国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

シンガポールの日本人墓地(寺内寿一陸軍元帥の墓や二葉亭四迷の碑、大日本除虫菊2代目社長の墓等

シンガポールの日本人墓地(寺内寿一陸軍元帥の墓や二葉亭四迷の碑、大日本除虫菊2代目社長の墓等

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シンガポールの郊外にある日本人墓地を慰霊訪問しました。

意外と知られてませんが、明治時代には既に多くの
日本人がシンガポールに住んでいました。
明治時代には既に日本人会が発足し、当時の日本人会
によってイギリス植民地政府より許可を得て
現在の場所に日本人墓地建立。

シンガポールで亡くなられた日本人。
南方軍総司令官の寺内寿一元帥のお墓
ロシアからの留学の帰りにベンガル湾上で船上で亡くなった浮雲などで知られる文豪・二葉亭四迷がシンガポールで火葬された経緯から碑があります。

他に先の大戦で亡くなられた
軍人、軍属を祀る慰霊碑もありました。

 

【スパイ容疑をかけられ自決した石原産業のシンガポール支配人】
これは偶然か。年に2~4回、大阪にいくといつも肥後橋の友人のタワーマンションに泊めてもらっていたのですが、20階のベランダからみる景色に江戸堀の
石原産業のビルが目に入りました。

エンドユーザーが一般消費者ではなくあまり知られていない会社ですので、正直どんな会社なのか初めて見たときは知りませんでしたが、東証一部上場の大手化学メーカーです。

戦前から海外に積極進出していた会社ですが
終戦により海外拠点を喪失。

石原産業シンガポールの支配人であった
西村氏ですが、軍港を写真撮影したとして警察に
スパイ容疑で連行され、その後、警察署内で自決。

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広大な敷地の墓地。墓の数は900墓以上

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先の大戦で亡くなられた英霊が祀られている

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明治時代(1891年)に建てられたシンガポールの日本人墓地。明治時代には既に数多くの日本人が住んでいましたが、墓地内にある910墓のうち3分の1にあたる309墓は明治時代に
亡くなられた日本人のお墓です。

他に
大正時代 122柱
昭和時代 88柱
不明 494柱

先の大戦で亡くなられた南方戦線で亡くなられた
軍人軍属の慰霊碑もあり
慰霊させていただきました。

画像に含まれている可能性があるもの:雲、空、植物、木、花、屋外、自然

 

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下の写真は【江戸時代に海外を渡り歩いた音吉】
実はジョン万次郎のような日本人は多くいた。
尾張国知多郡小野浦村(現在の愛知県美浜町)に生まれ
1832年に江戸に向かう千石船に乗り込んでいたが、
遠州灘沖で嵐にあい、遭難。

1年2か月太平洋を漂流し、ワシントン州ケープアラバに漂着。
結果的に世界1周をし、
アメリカ船モリソン号で帰国を試みるが
当時の鎖国政策で帰国かなわず。

貿易商として成功をし、
上海からシンガポールに移住。
シンガポールでの日本人定住者第一号となりました。

自動代替テキストはありません。

下の写真は【ベンガル湾の船上で病死しシンガポールで火葬された著名な文豪・二葉亭四迷の碑】

浮雲などで有名な小説家(翻訳家でもある)である
二葉亭四迷。
ロシア赴任からの帰国の途、ベンガル湾で船の上で肺炎によって亡くなり、シンガポールで火葬されました。

遺骨は東京の染井墓地に。
ここにあるのは墓ではなく碑。

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二葉亭四迷の経歴

二葉亭 四迷、1864年4月4日(元治元年2月28日) – 1909年(明治42年)5月10日)は、日本の小説家、翻訳家。本名、長谷川 辰之助(はせがわ たつのすけ)。

筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞(め)え」と罵ったことによる。

文学に理解のなかった父に言われたというのは俗説である(『予が半生の懺悔』)。長谷川 二葉亭(はせがわ ふたばてい)とも呼ばれる。別の号に冷々亭主人、杏雨。江戸市ヶ谷生れ。

彼の自筆履歴書によると、1883年2月1日から1885年12月25日まで、当時の専修学校(現在の専修大学)で学び、卒業した。また、東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科入学後、同科が改組されてできた東京商業学校(現一橋大学)第三部露語科を1886年1月に中退。

坪内逍遥と交流を結び、その勧めで評論『小説総論』を発表。1887年~1891年の間に出された写実主義小説『浮雲』は言文一致体で書かれ、日本の近代小説の開祖となった。

