国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

旧ユーゴスラビア

【コソボ紛争の国】旧ユーゴスラビア・コソボ・北西部最大都市ペヤ市・市街地!

コソボ北西部最大都市のペヤ。UNESCOの世界遺産に登録されているペーチ総主教修道院がある事でも知られる都市です。
基礎自治体を合わせた人口は10万人弱。

歴史的には農業活動の拠点であり、銅細工職人、金細工職人、靴職人、皮なめし工、馬具工などの伝統職人による工芸品が多く生産されました。

ステファン・ウロシュ4世の統治時代に中世セルビア王国の宗教的中心地となり、セルビア正教会の総主教座が1346年に置かれました。
これは1766年にペーチ教区が廃止されるまで続きました。

その後、オスマン朝による5世紀に渡る支配を経て
第一次バルカン戦争においてオスマン朝時代の終焉を迎え、モンテネグロによる支配⇒オーストリア・ハンガリー帝国⇒第一次世界大戦後、町はセルブ=クロアート=スロヴェーン王国の一部となりました。

1931年から1941年までの間、ペヤはユーゴスラビアのゼタ州の一部となり、第二次世界大戦の間、ペヤはイタリア支配下のアルバニアに占領されました。
大戦後にペヤはユーゴスラビア連邦のセルビア人民共和国の一部となりました。

多数派を占めるアルバニア人とセルビア人との間では、20世紀を通してしばしば緊張関係となっていましたが、その緊張関係は1999年のコソボ紛争でピークを迎え、町はこの間に膨大な被害を受け、多くの死者が発生しました。

2004年のコソボ暴動でも重大な被害を受けました。

現在は情勢は落ち着いており、復興も進んでいますが、至るところで紛争の傷跡を見る事が出来ます。

旧ユーゴスラビア諸国!第二弾!安全に周る秘訣?

海外周遊(世界一周)旅行!旧ユーゴスラビア諸国+アルバニア!安全に周る秘訣?
旧ユーゴスラビア構成国はセルビア、クロアチア、スロベニア、モンテネグロ、マケドニア、ボツニア、コソボです。
それと合わせて隣国のアルバニアを安全に周る秘訣を皆様に伝授します。

第一弾

第二弾

【世界遺産】旧ユーゴスラビア・モンテネグロ・コトルの絶景!ムオから!

【超お薦め世界遺産都市】現地実録新動画アップ。今回のお題は、【世界遺産】旧ユーゴスラビア・モンテネグロ・コトルの絶景!ムオから!World Heritage site ,Kotor,Montenegro

旧ユーゴスラビア・セルビアから分離独立したモン­­テネグロを訪問!
モンテネグロの世界遺産都市であるコトルを訪問。アドリア海沿いですが、位置している­­のは入り江の奥です。このような険しい岩山に囲まれております。この地形をいかし、­か­つて、背後の山に沿って城塞が築かれるなど、堅固な要塞都市として栄えました。
1979年に地震により多大な損害を受けましたが、ユネスコの復旧作業により、かつて­­の姿を取り戻しました。
宿泊場所は旧市街から1キロほどの距離で対岸にしましたが、旧市街からは遠いですが、­逆­に、対岸からの景色が美しくみれました。

コソボ紛争!セルビア・ベオグラード・NATO空爆ビル!国際ジャーナリスト大川原 明!現地ルポ!

コソボ紛争!セルビア・ベオグラード・NATO空爆ビル!国際ジャーナリスト大川原 明!現地ルポ!
コソボ紛争中の平成11年(1999年)に、セルビアの首都のベオグラードでNATO­­による空爆をうけたビルです。
コソボの問題は複雑です。20世紀を通じて、セルビア人とアルバニア人の民族間の対立­­がありました。
これに関してはまた別途、動画を編集し言及いたします。

コソボは大アルバニア人を掲げたアルバニア人の国です。

1999年の3月24日から6月10日にかけて行われたNATOによるアライド・フォ­­ース作戦、この間、NATOはユーゴスラビア軍や民間の標的に対して攻撃を加え、ア­ル­バニア人勢力はユーゴスラビア軍との戦闘を続け、コソボにおいて大規模な人口の流­動が­起こりました。
NATOによるセルビア空爆は、
6月11日まで続き、最大で1千機の航空機が、主にイタリアの基地から作戦に参加し、­­アドリア海などに展開されました。
巡航ミサイル・トマホークもまた大規模に用いられ、航空機や戦艦、潜水艦などから発射­­されました。

NATOの全ての加盟国が作戦に一定の関与。
10週間にわたる衝突の中で、NATOの航空機による出撃は38,000回を超えた。­­ドイツ空軍は、第二次世界大戦後で初めて戦闘に参加しました。

平成26年(2014年)8月訪問時撮影。


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旧ユーゴ・コソボ・プリシュティナ市・マザーテレサ大通り・歩行者天国

アジアの発展搭乗国のような喧騒感があるコソボの首都のプリシュティナ。NIKONの一眼レフカメラD610によるフルハイビジョン動画!現地にて撮影。コソボ紛争で有名なコソボ(16年前まで紛争状態でありました。皆さんの記憶にも新しいでしょう。外務省の危険レベルが1段階引き下げられました。)首都のプリシュティナ訪問。プリシュティナの目抜き通りのマザーテレサ大通りを端から端まで徒歩散策。
かの有名なノーベル賞受賞の修道女マザーテレサの母親がアルバニア人のため、アルバニア系住民が大多数を占めるコソボにおいて、マザーテレサ大通りと名付けられました。
旧ユーゴスラビアのコソボ平成26年(2014年)8月に旧ユーゴスラビア・セルビアから平成20年(2008­年)に独立したコソボを訪問!首都のプリシュティーナ、南西部中心都市であるプリズレ­ン、北西部中心都市のペヤの三都市を訪問。

