国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

01月

熱気満ち溢れるバングラデシュの首都ダッカ!日本ゆかりのリキシャで巡る旅!

旅メディアに旅記事寄稿!今回のお題は、熱気満ち溢れるバングラデシュの首都ダッカ!日本ゆかりのリキシャで巡る旅!
平成23年6月訪問。バングラデシュと聞いて旅行先としてイメージする方は少ないかもしれません。多くの日本人から聞こえる言葉は世界の貧国、インドの隣国という言葉でしょう。しかし実は、観光的にも非常に魅力のある国なのです。
首都ダッカは、世界でも有数の人口密度の高さで知られてます。人々が行き交い、時として怒号が響き渡る――熱気に満ち溢れるダッカの町を、リキシャという日本ゆかりの乗り物で巡る旅を、皆さんにご紹介いたします!

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たびねす記事

ポーランド孤児?親日国ポーランドとは?日本男児はもてもて?いたるところで逆ナンパ?現地訪問して分かった真実!ポーランド孤児?世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第1話!

世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第1話!親日国ポーランドとは?日本男児はもてもて?いたるところで逆ナンパ?現地取材して分かった真実!ポーランド孤児が起因?

東欧のポーランド。日本人から遥か遠い場所にある国。日本とは深い関わりがないと思う人は多いと思うのだが、実は日本とは関わりが深い国である。

ポーランドを訪問時に首都のワルシャワや古都のクラクフを訪問。写真撮影中にいたるところでポーランド人女性に話しかけられて、一緒に記念写真を撮っていいですか?と言われた。

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日本に来た事があるのか?と女の子達に質問するとほとんどが日本へ行った事がないとの事。しかし、日本が好きで日本へは是非とも行きたいとの事であった。これは何が起因となっているのか?これには、かつて日本政府がポーランド孤児を助けた事や日露の戦いでの日本の勝利、日本文化がポーランドに入り込んでいる事が掲げられる。

1904年(明治38年)~1905年(明治39年)の日露戦争。日露戦争開戦時、世界のほとんどの国が大国ロシアが勝つと思っていた。しかし、そんな世界各国の予測は外れ、アジアの小国である日本が帝政ロシアを打ち負かした。これは、欧米列強に植民地とされていたアジアやアフリカ諸国だけでなく、当時、ロシアの植民地もしくは圧政下に苦しんでいたフィンランド、バルト三国、ポーランドをはじめとした東欧諸国に勇気と感銘を与えたのは事実である。

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日露戦争時のポーランドは、帝政ロシア、オーストリア帝国、プロイセン王国の3つの国に領土を分割され支配されていた。ポーランドは18世紀に領土分割されて以降、11月蜂起、1月蜂起にみられるような独立運動を展開してきた。しかし、成功はしなかった。そんな中、日露戦争においてアジアの小国である日本が大国ロシアに打ち勝った事に勇気と感銘を与えられたのは紛れもない事実である。

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日露戦争が終わった9年後、1914年(大正3年)、オーストリアの皇太子がサラエボでボスニア系セルビア人に暗殺されたのが発端となり第一次世界大戦が勃発。1918年(大正7年)の第一次世界大戦後に、ポーランド共和国として独立を果たす。

1919年(大正8年)このころは ロシア国内において革命、反革命の勢力が争う内戦状態が続き激しさをましていた。この時シベリアには、ロシアにより捕らえられたポーランドの政治犯や、愛国者の家族、­内戦の混乱を逃れてきた人達が15万人~20万人いた。これら人々は過酷な重労働、飢餓や疾病の中で厳しい生活を送っていた。親と死別した子供たちは、お腹を空かし、身を寄せる場所さえなく、 いつ死んでもおかしくない極めて厳しい状況下で暮していた。

あまりに悲劇的な状況を見るに見かねたウラジオストク在住のポーランド人たちが立ち上がり、「ポーランド救済委員会」を設立。欧米各国に救済を依頼したが、断られた。そんな中、ポーランド救済委員会は日本政府に助けを求めた。救済依頼した欧米諸国に断られ、最後の頼みの綱が日本であったのである。日本政府は、わずか17日後には救いの手を差し伸べる決断を下す。大変な費用と手間が必要であったにもかかわらず、日本人は、シベリアのポーランド人たちの惨状を見るに見かねて判断したのであろう。これぞ、まさに武士道精神である。人情深い人が多い日本人らしい行動である。

