国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

沖縄

平成30年(2018年)3月・沖縄視察(沖縄戦の激戦地・慰霊地調査 ・米軍基地調査 ・辺野古への基地移設問題調査 ・沖縄の政治状況調査 ・沖縄の経済状況調査等)

沖縄視察

3月の天皇皇后両陛下が沖縄へ行幸啓される前に沖縄を17年ぶりに訪問し3週間程視察。

調査内容は下記

・沖縄の文化や食、自然 ・沖縄の観光状況(観光地、世界遺産など)

・沖縄の外国人観光客(インバウンド)調査 ・沖縄戦の激戦地・慰霊地調査

・米軍基地調査 ・辺野古への基地移設問題調査 ・沖縄の政治状況調査 ・沖縄の経済状況調査 等

 

1.沖縄の激戦地・慰霊地調査

  • 旧海軍司令本部壕(那覇市と豊見城境)

沖縄県豊見城市と那覇市の市境に位置する海軍司令部壕。
日本で唯一の陸上戦である沖縄戦で大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕。

昭和19年、先の大戦において、絶対国防圏を守る上での最重要拠点であるサイパンやグアムなどのマリアナ諸島やパラオ戦線やフィリピン戦線での敗北でそれらを失い、敗色が強まってきました。戦線が南西諸島付近まで後退したため最前線となった沖縄の軍備が強化されることになりましたが、沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(現在の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになりました。

 

昭和19年8月10日に着工されましたが、実際には十・十空襲以降に始められ、同年12月に完成しました。壕はかなり深さがあり、枝分かれした全長約450mの坑道といくつかの部屋からなり、砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されています。部屋は作戦室、幕僚室、司令官室、暗号室、医療室、下士官室、兵員室、発電室があり広大な壕です。

 

昭和20年1月20日から大田実海軍中将が沖縄方面根拠地隊司令官として赴任し現地の指揮を執ることになりました。アメリカ軍による本格的な攻撃は3月23日頃から始まりましたが、3月31日には那覇市の北西沖約10キロメートルに浮かぶ神山島に上陸し、4月に入ると島に設置された砲台や海上艦船からの攻撃も始まりました。6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲。6月11日朝、司令部壕に米軍の集中攻撃が加えられ、同日夜には司令部壕からの最後の報告として海軍根拠地隊が玉砕したとの電報が発せられました。
6月13日に大田司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結し、戦線は南部に。司令官室には壁面に大田司令官の愛唱歌「大君の御はたのもとに・・・」の墨書が残されています。

 

戦後の調査で壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集された、昭和33年には更に1500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立されました。

 

  • 南風原町・沖縄陸軍病院南風原壕20号群

旧日本陸軍が造った病院壕

南風原町には黄金森(こがねもり)とよばれる小高い森があります。日本軍は沖縄戦に備え、黄金森に沖縄陸軍病院壕群を構築しました。院長以下、軍医・看護婦・衛生兵・ひめゆり学徒らがここで傷病兵の治療に当たりました。

 

昭和20年年4月1日に米軍が上陸してからは負傷兵が次々と南風原病院に運び込まれるようになりました。麻酔はすぐに底をつき手術は麻酔無しで行われました。
負傷した兵士は手足を切断する必要のある兵士も多く、麻酔無しの手術のために激痛が走り、手術の間、患者が暴れないよう押さえることや切断した手足や死体の処分等も
ひめゆり学徒の仕事でした。昭和20年5月25日に南部撤退命令が出て南部に移動。

 

ここには実際に使われていた当時のままの壕のうち20壕が有料で見学できます。縦横180センチほどの小さな通路で70メートル程の長さがあります。壕内は湿っており、電球がないので安全のためにヘルメットを着用し、懐中電灯を借りて案内人の方の説明を聞きながら進む感じになります。

  • ひめゆりの塔(糸満市

糸満にある「ひめゆりの塔」を再訪。
沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。

慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいます。

「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」でしたが、戦後ひらがなで記載されるようになりました。

昭和20年3月24日に沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍。5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜みました。戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられました。
既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味しました。

職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名であるが、このうち解散命令以後に死亡したのは117名で全体の86%にものぼり、さらに判明しているだけでも全体の35%にあたる47名が第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっています。

 

  • 対馬丸記念館(那覇市)

対馬丸事件

那覇市内にある対馬丸記念館
沖縄線で忘れてはならないのは、沖縄からの学童疎開に使用された輸送船・対馬丸。アメリカの潜水艦による魚雷攻撃で沈没。1482名の死者を出しました。

対馬丸は1912年(明治45年・大正元年)から整備を開始したT型貨物船のうち、欧州航路向けの第1期船6隻のうちの一隻として、イギリスのグラスゴーのラッセル造船所で高田丸とともに建造される。船価は9万4500ポンド。

