独立を認めていない)、ドニエストル共和国に入る前に、審査があります。
バスから降りて、事務所に行き、パスポートを提出。
以前は、用紙に記入する必要があったのですが、今は記入の必要はなくなり、口頭での質問に答える感じです。
向こうはあまり英語が話せず、ロシア語で話しかけてきますが、なんとなく言っている意味が分かったので、片言の英語(時折、ロシア語を混ぜ)て会話。
日帰りと伝えたのですが、3日間の滞在許可をもらいました。
スタンプはパスポートに押されず、写真右の証明書を渡されます。

日本のパスポートは世界で最も強い効力のあるパスポートといっても過言ではありません。。旧ソ構成国内では、アメリカに対しての感情が悪い国が多く(反露派の国々も)、アメリカのパスポートを出すと、嫌悪感を示す審査官が多いのが実情(これは、中東諸国においても同じ)。

※日本と国交のあるモルドバ共和国の統治が及ばない
未承認国家である沿ドニエストル共和国ですが、覚悟がない人々は、訪れるべきではありません。
それは、国家未承認で日本との外交関係は無しなので、日本大使館、外務省の効力が及ばない事がありえるからです。(正確にのべれば、親露派の国でロシアが援助している国なので、ロシアに助力を願えばですが)自己責任の上での渡航です。

見所が固まっているので周りやすかったです。
ドニエストル川、複数のロシア正教教会、旧ソの匂いを感じさせる数多くあるブロンズ像
トランスニストリア戦争時に使用された戦車。旧ソを称え、戦争時の様子が良くわかる歴史博物館訪問などなど。

【古き良き雰囲気が残る】ミャンマー・ヤンゴン・日本人墓地!ビルマの竪琴!

【古き良き雰囲気が残る】
ミャンマー・ヤンゴン・日本人墓地!ビルマの竪琴!

アウンサンスーチー女史の軟禁が解かれ、民主化が進むミャンマー。
ここは、かつてビルマと呼ばれた国です。
先の大戦下では日本の占領下に置かれた国。
日本軍がインパール作戦などで敗退するとともに
数多くの人々がビルマや周辺の国々で亡くなりました。

ビルマの竪琴の水島上等兵で有名なビルマ。
数多くの人々が亡くなり、
それら日本兵(英霊)のために墓地が造られ
慰霊碑が置かれています。

沖縄県南風原町・沖縄陸軍病院南風原壕20号群!

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊②】
敗色が強まりつつある昭和19年5月に陸軍病院は開設され、同年10月の10.10空襲後に現在の南風原小学校に移動し、小学校の近くにある黄金森に米軍上陸にそなえて壕も掘られました。

南風原陸軍病院の本部壕、第一、第二、第三 外科壕があった。第三外科壕は現在の南風原町役場の後方に位置し、本部壕、第一、第二外科壕は黄金森にありました。

昭和20年年4月1日に米軍が上陸してからは負傷兵が次々に運び込まれるようになりました。
麻酔はすぐに底をつき手術は麻酔無しで行われました。
負傷した兵士は手足を切断する必要のある兵士も多く、麻酔無しの手術のために激痛が走り、手術の間、患者が暴れないよう押さえることや切断した手足や死体の処分等も
ひめゆり学徒の仕事でした。
ここで亡くなった兵士も多くいます。

昭和20年5月25日に南部撤退命令が出て
南部に移動。

ここには実際に使われていた当時のままの壕のうち20壕が有料で見学できます。
縦横180センチほどの小さな通路で70メートル程の長さがあります。

壕内は湿っており、電球がないので安全のためにヘルメットを着用し、懐中電灯を借りて案内人の方の説明を聞きながら
進む感じになります。

沖縄県南城市糸数アブチラガマ(壕)/南風原病院分室だった壕!