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1920年 (大正9年)7月 ロシアのウラジオストクからポーランド孤児たちを乗せた日本陸軍の輸送船 「筑前丸」が敦賀港に入港。孤児たちは、粗末な服を着て、哀れなほど痩せ細っていた。敦賀港より入国して、孤児たちの姿を見た多くの日本人は、同情を寄せ、子供たちに愛情のこ­もった暖かい救済をはじめていく。収容された孤児たちの多くは、栄養不良で痩せ細り、歩くのもままならないものも多くいた。また、子供たちの多くは腸チフス、感冒、百日咳などの病気であったため、すぐに治療が­施される。着ている物はボロボロで、靴を履いている子供はほとんどいなか­った。

そこで 日本赤十字社は、一人ひとりに衣服、肌着、靴、靴下などを新調し、さらに食事の提供や­果物などを支給。収容先では、子供たちを慰めるため慰安会が開かれ、動物園や博物館へも行って楽しく過­ごしている。また、貞明皇后から御下賜金が届けられ、全国から多数の寄付金が寄せられる。病院では、すぐに充分な治療が受けられるように病室も準備していた。 安全を確保するため警察官も配備するなど孤児達の周りには、善意があふれていたのである。

1920年(大正9年)と1922年(大正12年)の2回、合計で765名もの孤児が東京や大阪で治療と看病を受け、全員が元気をとり戻し、横浜や神戸の港から帰国したのである。親身に世話をしてくれた日本人の看護婦や保母たちとの別れを悲しみ、乗船を泣いて嫌がるほどであった。孤児として両親と生き別れ、愛情もまともに受けずに育ってきた孤児達。そんな中、日本人の深い愛情に感銘を受けたのである。

彼らは帰国船が出発する際に、口々に「アリガト」など、覚えたての日本語を連発、「君が代」などを歌って感謝の気持ちを表わしたのである。双方ともに、涙を流しながら、姿が見えなくなるまで手をふりつづけたのである。

これら孤児達は、ポーランドに帰国後に「極東青年会」という団体を組織し、第二次世界大戦前にドイツが侵攻するまで、ポーランドで日本の素晴らしさを紹介する活動を行なうと共に、日本に行くための資金を積み立てておりました。しかし世界大戦の戦乱と、東西冷戦により日本へ行くことがかなわなかったのである。

1995年(平成6年)に阪神大震災がおこった後に、1996年(平成7年)、1997年(平成8年)に震災で被災した児童をポーランド政府は招待してくれたのである。その時に、ポーランドの元孤児の方4名がこれら被災した日本人児童と面会し、温かい言葉をかけた。

ポーランドでは、ポーランド孤児を日本が助けた事に関して教育で教えており、非常に日本に対しての感情がよく親日家が多いのである。よって、日本人が写真撮影していようものなら一緒に写真をとってくれませんか?と話しかけられるのである。

また、第二次世界大戦中、日本とポーランドは対ソ連諜報において緊密な秘密協力関係にあった。また、ポーランド共和国陸軍はソ連の暗号を解読しており、大正時代より教官を派遣するなど、日本軍に最新の暗号解読技術を教授した。密接な関係にあったポーランドである。

※下記写真はポーランドの古都クラクフの大聖堂。非常に美しい大聖堂である。

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ポーランドに進出している日系企業は260社を超えており、日本製品もポーランド国内で普及。また、それら日系企業で働くポーランンド人も数多くおり、日本語教育の需要があるのである。

日本語教育の歴史としては、ちょうどポーランド孤児が受け入れられたころに、日本研究が盛んになり、1919年にワルシャワに日本語講座が開かれた。ワルシャワ大学には現在、日本語学科があるのであるが、ポーランド内の多くの大学で日本語学科を設けている。2002年には、同大学日本語学科は天皇皇后両陛下がポーランドを訪問(行幸啓)。現地ポーランド人から強い歓迎を受けたのである。

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ポーランド人男性からポーランド人の日本に関しての感情を伺ったのだが、やはり、上記理由などからほとんどのポーランド人が日本に対して良い感情を持っているとの事である。

