国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

旧ユーゴ・コソボ・プリシュティナ市・マザーテレサ大通り!

旧ユーゴ・コソボ・プリシュティナ市・マザーテレサ大通り!

アジアの発展搭乗国のような喧騒感があるコソボの首都のプリシュティナ。NIKONの一眼レフカメラD610によるフルハイビジョン動画!現地にて撮影。コソボ紛争で有名なコソボ(16年前まで紛争状態でありました。皆さんの記憶にも新しいでしょう。外務省の危険レベルが1段階引き下げられました。)首都のプリシュティナ訪問。プリシュティナの目抜き通りのマザーテレサ大通りを端から端まで徒歩散策。
かの有名なノーベル賞受賞の修道女マザーテレサの母親がアルバニア人のため、アルバニア系住民が大多数を占めるコソボにおいて、マザーテレサ大通りと名付けられました。
旧ユーゴスラビアのコソボ平成26年(2014年)8月に旧ユーゴスラビア・セルビアから平成20年(2008­年)に独立したコソボを訪問!首都のプリシュティーナ、南西部中心都市であるプリズレ­ン、北西部中心都市のペヤの三都市を訪問。

プリシュナは、コソボの首都。2008年にセルビアからの独立を宣言したコソボ共和国の首都と定められているが、セルビアはコソボ共和国の独立を認めておらず、コソボ・メトヒヤ自治州の州都としている。

近隣の都市としては、約95キロ北東のニシュ、約80キロ南のスコピエ(マケドニア共和国の首都)などが挙げられる。1990年代のコソボ紛争で深刻な打撃を受け、現在も復興の途にあります。

人口は十万人台と首都の割には非常に少ないが、これでもコソボでは最も人口の多い都市であります。

第二次世界大戦後のユーゴスラビア社会主義連邦共和国を率いたヨシップ・ブロズ・チトーが1980年に死去すると、セルビア内で民族主義が高揚。

プリシュティナでは、経済不況や食糧不足でアルバニア人の暴動が頻発しました。

1989年、セルビアの大統領・スロボダン・ミロシェヴィッチが自治を制限、アルバニア語の使用が制限されアルバニア系住民が多くの職場から排斥されると、コソボのユーゴスラビアからの分離を求める運動が激化されました。

イブラヒム・ルゴヴァに指導されたコソボ民主連盟が結成される。これに対してセルビア政府は強硬策で臨みました。

1996年からはコソボ解放軍による武装闘争が開始されるが、プリシュティナは当初は平穏でありました。

1999年3月、コソボ紛争が本格化すると、プリシュティナは戦場と化す。4月、NATOの空爆が開始されると、市内のあちこちで虐殺行為が展開された。多くの住民がマケドニア共和国方面に脱出、その数は、アメリカ合衆国国務省の推定で1999年の5月だけで100,000人にのぼります。

コソボ紛争終結後は、40,000人いたセルビア人の多くがプリシュティナを離れたが、市内に留まった者の多くは、今度はアルバニア系住民の報復に怯えることになり、2009年にはプリシュティナから全てのセルビア系住民がいなくなった、と言われる。また、紛争でロマ人も多くが市を離れた。国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の本部が置かれています。

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