国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

グアム【太平洋(大東亜)戦争‐戦跡地慰霊訪問】日米激戦地!グアムの南太平洋戦没者慰霊公苑

グアム【太平洋(大東亜)戦争‐戦跡地慰霊訪問】日米激戦地!グアムの南太平洋戦没者慰霊公苑

グアムというと日本人にも大人気のビーチリゾート。アメリカの準州として日本から最も近いアメリカ。バブル期以降数多くの日本人が観光で訪れ、最盛期は海外からの観光客の8割方を日本人観光客が占めている程であった。しかし、バブル期あとの長引く経済停滞やコロナ禍、超円安の現在は以前のように日本人観光客は多くはない。円高にふれていけば日本人観光客も再び戻ってくるものと推測している。

そんなビーチリゾートとして名高いグアム。ここが先の大戦下では日米の激戦地であったという事を知っている人は多いと思うが、戦跡地を慰霊する日本人は非常に少ないのが実情である。著者は今までパラオやビルマ、フィリピン、タイ北部、マレーシア、シンガポールなど先の大戦の激戦地を慰霊訪問してきた。

一人の日本人として祖国のために散華された英霊に感謝をし、慰霊のために日本国内、靖国神社や護国神社参拝。海外慰霊もおこなっている。今回は初のグアム。綺麗なビーチを見るのも渡航目的の一つであったが、目的の一つが戦跡地慰霊訪問。今回は六日日滞在。戦跡はグアム島内に散らばっており場所もわかりづらく、今回すべてを訪れる事が出来なかったが来年再訪予定である。

今回はグアム島内にある3つの戦跡を訪れた。一つ目はグアムの中心部タモンから南に位置するアサンビーチ。ここは先の大戦下、グアムの戦いでアメリカ軍が上陸した海岸で日米の激戦地。

昭和19年(1944年)7月21日の上陸前、7月8日からアメリカ軍は沖からの艦砲射撃と空爆。グアム戦の前におこなわれたサイパンの戦いでの日本軍の抗戦を予測したうえで、第三海兵師団が上陸。

2kmほどのアサン海岸には、独立混成第48旅団の第1大隊が守備を担当。アメリカ軍上陸部隊が海岸に接近すると山砲と速射砲で砲撃を加えた。またフォンテヒルに配備されていた第10連隊砲兵大隊も砲撃を開始。

アサン海岸沿いの丘に日本軍は米軍上陸を想定して海岸線の防御陣地。セメントなどの資材不足もあり、陣地構築に苦労したが、洞窟を利用して島のあらゆる丘や尾根にハチの巣状に数百の陣地が築かれた。

グアムは海岸から内陸に少しいったところは丘、小高い山々があり、そこに日本軍が洞窟陣地を形成。実際に現地踏査して自らの目で地形を確認すると

当時の日米の戦いがわかる。

今回訪れた戦跡もう1つの場所『ガンポイント』

昭和19年(1944年)7月21日にアサン海岸と共に米軍上陸地となったアガット海岸。アサン海岸から南に位置している。現在は太平洋戦争国立公園の1つとして整備されており、海岸沿いには旧日本軍の大砲が2門残っている。

ガンポイントはアガットの上陸海岸の中心に位置。米軍上陸当時、椰子の木が一帯に密生。石灰岩の岩盤があるが、上陸する米軍を攻撃するための日本軍陣地(偽装陣地)として使われた。

米軍が上陸前におこなった航空偵察ではこの山背一帯を単なる砂山だと見られていたが、米軍は上陸して日本軍陣地として知る事に。第77歩兵師団の数千名の米海兵隊が上陸。浅瀬の珊瑚礁の歩行は比較的容易であったが、上陸地点で日本軍の攻撃開始。米軍は数時間の間、前進を妨げられた。

海岸には日本軍の発射数毎分300発の25㎜二連対空砲と沿岸砲、トーチカが残されている。

グアムの中心部タモンから北進。米軍のアンダーソン空軍基地から近い距離にある南太平洋戦没者慰霊公苑。平和寺の建物の奥には平和祈念塔(慰霊塔)と慰霊碑(歩兵第18連隊、第521海軍航空隊、独立自動車第265中隊など)がある。

グアム島北部の叉木山々麓は日本守備軍(小畑中将軍司令官)玉砕の地。この地に太平洋戦域に散華した50万余柱の英霊を合祀する慰霊塔と平和を祈る家(平和寺)を建設し、諸霊位を慰め、世界の恒久平和を祈念している。

昭和41年に(財)南太平洋戦没者慰霊協会設立。同年、グアム島ジーコ村にグアム平和慰霊公苑の日米合同建設起工式がおこなわれた。昭和45年に太平洋全域における戦没者を合祀する表徴的慰霊塔及び納骨堂が完成し、除幕式がおこなわれた。

昭和57年に苑内に我無山平和寺が完成。僧侶を派遣常駐させていたが、平成10年4月に僧侶常駐廃止。

北側には旧日本軍の司令部壕跡がある。この辺りはグアムの戦い最後の激戦地となった場所。司令部壕には説明書きがあり「第31軍司令官‐小畑英良司令官中将は最後の総攻撃を下命するにあたり天皇陛下および大本営に足し、『己れの身を以て、太平洋の防波堤たらん』と決別の辞を打電し60名の将兵と共に自決した。時は1944年8月11日未明であった』と書かれている。

しかし、中部太平洋陸軍作戦の書物では60名の将兵は自決ではなく、壕が撃破され、兵員の殆どが戦死と書かれている。壕は爆破された時の傷跡が残っており、当時の状況を物語っており、壕の近くには日本軍飲料用水槽や1人用塹壕『蛸壺』が残されている。日本軍飲料用水槽がある場所の近くに階段があるが、そこに小川が流れている。雨期なので湿気があり、小生が到着時は曇っていたのが急に太陽が出てきて非常に蒸し暑く、蚊も多かった。

※NIKONのフラッグシップミラーレスカメラZ9で撮影

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