ちなみに日本の文化、武道、漫画、日本食も人気である。ポーランド国内では、多くの日本食屋があり、ポーランド滞在時に利用してみた。

※下記写真は、ワルシャワ市内のオト寿司という日本食屋

165835_424280877595130_277739521_n日本からポーランドは直行便が就航していなかったのですが、なんと今年(平成28年1月14日)からLOTポーランド航空が週三便直行便を飛ばすようになりました。益々、日本とポーランドの関係は深まるものと思われます。

【文章&写真】

〚略歴〛タイ⑬

国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。

 

上記記事に関しての質問や問い合わせ、取材、記事寄稿依頼、講演依頼等ありましたら

下記までご連絡ください。

大川原 明(オオカワラ アキラ)

E-mail:last-samurai-akira@hotmail.co.jp

携帯電話:090-6078-6677





世界各国の風俗事情(売春地帯等)!

かつて日本においても赤線、ちょんの間、もしくは温泉街で売春がおこなわれていたのは­事実です。首都圏に目を向ければ、2005年頃まで横浜の黄金町、川崎堀之内、東京の­町田駅(JR)周辺にはちょんの間があり、晩年には多くの外国人が売春をしておりまし­た。
また、それら売春地帯周辺では外国人が立ちんぼとして客引きをおこない、売春をしてお­りました。
10年程前に、条例改正のためにそれらチョンの間は廃止されました。
関東ではさらに、埼玉の西川口においても本番行為が出来る店(本サロ)が200~30­0軒はあったものです。同じく埼玉県内の越谷の駅近くにあるヘルスも本番行為が出来る­お店として有名でしたが。
もしくは、援助交際と呼ばれる売春行為も未だにおこなわれているのが実情です。

海外においてはどうなのでしょうか?
売春は世界各国でおこなわれているのが事実です。自分が訪問した国々では売春斡旋業者­からよく女を買わないか?と誘いがありました。特に発展搭乗国では、法律では禁止して­いても貧困層対策の一環として、政府が暗黙の了解で認めております。
売春自体が合法な国もあります。

大東亜戦争の真実・タイ北部慰霊の旅 タイ人に手厚くもてなされた日本兵 クンユアム・タイ日友好記念館訪問&パーイ日本軍敷設橋!国際ジャーナリスト大川原 明!現地取材ルポ!

大東亜戦争の真実・タイ北部慰霊の旅
タイ人に手厚くもてなされた日本兵
クンユアム・タイ日友好記念館訪問&パーイ日本軍敷設橋

【はじめに】

二年四か月ぶりに東南アジアの雄で親日国として知られるタイを再訪いたしました。タイは、かつて仕事で駐在経験がある国で、多くの場所を訪問いたしましたが、今回は、タイ北部での大東亜戦争での日本軍の関わりが深い事に着目し、今回は、それらに対しての調査と慰霊の旅を敢行。

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【かつて日本軍が駐留したメーホンソーン県】

かつて日本軍の第十五軍が駐留したメーホーソーン県。ビルマ方面への拠点となった場所です。タイは緩衝国の意味合いもあり、欧米列強の植民地にならず、アジアでは日本と同じく独立国でありました。同じ枢軸国側として参戦。日本はタイから土地使用、食料や水分補給等の助力を受け、現地ビルマからの内からの協力もあり、昭和十七年五月末にはビルマ全土を占領し、連合国軍を駆逐しました。

しかし、インパール作戦が失敗に終わり、戦況悪化。戦争末期もしくは戦後に、敗残兵としてビルマ戦線から逃れてきた日本兵の方々がタイとビルマ国境地帯でコレラ等の病気や飢えで亡くなりました。そのため、メーホンソーン県には数多くのビルマ戦線日本兵(将兵)慰霊の碑があります。そのうちの一つが左の写真です。メーホーソーン市街地外れにあるお寺ワット・プラノーンにあるビルマ戦線将兵鎮魂之碑です。

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 【日本軍が敷設したパーイの橋&中国国民党残党勢力の村】
メーホンソーン県にパーイという小さい町があります。チェンマイとメーホンソーンの中間に位置し、バスの休憩地点として栄えた町でもあります。周辺には中国国民党の残党勢力の村、リス族やラフ族の村もあります。写真は、パーイの中心街から4キロ程の距離にある中国国民党(KNT)の残党勢力の村。