竣工後は第一次世界大戦真っ只中の欧州航路などを就航して、当時は日英同盟で連合国側についていた日本。連合国向けの軍需品や食糧輸送で活躍し、特に対馬丸は1916年(大正5年)6月21日、再開されたパナマ運河を経由する貨物船として、横浜~東回りニューヨーク航路第1便として横浜を出航しました。
開戦直前の1941年(昭和16年)9月21日に陸軍に徴傭され、南方作戦に投入されました。後に、船舶運営会使用船となりました。

サイパン島玉砕後にアメリカはB29爆撃機による本土空襲が可能になりました。
これを危惧して日本政府は
「本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせよ」との命令を通達しました。
一方で、沖縄本島などへ展開させる兵員や軍需物資の輸送も同時に行う事となり、一部を除いて往路は軍事輸送、復路は疎開輸送に任じる事となりました。

1944年(昭和19年)8月20日に対馬丸と暁空丸、和浦丸で構成されたナモ103船団は台風接近による激しい風雨の中、蓮と宇治の護衛により長崎へ向けて那覇を出港しました。

翌々日の8月22日に西沢武雄船長と陸軍少尉の輸送指揮官との間で激論が交わされました。米潜水艦による魚雷攻撃によりいくつもの船が沈んでいる事を知っている西沢船長はこの航路の危険を熟知していたので、ジクザグコースを取る事を主張。しかし輸送指揮官は、船団から離れる危険や、到着の遅延への懸念の方を重く見て直線での航行を主張し、結局「軍の命令」ということで直線コースをりました。それが命取りに。

対馬丸を撃沈させたのは
アメリカの潜水艦ボーフィン。8月22日夜に攻撃を開始。6発の魚雷を発射し、2本の魚雷が命中。命中した11分後に対馬丸は大爆発を起こして沈没。
対馬丸の乗船者1788名のうち1482名が犠牲に。生き残った人々はイカダでトカラ列島や奄美諸島に漂着もしくは漁船等に助けられました。

平成26年(2014年)6月に慰霊のために天皇皇后両陛下が行幸啓。
慰霊碑「小桜の塔」や対馬丸記念館を訪れ、事件の生存者や遺族らと対話をしました。

 

  • 平和祈念公園(糸満市)

 
公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地&終焉地。
昭和20年5月、アメリカ軍の攻撃により、首里にあった日本軍司令部は、沖縄本島南部に移動。

日本軍による組織的抵抗は、6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了したがアメリカ軍は翌7月初めまで掃討戦を続けました。

平成祈念公園内には各県の慰霊碑一覧があります。

喜屋武岬などと同じくこの摩文仁の丘からも沢山の人間が追い詰められて飛び降りて亡くなりました。

  • 米軍基地調査(嘉手納基地、辺野古への基地移設問題、

    高江ヘリパッド等)

 

  • 嘉手納基地

米空軍の基地(在日米軍&極東最大の空軍基地)

昭和19年9月:大日本帝国陸軍航空隊の中飛行場として開設。

昭和20年4月:沖縄本島に上陸した米軍(アメリカ海兵隊)に占領される。整備拡張が行われ、同年6月には全長2,250mの滑走路が完成、嘉手納飛行場として使用開始。同年にキャンプ・サンソネ、陸軍住宅地域が設置されました。
基地の総面積は、約19.95km2。3,700mの滑走路2本を有し、200機近くの軍用機が常駐する極東最大の空軍基地である。滑走路においては成田国際空港(4,000mと2,500mの2本)や関西国際空港(3,500mと4,000mの2本)と遜色なく、日本最大級の飛行場の一つということになっている。

米軍の所在部隊は
・第18航空団 ・第353特殊戦航空群 ・第733航空輸送隊 ・第82偵察隊 ・第390情報隊

 

  • 高江ヘリパッド問題(東村)

アメリカ海兵隊の基地である北部訓練場(ジャングル戦闘訓練センター)です。の過半の返還の条件となる6ヶ所のヘリパッド移設工事に、東村高江の区民総会が反対決議を採択したことに端を発する一連の問題。

左派はノグチゲラやヤンバルクイナが生息する北部の自然を壊してほしくないという名目での抗議
ゲート付近の南側にテントがあり、共産党の看板や社民や沖縄の大衆党の面々、本土から左派の人々が押し寄せている。基地内には警察や警備関係者が警戒態勢をとっています。
テント内や周辺には左派の垂れ幕や看板が
・9条の会&彩の会の垂れ幕       ・日本共産党の看板

 

  • 辺野古移設問題(キャンプシュワブ前テント)