プリシュナは、コソボの首都。2008年にセルビアからの独立を宣言したコソボ共和国の首都と定められているが、セルビアはコソボ共和国の独立を認めておらず、コソボ・メトヒヤ自治州の州都としている。

近隣の都市としては、約95キロ北東のニシュ、約80キロ南のスコピエ(マケドニア共和国の首都)などが挙げられる。1990年代のコソボ紛争で深刻な打撃を受け、現在も復興の途にあります。

人口は十万人台と首都の割には非常に少ないが、これでもコソボでは最も人口の多い都市であります。

第二次世界大戦後のユーゴスラビア社会主義連邦共和国を率いたヨシップ・ブロズ・チトーが1980年に死去すると、セルビア内で民族主義が高揚。

プリシュティナでは、経済不況や食糧不足でアルバニア人の暴動が頻発しました。

1989年、セルビアの大統領・スロボダン・ミロシェヴィッチが自治を制限、アルバニア語の使用が制限されアルバニア系住民が多くの職場から排斥されると、コソボのユーゴスラビアからの分離を求める運動が激化されました。

イブラヒム・ルゴヴァに指導されたコソボ民主連盟が結成される。これに対してセルビア政府は強硬策で臨みました。

1996年からはコソボ解放軍による武装闘争が開始されるが、プリシュティナは当初は平穏でありました。

1999年3月、コソボ紛争が本格化すると、プリシュティナは戦場と化す。4月、NATOの空爆が開始されると、市内のあちこちで虐殺行為が展開された。多くの住民がマケドニア共和国方面に脱出、その数は、アメリカ合衆国国務省の推定で1999年の5月だけで100,000人にのぼります。

コソボ紛争終結後は、40,000人いたセルビア人の多くがプリシュティナを離れたが、市内に留まった者の多くは、今度はアルバニア系住民の報復に怯えることになり、2009年にはプリシュティナから全てのセルビア系住民がいなくなった、と言われる。また、紛争でロマ人も多くが市を離れた。国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の本部が置かれています。

旧ユーゴ・コソボ・プリシュティナ市・マザーテレサ大通り!

アジアの発展搭乗国のような喧騒感があるコソボの首都のプリシュティナ。NIKONの一眼レフカメラD610によるフルハイビジョン動画!現地にて撮影。コソボ紛争で有名なコソボ(16年前まで紛争状態でありました。皆さんの記憶にも新しいでしょう。外務省の危険レベルが1段階引き下げられました。)首都のプリシュティナ訪問。プリシュティナの目抜き通りのマザーテレサ大通りを端から端まで徒歩散策。
かの有名なノーベル賞受賞の修道女マザーテレサの母親がアルバニア人のため、アルバニア系住民が大多数を占めるコソボにおいて、マザーテレサ大通りと名付けられました。
旧ユーゴスラビアのコソボ平成26年(2014年)8月に旧ユーゴスラビア・セルビアから平成20年(2008­年)に独立したコソボを訪問!首都のプリシュティーナ、南西部中心都市であるプリズレ­ン、北西部中心都市のペヤの三都市を訪問。

プリシュナは、コソボの首都。2008年にセルビアからの独立を宣言したコソボ共和国の首都と定められているが、セルビアはコソボ共和国の独立を認めておらず、コソボ・メトヒヤ自治州の州都としている。

近隣の都市としては、約95キロ北東のニシュ、約80キロ南のスコピエ(マケドニア共和国の首都)などが挙げられる。1990年代のコソボ紛争で深刻な打撃を受け、現在も復興の途にあります。

人口は十万人台と首都の割には非常に少ないが、これでもコソボでは最も人口の多い都市であります。

第二次世界大戦後のユーゴスラビア社会主義連邦共和国を率いたヨシップ・ブロズ・チトーが1980年に死去すると、セルビア内で民族主義が高揚。

プリシュティナでは、経済不況や食糧不足でアルバニア人の暴動が頻発しました。

1989年、セルビアの大統領・スロボダン・ミロシェヴィッチが自治を制限、アルバニア語の使用が制限されアルバニア系住民が多くの職場から排斥されると、コソボのユーゴスラビアからの分離を求める運動が激化されました。

イブラヒム・ルゴヴァに指導されたコソボ民主連盟が結成される。これに対してセルビア政府は強硬策で臨みました。

1996年からはコソボ解放軍による武装闘争が開始されるが、プリシュティナは当初は平穏でありました。

1999年3月、コソボ紛争が本格化すると、プリシュティナは戦場と化す。4月、NATOの空爆が開始されると、市内のあちこちで虐殺行為が展開された。多くの住民がマケドニア共和国方面に脱出、その数は、アメリカ合衆国国務省の推定で1999年の5月だけで100,000人にのぼります。

コソボ紛争終結後は、40,000人いたセルビア人の多くがプリシュティナを離れたが、市内に留まった者の多くは、今度はアルバニア系住民の報復に怯えることになり、2009年にはプリシュティナから全てのセルビア系住民がいなくなった、と言われる。また、紛争でロマ人も多くが市を離れた。国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の本部が置かれています。