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村の中には商店や飲食店があります。戦後、中国共産党と国民党は争い、中共が勝利し実権を握りました。その結果、蒋介石率いる部隊は台湾に逃れ、南西部にいた部隊はビルマに逃れました。
しかし、中国共産党とつながりを深めたビルマ政府軍に追いやられ、中国国民党の残党勢力はタイ北部に逃れました。彼らは、武装したまま、居座り集落を形成。麻薬売買(ゴールデントライアングルは有名)等で生計をたてておりました。
中国共産党の残党勢力(KMT)は、武装訓練もおこない武装したまま数十年がたちました。いつ大陸に攻めこんでもよいように機会を伺っていたようですが、一九八七年にタイ政府との交渉で、武装解除、タイ国籍取得。いまではほのぼのと暮らしております。隣には山岳少数民族リス族の村があったのでそちらも立ち寄りました。

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大東亜戦争中に、ビルマ攻略を容易にするために、日本軍はビルマとの国境付近の川に多くの橋を敷設しました。映画、戦場にかける橋で知られているカンチャナブリにある橋は有名ですが、他にもタイ国内には日本軍敷設の橋があります。
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このパーイのパーイ川にかかる橋は、大戦中に、日本軍が敷設。現地タイ人が象などを使い橋敷設に協力。大戦末期にインパール作戦で敗走した日本兵たちが逃れてきました。その際に、敵の進軍を阻むために日本軍はこの橋を燃やして壊しました。

※下記写真は、パーイの人々と日本兵が一緒に写る写真。※

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しかし、橋はパーイの人々にとって便利なものでした。橋がなくなった後に、現地の人々は、再び川を小船で渡らなければならなくなりました。(日本軍による橋の建設は、現地の人々にとっても非常に有意義なものであったのです。)多くの現地人により橋の再建がのぞまれ、戦後、他から橋を移築する形で再建。
しかし、1970年代に大きな洪水に見舞われ、橋が崩壊。その後、再建。
この橋は、タイ人に大人気の映画クーカムの撮影地となった場所でもあり、ここを訪れるほとんどのタイ人はしっております。このクーカムという映画は、大東亜戦争でタイに駐留した日本兵。礼儀正しく、武士道精神をもった日本兵たちが描かれ、日本兵と現地タイ人女性との恋の映画です。

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パーイはのどかな風景が広がっております。かつて、日本兵の方々もタイのこののどかな田舎の風景を楽しんだことでしょう。

【クンユアムと日本軍との関係】

クンユアムはタイの北部にあるミャンマー(ビルマ)との国境地帯にある小さな町です。タイ北部のミャンマーとの国境地帯は、大東亜戦争において日本と非常に関わりが深い土地です。かつて日本軍の第十五軍の部隊が駐留もしておりました。

