国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

大東亜(太平洋)戦争・激戦地慰霊訪問

【旧ソ連‐中央アジア】ウズベキスタンのタシケントの抑留日本人墓地慰霊訪問!シベリア抑留だけでなくソビエト各地に抑留された日本人

【旧ソ連‐中央アジア】ウズベキスタンのタシケントの抑留日本人墓地慰霊訪問!シベリア抑留だけでなくソビエト各地に抑留された日本人Japanese Cemetery,Tashkent,Uzbekistan

終戦間際に日ソ不可侵条約を破って満州、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島に侵攻したソ連。57万5千人以上の日本人がシベリアの他、中央アジアのカザフスタン、キルギス、ウズベキスタンやソ連と密接な関係にあったモンゴルに抑留されました。

現地では過酷な強制労働
抑留生活、寒さや飢えで亡くなる人は公表されているだけで
5万8千人以上(半分以上が亡くなっているとの調査報告も)。
祖国に帰りたくても帰れず異国の地で無念にも亡くなった日本人。小生は大東亜戦争の戦跡地、日本人墓地を慰霊訪問していますが、今後も継続していきます。

タシケントの日本人墓地は2つありますが、そのうちの1つを慰霊訪問。この墓地には79名の抑留日本人の墓地があり、氏名と出身地の記載がされています。祖国に帰りたくても帰れなかった日本人。さぞかし無念だったでしょう。

多くの日本人に慰霊訪問していただきたいです。
墓地は共同墓地内。入口や日本人墓地の場所がわかりずらいですが、分からなければ現地の人に場所を尋ねてください。

※NIKONのフラッグシップミラーレスカメラZ9で撮影
使用レンズはF2.8 24-70㎜レンズ

グアム【太平洋(大東亜)戦争‐戦跡地慰霊訪問】日米激戦地!グアムの南太平洋戦没者慰霊公苑

グアムというと日本人にも大人気のビーチリゾート。アメリカの準州として日本から最も近いアメリカ。バブル期以降数多くの日本人が観光で訪れ、最盛期は海外からの観光客の8割方を日本人観光客が占めている程であった。しかし、バブル期あとの長引く経済停滞やコロナ禍、超円安の現在は以前のように日本人観光客は多くはない。円高にふれていけば日本人観光客も再び戻ってくるものと推測している。

そんなビーチリゾートとして名高いグアム。ここが先の大戦下では日米の激戦地であったという事を知っている人は多いと思うが、戦跡地を慰霊する日本人は非常に少ないのが実情である。著者は今までパラオやビルマ、フィリピン、タイ北部、マレーシア、シンガポールなど先の大戦の激戦地を慰霊訪問してきた。

一人の日本人として祖国のために散華された英霊に感謝をし、慰霊のために日本国内、靖国神社や護国神社参拝。海外慰霊もおこなっている。今回は初のグアム。綺麗なビーチを見るのも渡航目的の一つであったが、目的の一つが戦跡地慰霊訪問。今回は六日日滞在。戦跡はグアム島内に散らばっており場所もわかりづらく、今回すべてを訪れる事が出来なかったが来年再訪予定である。

今回はグアム島内にある3つの戦跡を訪れた。一つ目はグアムの中心部タモンから南に位置するアサンビーチ。ここは先の大戦下、グアムの戦いでアメリカ軍が上陸した海岸で日米の激戦地。

昭和19年(1944年)7月21日の上陸前、7月8日からアメリカ軍は沖からの艦砲射撃と空爆。グアム戦の前におこなわれたサイパンの戦いでの日本軍の抗戦を予測したうえで、第三海兵師団が上陸。

2kmほどのアサン海岸には、独立混成第48旅団の第1大隊が守備を担当。アメリカ軍上陸部隊が海岸に接近すると山砲と速射砲で砲撃を加えた。またフォンテヒルに配備されていた第10連隊砲兵大隊も砲撃を開始。

アサン海岸沿いの丘に日本軍は米軍上陸を想定して海岸線の防御陣地。セメントなどの資材不足もあり、陣地構築に苦労したが、洞窟を利用して島のあらゆる丘や尾根にハチの巣状に数百の陣地が築かれた。

グアムは海岸から内陸に少しいったところは丘、小高い山々があり、そこに日本軍が洞窟陣地を形成。実際に現地踏査して自らの目で地形を確認すると

当時の日米の戦いがわかる。

今回訪れた戦跡もう1つの場所『ガンポイント』

昭和19年(1944年)7月21日にアサン海岸と共に米軍上陸地となったアガット海岸。アサン海岸から南に位置している。現在は太平洋戦争国立公園の1つとして整備されており、海岸沿いには旧日本軍の大砲が2門残っている。

ガンポイントはアガットの上陸海岸の中心に位置。米軍上陸当時、椰子の木が一帯に密生。石灰岩の岩盤があるが、上陸する米軍を攻撃するための日本軍陣地(偽装陣地)として使われた。