普天間基地移設の移転先となるであろう名護市の辺野古を訪問。在日米海兵隊の基地で第3海兵師団戦闘強襲大隊、 同第4海兵連隊、歩兵大隊などが駐留。

キャンプシュワブ周辺は「辺野古社交街」として、1960年代までは米兵で賑わう英語表記のスナックやバーで賑わう歓楽街でした。今ではそういったバーやスナックが普通の飲食店になっていたりしますが当時の面影を少し感じ取ることが出来ます。

辺野古移設反対の人々がテントを建てて米軍に対して抗議を展開。
テントにいた人々の人数は100人程で多くが60代~70代でしたが20代~40代の人々も少なからずいました。沖縄の人々と本土からの移住もしくは遠征組と混じっていました。
目視や話しをしてみていわゆるプロ市民(共産社会主義革命=全共闘世代や全学連など)もいれば、平和を願いそれら人々に洗脳されている人々も多くいます。

沖縄・海洋博記念公園・美ら海水族館!巨大ジンベイザメ&マンタ!

沖縄三大観光名所と称されている
沖縄美ら海水族館に。

沖縄県の日本復帰を記念して1975年7月から1976年1月にかけて開催された沖縄国際海洋博覧会が開催されましたが、
博覧会跡地に1976年9月1日に国営沖縄海洋博覧会記念公園として供用開始された公園です。
公園自体は一番最初に沖縄訪問した1992年に一度訪れているので今回は2回目。
しかし、2002年に開館した新館を訪れるのは初めてです。

2005年にアメリカのジョージア水族館が開館されるまでは世界最大の水族館でした。
水族館内には水量7,500m3の世界最大級の大水槽『黒潮の海』を設置するほか、総展示槽数は77槽。

ここで目玉となるのは世界で初めて長期飼育に成功したジンベエザメやナンヨウマンタで人々の人気を集めています。

料金は下記ですが
16時以降に入館する場合は3割引です。

大人 – 1,850円
高校生 – 1,230円
小中学生 – 610円
大人年間パスポート – 3,700円(発行日から1年間有効)

3月~9月までは20時まで営業しており
遅くまで入館できます。

【沖縄の世界遺産】沖縄県・今帰仁村・今帰仁城跡!

沖縄にある琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産9つの世界遺産の一つである今帰仁城を訪問。
今帰仁と書きナキジンと発音。城はこちらの言葉でグスク。

沖縄県国頭郡今帰仁村に位置する13世紀に建てられたと推測される城跡で。14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城。世界遺産だけでなく国の史跡に指定されています。
日本100名城の1つでもあります。

城跡で城は残っていませんし、再建もされていませんが
南北350 m、東西800 m、面積37,000 m2。県内最大級の城として
首里城と比べても劣らないお城だったようです。

。1609年の薩摩藩による琉球侵攻の際には、その攻撃の第一目標になり、1665年に廃城に。

沖縄県・那覇市と豊見城境・旧海軍司令本部壕!

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊①】
沖縄県豊見城市と那覇市の市境に位置する海軍司令部壕。
日本で唯一の陸上線である沖縄戦で大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕。

昭和19年、先の大戦において
絶対国防圏を守る上での最重要拠点であるサイパンやグアムなどのマリアナ諸島やパラオ戦線やフィリピン戦線での敗北でそれらを失い、敗色が強まってきました。

戦線が南西諸島付近まで後退したため最前線となった沖縄の軍備が強化されることになりましたが、沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(現在の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになりました。

昭和19年8月10日に着工されましたが、実際には十・十空襲以降に始められ同年12月に完成しました。

壕はかなり深さがあり、枝分かれした全長約450mの坑道といくつかの部屋からなり、砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されています。
部屋は作戦室、幕僚室、司令官室、暗号室、医療室、下士官室、兵員室、発電室があり広大な壕です。

昭和20年1月20日から大田実海軍中将が沖縄方面根拠地隊司令官として赴任し現地の指揮を執ることになりました。
アメリカ軍による本格的な攻撃は3月23日頃から始まりましたが、3月31日には那覇市の北西沖約10キロメートルに浮かぶ神山島に上陸し、4月に入ると島に設置された砲台や海上艦船からの攻撃も始まりました。

6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲。

6月11日朝、司令部壕に米軍の集中攻撃が加えられ、同日夜には司令部壕からの最後の報告として海軍根拠地隊が玉砕したとの電報が発せられました。
6月13日に大田司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結し、戦線は南部に。

司令官室には
壁面に大田司令官の愛唱歌「大君の御はたのもとに・・・」の墨書が残されています。

戦後の調査で壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集された、昭和33年には更に1500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立されました。

沖縄は綺麗なビーチが多く見所が多いですが
先の大戦では日本唯一の陸上戦がおこなわれ、約20万人の方が犠牲になった場所です。沖縄を訪れるのあればこういった戦跡や慰霊をしていただきたいと思います。

沖縄県・宜野湾市・キングタコス長田店でタコライスとタコス!

