国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

フィリピン・マニラ・エルミタ地区

フィリピン・マニラ・エルミタ地区

平成23年(2011年)7月にフィリピンマニラを訪問した。
3泊4日の滞在をし、市内を中心に多くの場所を訪れた。そのうちの一つが市内中心部のエルミタ地区である。
今回のテーマは
アキーラさん散策!フィリピン・マニラ・エルミタ地区

エルミタ地区散策

中心のエルミタ地区を歩いて散策した。別日にはサイカーと呼ばれる乗り物に乗り、地区を散策した。
サイカー乗車

スラム街通過

エルミタ地区にはロビンソンデパートと呼ばれるデパートがあり、そこも訪問した。
周りには物乞いの子供たちが多かった。
ロビンソンデパート周辺

フィリピンは日本と同じ島国で、人口9200万人程である。スペインの植民地になる前には、中国や東南アジア諸国との交易で栄え、近隣のインドネシア、マレーシアと同じようにイスラム教が広まった。しかし、7000以上の島々から形成される国ゆえに統一国家は形成されなかった。
西方からやってくるヨーロッパ列強に東南アジアが次々と植民地化される中、1565年にはスペイン領ヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)を出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島を領有したのを皮切りに、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を含む諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。

エルミタ地区散策

しかし南部への侵攻は18世紀と遅く西南ミンダナオ島、スールー諸島、南パラワン島では、スールー王国をはじめとするイスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。
独立運動が本格的になるのは、19世紀末。1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国はエミリオ・アギナルドらの独立運動を利用するため支援(しかし、実際は後に判明するように、アメリカ合衆国がスペインからフィリピンを奪って自国の植民地にすることが目的だった)した。
6月12日、アギナルドを大統領として独立宣言がなされた(第一共和国)。
ストリートチルドレン

米西戦争で独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がアメリカ合衆国に渡る。1899年1月21日にフィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。フィリピン共和国の建国を認めないアメリカ合衆国による植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したが、米比戦争で60万人のフィリピン人が無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。
子供たちと交流

アギナルドは米軍に逮捕され、第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカ合衆国の主権の下に置かれた。そして太平洋戦争が勃発すると、アジアに旋風を起こしていた日本軍がフィリピンにも上陸、アメリカ軍主体の連合国軍と戦い、わずか150日で駆逐sた。以後、1942年~1945年の終戦まで日本の占領下に置かれ、連合国との激しい戦争がおこなわれる。フィリピンは連合国側につく抗日組織、日本側につく親日組織と分かれる。
ロビンソンデパート内で食事

戦後は日本もしくはアメリカから多額のODA資金援助、技術援助を受ける。旧宗主国のアメリカとは親密な関係にあり、親米の国である。日本も貿易、経済共に密接な関係にあり、きっても切れない仲である。人的交流も盛んで、日本人は安土桃山から江戸時代初期、多くの日本人がフィリピンに渡りマニラ等に居住
(最盛期には3000人ほど居住)、1910年代には農園経営の為の日本人労働者が南部のダバオに大量移民し、1916年には日本人人口が1万人を超える日本人街が形成された。
1980年代後半から人的交流が盛んになり、日本に多くのフィリピンパブが出来るようになる。フィリピン人女性と結婚する日本人男性も多く、両国の血が混じった混血の人々も増える。

フィリピンは過去に欧米の植民地が進み、アジアで唯一のキリスト教国であるために、英語教育も盛んにおこなわれており、一般人の英語力も高く、アジアでは群を抜いている


国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

アキーラさんユーチューブチャンネルは下記

http://www.youtube.com/user/Yuukokunoshi1

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