(下記写真は、タイとミャンマーの国境地帯。険しい山々が連なる)
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クンユアムは、メーホンソーンの南約六十五キロの場所にあります。かつては、日本軍が駐留し、日本兵が野営もしくは現地のお宅にお世話になるなど、日本兵と現地タイ人の深い交流が結ばれた町です。
インパール作戦の失敗後、多くの日本兵がビルマ戦線で亡くなりましたが、戦争末期から終戦後、多くの日本兵がビルマ国境を通り、同盟国であったタイ国内に敗残兵として入ってきました。そんな中、ビルマからタイへ多くの日本兵が移動してくる中、コレラや飢え、傷病で亡くなる日本兵がかなり多くいました。かつて隊をおいていたクンユアムを目指し、敗残兵と化した日本兵。インパールからの敗走路は、行き倒れた日本兵の遺体が散乱し、白骨街道と呼ばれました。無事に辿りついた日本兵は、クンユアムの人々から治療、看病、食料や衣服提供等、手厚いもてなしをうけました。日本兵の方々もクンユアムの人々であれば助けてくれると思ったのでしょう。敗残兵といえば、極限状態にあり、気が立っており何をしでかすかわからないと恐れられるのが普通でありますが、クンユアムの人々はかつての日本兵との温かい交流を思い出し、温かく日本兵を受け入れたのです。村には当時五十~六十戸の民家と寺がありました。貧しい村ではありましたが、数多くの日本兵が救われ日本に帰国できたのです。
これは、それだけ日本兵の方々が現地タイ人に信頼されていたのもあります。慈悲深い精神をもった人々が多いタイですが、死にそうになり困っている日本兵を見てられなかったのです。多くの日本兵がクンユアムでお世話になったのです。家の大きさによって異なりますが、一軒に大体五人~二十人くらいがお世話になったようです。お礼として日本兵は村の人に何でも出来ること、米の脱穀精米作業とか、農作業のときの赤ちゃんの子守などをしたそうです。義理を重んじる日本人らしい行動です。
その後、日本へ無事に帰国する事ができました。それら、日本兵は、水筒やヘルメット、毛布等を世話になった家庭それぞれに置いていきました。そしてそれら日本兵をお世話した家族はそれら日本兵が残していった物を大切に保管しておりました。建物周りには日泰の国旗が多く掲げられております。
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それから五十年程たった一九九五年にクンユアムの警察署長として赴任したチューチャイ・チョムタワット氏が、署長就任後に村の家々を挨拶して回った際、チューチャイさんは古ぼけた水筒や外套、ヘルメットといった品々が各家庭で宝物のように大切に保管されていたのに驚き。かつての日本兵とクンユアムの人々との交流に興味を持ち、私費を投じて、それらを集めて一九九六年に博物館をつくりました。そして八年前にクンユアム市に管理が委託されました。

博物館は二階建てになっており、外には軍用トラックがあり、博物館内部には、銃、軍刀、軍服、認識票、水筒、御守り、注射器、歯ブラシなど当時の日本兵が使っていた武器や日用品されております。さらに当時の写真などをふくめ、1000点にものぼる収蔵品が一堂に集められております。
また一階には現地の少数民族の生活文化を紹介しており、当時の日本兵との暮らしぶりを再現した模型などもあります。
クンユアムでお世話になった日本兵の中には現地タイ人と結婚し、それらの孫や曾孫が現在、日泰の混血としているようです。
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タイ日友好記念館内には数多くの写真がありましたが、日本兵と笑顔で写る写真が多く展示されていました。これら写真からいかに日本兵と現地タイ人との仲が良かったのかが分かります。

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友好記念館外、敷地内には慰霊碑があります。一人の日本人として慰霊合掌させていただきました。
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タイ日友好記念館向かいのお寺にも慰霊碑があります。お寺の関係者により丁重に管理されております。
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クンユアムの町を隈なく散策しましたが、当時の日本兵の方々の姿が脳裏をかすりました。道がアスファルトになったり、建物が鉄骨や鉄筋コンクリート化されたり現代化されたクンユアムですが、のんびりとした雰囲気は変わっていないでしょう。クンユアムにあるレストランでタイ料理をいただきましたが、レストランの従業員と仲良く交流いたしました。当時の日本兵もこのように現地タイ人と交流をしていたのでしょう。七十年以上たった今、一人の日本人として、再びタイの友好を深めました。
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【タイ北部には数多くの慰霊碑が】

前述通り、ビルマとの国境地帯は敗残兵と化した日本兵の方々が険しい山々を通り、タイへ逃れてきたのですが、その過程で飢えやコレラで多くの日本兵が亡くなりました。なんとか無事にタイの集落に辿りつけた日本兵はタイ人に暖かく迎えられ命拾いをしたわけです。それでも数多くの日本兵が亡くなり、タイ北部にはいたるところに慰霊碑があります。丁重に管理されているものも多いのですが、中には無縁仏と化したものもあります。日本政府もそれら慰霊碑のすべてを把握しきれていないのが実情です。

クンユアムまでは六十五キロ離れたメーホンソーンから二輪を借りて日帰りで往復したのですが、帰りに倉敷有志の会が建てた鎮魂碑を発見いたしました。メーホンソーンとクンユアムのちょうど中間地点にあります。平成十二年に建立されたものです。合掌慰霊。
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【さいごに】

 