【沖縄戦での慰霊訪問】
南城市にある糸数アブチラガマに。
アブは沖縄の言葉で深い縦の洞穴、チラは崖、ガマは洞窟。

沖縄戦時、もともとは糸数集落の避難指定壕でしたが、日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となりました。

軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。
昭和20年5月25日の南部搬退命令により病院が搬退したあとは、糸数の住民と生き残り負傷兵、日本兵の雑居状態となりました。

その後、米軍の攻撃に遭いながらも生き残り、8月22日の米軍の投降勧告に従って、合計7名の住民と負傷兵はガマを出ました。

270メートルのガマ内を1時間程かけて
ガイドの方の案内で周り、最後は慰霊碑の前で合掌させていただきました。

ちなみにここには
靖国神社の遊就館内にある
八九式十五糎加農砲が展示されていました。

ここに八九式十五糎加農砲を2基設置したようですが
1発発射するごとに米軍の数十倍の攻撃に遭ったようです。

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊④】沖縄県糸満市・平和祈念公園

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊④】
同じく糸満の平和祈念公園を再訪。

公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地&終焉地。
昭和20年5月、アメリカ軍の攻撃により、首里にあった日本軍司令部は、沖縄本島南部に移動。

日本軍による組織的抵抗は、6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了したがアメリカ軍は翌7月初めまで掃討戦を続けました。

平成祈念公園内には各県の慰霊碑一覧があります。
全てを訪れるのは時間がかかりますので
皆さんの出身県の慰霊碑にて合掌や焼香をするとよいでしょう。

喜屋武岬などと同じくこの摩文仁の丘からも沢山の人間が追い詰められて飛び降りて亡くなりました。

摩文仁の丘で出会った80過ぎのお婆さん。
「お兄ちゃん、慰霊はこちらからだよ。」と言われ
お婆さんの近くにいくと花を持っていってといわれました。
1束300円ですが、最初は断ったのですが
結局購入することに。
慰霊碑に献花させていただきました。
一緒に記念撮影。
80を過ぎても懸命に商売している姿に心を打たれました。

沖縄県那覇市・対馬丸記念館!昭和19年対馬丸事件(学童疎開船)!

【沖縄戦慰霊・慰霊地】
那覇市内にある対馬丸記念館
沖縄線で忘れてはならないのは、沖縄からの学童疎開に使用された輸送船・対馬丸。アメリカの潜水艦による魚雷攻撃で沈没。1482名の死者を出しました。

対馬丸は1912年(明治45年・大正元年)から整備を開始したT型貨物船のうち、欧州航路向けの第1期船6隻のうちの一隻として、イギリスのグラスゴーのラッセル造船所で高田丸とともに建造される。船価は9万4500ポンド。

竣工後は第一次世界大戦真っ只中の欧州航路などを就航して、当時は日英同盟で連合国側についていた日本。連合国向けの軍需品や食糧輸送で活躍し、特に対馬丸は1916年(大正5年)6月21日、再開されたパナマ運河を経由する貨物船として、横浜~東回りニューヨーク航路第1便として横浜を出航しました。
開戦直前の1941年(昭和16年)9月21日に陸軍に徴傭され、南方作戦に投入されました。後に、船舶運営会使用船となりました。

サイパン島玉砕後にアメリカはB29爆撃機による本土空襲が可能になりました。
これを危惧して日本政府は
「本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせよ」との命令を通達しました。
一方で、沖縄本島などへ展開させる兵員や軍需物資の輸送も同時に行う事となり、一部を除いて往路は軍事輸送、復路は疎開輸送に任じる事となりました。

1944年(昭和19年)8月20日に対馬丸と暁空丸、和浦丸で構成されたナモ103船団は台風接近による激しい風雨の中、蓮と宇治の護衛により長崎へ向けて那覇を出港しました。

翌々日の8月22日に西沢武雄船長と陸軍少尉の輸送指揮官との間で激論が交わされました。米潜水艦による魚雷攻撃によりいくつもの船が沈んでいる事を知っている西沢船長はこの航路の危険を熟知していたので、ジクザグコースを取る事を主張。しかし輸送指揮官は、船団から離れる危険や、到着の遅延への懸念の方を重く見て直線での航行を主張し、結局「軍の命令」ということで直線コースをりました。それが命取りに。

対馬丸を撃沈させたのは
アメリカの潜水艦ボーフィン。8月22日夜に攻撃を開始。6発の魚雷を発射し、2本の魚雷が命中。命中した11分後に対馬丸は大爆発を起こして沈没。
対馬丸の乗船者1788名のうち1482名が犠牲に。生き残った人々はイカダでトカラ列島や奄美諸島に漂着もしくは漁船等に助けられました。

平成26年(2014年)6月に慰霊のために天皇皇后両陛下が行幸啓。
慰霊碑「小桜の塔」や対馬丸記念館を訪れ、事件の生存者や遺族らと対話をしました。