【沖縄発祥のタコライス】
I ate Tacos and Taco-rice at a KIng-Tacos shop in Ginowan city in Okinawa.
メキシコのタコス。タコスはヒスパニックの多いアメリカ西海岸でも広まり、タコベルなどのチェーン店があることでも有名です。
米軍基地がある関係で
沖縄にはアメリカ的なレストランが非常に多いです。(当初は米兵向けであったのだが)
一昔前はジャンクフード大好きな自分で、留学時などはマックやKFC、バーキン、サブウェイなどをよく利用していました。

今回はある方からお薦めいただいたタコスとタコライスを食すことが出来るキングタコスに。
タコライスは名前の通り、タコスの具材を米の上にのせた
ものです。

タコライスは金武町のキャンプハンセンのゲート前に広がる飲食店街にあった「パーラー千里(せんり)」の創業者、儀保松三の考案により1984年に販売開始されました。
後にチェーン展開することになる系列店の「キングタコス」を通して沖縄本島各地に広まっていきました。
現在は沖縄に複数店舗を展開するタコス&タコライスの有名店。

名護から車で南に下り
宜野湾市の長田店に。米軍ヘリが墜落したことでも知られる
沖縄国際大学の近くにあります。
店内は狭く、立ち食いできる場所はあるものの
持ち帰りの人々が多いです。

タコスは今までに食べた事はあっても
タコライスは此間、那覇のレストランで初めて食しました。
両方の味を楽しみたいと思い、タコスとタコライス両方を注文。

【沖縄の色鮮やかな魚】沖縄県那覇市・国際通り近くの第一牧志公設市場③1階!

那覇市内の牧志公設市場に。
本土の市場では見る事が出来ないものを見る事が出来ました。国内外の市場めぐりは面白いですが、沖縄の市場も興味深いです。

沖縄の近郊で獲れる魚。やはり熱帯、亜熱帯だと獲れる魚は本土とは異なります。見たことのない魚もあれば毒魚かと心配になるほど色鮮やかな魚ばかりです。
イシガキダイは何度か釣り上げたことあります。

釣り好きな自分ですので
魚はやはり同じ魚でも寒流にもまれた魚のほうが身が締まっていたり、脂がのっていたりして美味しいですが、沖縄の近郊で獲れる魚も食してみるとよいでしょう。

沖縄県うるま市・宮城島!果報バンタ(塩工場ぬちまーす隣)

世界遺産に認定されている勝連城跡を訪問後に
本島の東海岸に。海中道路を通り、平安座島、宮城島、伊計島に。宮城島にある「ぬうちなー」の塩工場の横にある果報バンタ。
バンタは沖縄の方言で崖で、標高120メートルの崖の上からはエメラルドグリーンの綺麗な海を見ることが出来ます。

到着時に曇りで晴れ間のときのように
綺麗な写真を撮ることが出来ませんでしたが
晴れたらより綺麗に見ることが出来ます。

沖縄の人気絶景場所の1つ。

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊④】沖縄県糸満市・平和祈念公園

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊④】
同じく糸満の平和祈念公園を再訪。

公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地&終焉地。
昭和20年5月、アメリカ軍の攻撃により、首里にあった日本軍司令部は、沖縄本島南部に移動。

日本軍による組織的抵抗は、6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了したがアメリカ軍は翌7月初めまで掃討戦を続けました。

平成祈念公園内には各県の慰霊碑一覧があります。
全てを訪れるのは時間がかかりますので
皆さんの出身県の慰霊碑にて合掌や焼香をするとよいでしょう。

喜屋武岬などと同じくこの摩文仁の丘からも沢山の人間が追い詰められて飛び降りて亡くなりました。

摩文仁の丘で出会った80過ぎのお婆さん。
「お兄ちゃん、慰霊はこちらからだよ。」と言われ
お婆さんの近くにいくと花を持っていってといわれました。
1束300円ですが、最初は断ったのですが
結局購入することに。
慰霊碑に献花させていただきました。
一緒に記念撮影。
80を過ぎても懸命に商売している姿に心を打たれました。

沖縄海洋博記念公園内の綺麗なエメラルドビーチ!「日本の水浴場88選」&「快水浴場100選」

公園内にはいくつかのビーチがあるのですが、一番のお勧めはエメラルドビーチです。名前のとおり、エメラルド色のビーチで、2001年に「日本の水浴場88選」、2006年には「快水浴場100選」に認定されています。

遊泳期間は4月1日~10月31日。遊泳期間中はビーチハウスと呼ばれる売店が営業し、監視員を配置して安全確保が図られます。有料とはなりますが、ビーチパラソルや浮き輪や救命胴衣の貸し出し、コインロッカーの完備もあります。また、無料でシャワーを利用する事が出来ますので、安心して海水浴を楽しむ事が出来ます。