今まで、私は、パラオ、ミャンマー、フィリピン、マルタと海外の戦跡地&慰霊の旅をしてきました。各地を訪れて現地にて丁重に管理されているのをみて一人の日本人として感動したものです。
日本は先の大戦で戦争に負けて、連合国GHQにより世界に敷かれた戦勝国史観。もしくは周辺反日諸国により嘘で塗り固められた日本軍。実際は、日本兵は規律正しく、優しく現地の人々から愛されていたのです。この友好記念館がそれを証明してくれています。多くの方々にこの友好記念館を訪問してほしいものです。

※クンユアムまでの行き方
日本からタイまでは日本国内主要空港からバンコクまで直行便が飛んでおります。バンコクから国内線に乗り換えてメーホンソーンへ。メーホンソーンからクンユアムまでは六十五キロの距離。クンユアムには空港がないのでバスもしくはタクシーをチャーターしてメーホンソーンまでいけます。

 

〚略歴〛タイ⑬

国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。

 

上記記事に関しての質問や問い合わせ、取材、記事寄稿依頼、講演依頼等ありましたら

下記までご連絡ください。

大川原 明(オオカワラ アキラ)

E-mail:last-samurai-akira@hotmail.co.jp

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反欧米のイスラム系の国々の中で最も親欧米なイスラム教の国は?ビルクリントン?マザーテレサ?現地実録動画!

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【世界各国の治安】東南アジア・フィリピンの治安はどうなのか?

東南アジアのフィリピン。ここは昔から治安が悪い事でしられております。実際にはどう­なのか?フィリピンはタイと同じく日本国内で犯罪を犯した犯罪人の逃亡先としても知ら­れております。実際には、裏ルートがあるのですが。
今回は、世界の治安。フィリピンの治安に関して言及!

スペイン国内を縦横無尽に走るホテルトレイン!まるでホテルの夜行電車とは!?

日本では廃れてしまった夜行寝台電車。しかし、世界各地には寝台夜行電車が走っている­国々は未だに多いです。今回は、スペインの豪華絢爛な夜行寝台電車ホテルトレインをご­紹介いたします。

スペインを周遊旅行される際に、ぜひ乗ってほしいのが夜行電車。なぜなら、スペインで­は通称“ホテルトレイン”と呼ばれるほど、内装も豪華で優雅な旅が出来るのです。もち­ろん、車内には食堂車も完備。スペイン国内だけではなく、マドリッドとポルトガルの首­都結んでいるものもあり、夜行電車で国境を超えるという、稀有な経験も出来るのです。
2014年9月に2年ぶりにスペインのバルセロナを訪問した。(三回目)
その際に、世界遺産ア­ルハンブラ宮殿がある事で有名なグラナダをバルセロナから再訪­­したが、ホテルトレイン­と呼ばれる電車を利用した。
ホテルトレインと呼ばれるだけあって、寝台の夜行電車であ­る。食堂車がついており食­­事も出来る。行きは座席、帰りは寝台電車にした。多くの人々­が利用していた。

香川県高松市讃岐うどん三昧!

平成26年(2014年)11月に香川県高松市を訪問。栗林公園を訪問。讃岐うどんを­食しました。
香川と言えば讃岐うどん。讃岐うどんの店を2軒訪問しました。とにかく安い。今、日本全国でラーメン屋がもてはやされてますが、香川県はうどん屋ばかりです。
かけであれば200円以下で食すことが出来ます。香川にきたらうどん屋巡りもよいでしょう。

大感動間違いなし!コソボ共和国・プリズレン市城塞からの絶景!

旅メディアへ旅記事寄稿!今回のお題は、大感動間違いなし!コソボ共和国・プリズレン市城塞からの絶景!
コソボ紛争で有名な旧ユーゴスラビア構成国の1つであるコソボ共和国。一昨年夏に潜入いたしました。
ここは2008年にセルビアから独立を宣言した国です。まだ新しい国で日本人観光客にも馴染みが薄い国でありますが、観光的魅力は随所にあります。治安も独立宣言後、回復してきております。今回は、コソボ南部最大の都市であるプリズレンの城塞からの絶景を皆様にご紹介いたします!
コソボ内部事情ですが、なかなか行く人も少なく情報発信されてませんが、三都市訪問した私が情報発信していきます。
記事は下記をクリックしてください。
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