また、ロシア文学の翻訳も多くてがけ、ツルゲーネフの「あひゞき」「めぐりあひ」は特に有名。自然主義作家へ大きな影響を与えた。

後に『其面影』『平凡』を書いたが、1909年、ロシア赴任からの帰国途中、ベンガル湾上で客死した。

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下の写真は、【蚊取り線香、キンチョールで有名な大日本除虫菊の2代目社長の墓】シンガポールの日本人墓地には
著名な方々の墓や碑があります。
日本人皆、いや世界の多くの人々がしる蚊取り線香を発明した大日本除虫菊創業者(キンチョールでも有名)・上山栄一郎氏の長男で2代目社長の
上山英之助氏の墓があります。

上山家は和歌山の蜜柑農家でしたが、日本でも有数の蜜柑農家だったようで豪農の出です。

昭和5年に創業者である父の跡をついだ
上山英之助氏。

昭和17年に日本軍の属託として昭南島(シンガポール)に営業所を開設。
同年、インドネシアのスマトラ島で除虫菊の栽培を
おこなうためにシンガポールのセンバワン飛行場を離陸直後に搭乗機が墜落し亡くなりました。

大阪の土佐堀に本社がある大日本除虫菊。あえて上場せずいる会社(同族経営)ですが、絶大なブランド力を誇る会社です。

多くの方々が蚊取り線香やキンチョールのお世話に
なっていると思います。
しかし、蚊やゴキブリ達からすると
嫌な会社になるわけですがWW

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下の写真は【シンガポールの日本人墓地にある南方軍総司令官で陸軍大将の寺内寿一元帥のお墓】

長州閥の巨頭
第18第内閣総理大臣で陸軍大将元帥であった
寺内正毅の長男として生まれ、陸軍士官学校を卒業し
陸軍軍人に。
日露戦争に出征。
昭和11年の広田内閣時に陸軍大臣に就任。

昭和16年11月、大東亜戦争開戦前に
南方軍総司令官に就任。

終戦時は日本の占領下にあった
ベトナムのサイゴンにいたのですが、
ポツダム宣言受諾し、終戦後に
サイゴン郊外で病に倒れました。

英国軍マウントバッテン将軍の配慮で
マレーシアのジョホールバル州のレンガムにある
ヒギンス氏別邸にて療養。

病気のため日本軍の降伏式に参加できず
板垣征四郎大将が代理出席。
昭和21年、マレーシアのレンガムにて脳溢血で
亡くなりました。

マウントバッテン将軍の支持のもと
遺骨は、軍刀やその他の遺留品とともに
東京の遺族のもとに送られ、この墓には
遺髪や、襟章、爪、肩章などが納められています。

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【19世紀後半、日本から娼婦として海外に出た「からゆき」さんのお墓が】

明治時代が開けて日本が近代化が図られる中、
主に東アジアや東南アジアに娼婦として出稼ぎにいった女性がいました。

それら娼婦の方々は、主に長崎県の島原半島や
天草四朗で有名な熊本県の天草諸島出身の女性でした。他にも西日本を中心に娼婦として海外に出稼ぎにでたわけですが、多くは農村(小作農)や漁村の娘達、もしくは江戸時代にエタと呼ばれた被差別部落民の娘達でした。

家が貧しいがゆえに家を助けるために、
もしくは少数ながらも親に
身売りされた女性もいたようです。
東アジアや東南アジアには娼館(今でいう売春宿)
があり、欧米植民地であったために主には
客はそれら欧米白人が顧客となっていたのです。

欧米軍隊の強い希望があった、
シンガポール、支那大陸、香港、
フィリピン、ボルネオ、タイ、インドネシアなどです。

娼館へと橋渡ししたのは嬪夫と呼ばれた
斡旋業者・女衒です。

明治時代終わりに最盛期を向かえ、
国際的非難に加え、
国内の「国家の恥」という非難が増えた事により、
英領マラヤ(マレーシア、シンガポール)の
日本領事館は1920年に日本人娼婦の追放を宣言し、
やがて海外における日本人娼館は姿を消していきました。

多くの日本人娼婦は日本に帰国する中、
現地に残った女性もいます。

そのうちの1人が明治32年(1899)に
広島県のある被差別部落に生まれた善道キクヨ氏です。
マレーシア、シンガポールで働き、
後にインド系男性と結婚した彼女ですが、
戦後、マレー国籍を取得。
昭和48年に一時帰国。帰化申請し、日本人に戻りました。

からゆきさんのお墓には
明確な名前が入っていない墓石が多いですが、
別の場所に木墓で建てられて
朽ち果てていたのを哀れんだ
シンガポールの共済会(現在の日本人会)が
ここに移設して墓石を建てたのです。

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