オーストリアのウイーン!かつて中世にヨーロッパに覇を唱えたハプスブルク家が居を構えていた土地である。(元々はスイスの小領主出身)
シェーンブルン宮殿には日本庭園があります。これは大正2年(1913年)にフランツ・フェルディナント大公(サラエボ事件で殺害されたオーストリア皇太子)が日本訪問から帰国後造営させたもので、オーストリアの庭師に見よう見まねで作らせたものであります。
1892年、約1年の歳月をかけて世界一周の見聞旅行に出かけ、その途上で日本を訪れております。
この時、フランツ・フェルディナント大公(オーストリア皇太子い)は日本の風物や伝統文化などを詳細に手記に記しており、これは後にまとめられて出版されています。
オーストリア皇太子の日本日記という題名で講談社学術文庫から翻訳されて日本でも発売されております。
皇太子は「海外を見聞してみたい」と思うようになっていきました。
1891年、ロシア皇帝と謁見しにペテルブルグを訪れたのがきっかけになったようです。「異質な国民、民衆、文化、民俗についての知見を獲得し、異国の芸術を鑑賞し、さらには、汲めども尽きない異郷の地の自然に肌で接したい」と思うようになった皇太子は、世界一周の見聞旅行に出かけます。そして、その訪問先の1つが日本だったのです。
熊本、下関、宮島などを経た後、京都、大阪、奈良、大津などを訪問。
その後、東京に赴き、明治天皇に謁見。政府から大歓迎をうけもてなされました。
日光東照宮も訪問し、そこでは、かつての会津若松藩主であり、宮司になっていた松平容保公に迎えられました。(薩摩、長州等主体の新政府からはよくは思われていませんでしたが)
ちなみに松平容保公の曾孫である徳川恒孝氏は養子で徳川宗家に入り、徳川宗家18代目の当主となられたわけですが。奇遇にも18代目当主のご長男(家広氏)の方とは、当方は仕事でお会いした事がございます。
大正2年(1913年)に、日本の庭園が忘れられなかったオーストリア皇太子がオーストリアの庭師にみようみまねで造営させました。
その翌年、ボツニアのサラエボにてセルビア人青年により、オーストリア皇太子は暗殺されました。(サラエボ事件)
それにより第一次世界大戦勃発!!そして敗戦!
オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後は日本庭園は荒廃し、誰ともなしに「アルプス庭園」と呼ばれるようになったが、平成8年(1996年)にここを訪れた日本人が日本庭園ではないかと指摘により発覚。
その後調査が進められた結果、手水鉢と思われる石など見つかり、日本庭園ということが断定されました。
これを受け平成10年(1998年)、日本から庭師を招いて枯山水の日本庭園として修理復元されました。
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