米軍が上陸前におこなった航空偵察ではこの山背一帯を単なる砂山だと見られていたが、米軍は上陸して日本軍陣地として知る事に。第77歩兵師団の数千名の米海兵隊が上陸。浅瀬の珊瑚礁の歩行は比較的容易であったが、上陸地点で日本軍の攻撃開始。米軍は数時間の間、前進を妨げられた。

海岸には日本軍の発射数毎分300発の25㎜二連対空砲と沿岸砲、トーチカが残されている。

グアムの中心部タモンから北進。米軍のアンダーソン空軍基地から近い距離にある南太平洋戦没者慰霊公苑。平和寺の建物の奥には平和祈念塔(慰霊塔)と慰霊碑(歩兵第18連隊、第521海軍航空隊、独立自動車第265中隊など)がある。

グアム島北部の叉木山々麓は日本守備軍(小畑中将軍司令官)玉砕の地。この地に太平洋戦域に散華した50万余柱の英霊を合祀する慰霊塔と平和を祈る家(平和寺)を建設し、諸霊位を慰め、世界の恒久平和を祈念している。

昭和41年に(財)南太平洋戦没者慰霊協会設立。同年、グアム島ジーコ村にグアム平和慰霊公苑の日米合同建設起工式がおこなわれた。昭和45年に太平洋全域における戦没者を合祀する表徴的慰霊塔及び納骨堂が完成し、除幕式がおこなわれた。

昭和57年に苑内に我無山平和寺が完成。僧侶を派遣常駐させていたが、平成10年4月に僧侶常駐廃止。

北側には旧日本軍の司令部壕跡がある。この辺りはグアムの戦い最後の激戦地となった場所。司令部壕には説明書きがあり「第31軍司令官‐小畑英良司令官中将は最後の総攻撃を下命するにあたり天皇陛下および大本営に足し、『己れの身を以て、太平洋の防波堤たらん』と決別の辞を打電し60名の将兵と共に自決した。時は1944年8月11日未明であった』と書かれている。

しかし、中部太平洋陸軍作戦の書物では60名の将兵は自決ではなく、壕が撃破され、兵員の殆どが戦死と書かれている。壕は爆破された時の傷跡が残っており、当時の状況を物語っており、壕の近くには日本軍飲料用水槽や1人用塹壕『蛸壺』が残されている。日本軍飲料用水槽がある場所の近くに階段があるが、そこに小川が流れている。雨期なので湿気があり、小生が到着時は曇っていたのが急に太陽が出てきて非常に蒸し暑く、蚊も多かった。

※NIKONのフラッグシップミラーレスカメラZ9で撮影

グアム【先の大戦‐戦跡地慰霊訪問】日米激戦地!グアムの南太平洋戦没者慰霊公苑-旧日本軍司令部壕-慰霊訪問!小畑英良中将!

グアムの中心部タモンから北進。米軍のアンダーソン空軍基地から近い距離にある南太平洋戦没者慰霊公苑。平和寺の建物の奥には平和祈念塔(慰霊塔)と慰霊碑(第18連隊、第521海軍航空隊、独立自動車第265中隊など)がある。

北側には旧日本軍の司令部壕跡がある。
この辺りはグアムの戦い最後の激戦地となった場所。

司令部壕には説明書きがあり
「第31軍司令官‐小畑英良司令官中将は最後の総攻撃を下命するにあたり天皇陛下および大本営に足し、『己れの身を以て、太平洋の防波堤たらん』と決別の辞を打電し60名の将兵と共に自決した。時は1944年8月11日未明であった』と書かれている。

しかし、中部太平洋陸軍作戦の書物では60名の将兵は自決ではなく、壕が撃破され、兵員の殆どが戦死と書かれている。
壕は爆破された時の傷跡が残っており、当時の状況を物語っており、壕の近くには日本軍飲料用水槽や1人用塹壕『蛸壺』が残されている。日本軍飲料用水槽がある場所の近くに階段があるが、そこに小川が流れている。

雨期なので湿気があり、小生が到着時は曇っていたのが急に太陽が出てきて非常に蒸し暑く、蚊も多かった。
グアムは数は減ったとはいえ、日本人に人気のビーチリゾート。綺麗な海で海水浴も楽しんでほしいが、かつて日米激戦となった地、数多くの日本人に慰霊訪問してほしいと切に願っている。

グアム島北部の叉木山々麓は日本守備軍(小畑中将軍司令官)玉砕の地。この地に太平洋戦域に散華した50万余柱の英霊を合祀する慰霊塔と平和を祈る家(平和寺)を建設し、諸霊位を慰め、世界の恒久平和を祈念している。

昭和41年に(財)南太平洋戦没者慰霊協会設立。同年、グアム島ジーコ村にグアム平和慰霊公苑の日米合同建設起工式がおこなわれた。昭和45年に太平洋全域における戦没者を合祀する表徴的慰霊塔及び納骨堂が完成し、除幕式がおこなわれた。

昭和57年に苑内に我無山平和寺が完成。僧侶を派遣常駐させていたが、平成10年4月に僧侶常駐廃止。
苑内には平和寺、慰霊塔、慰霊碑のほか、旧日本軍司令部壕や飲料用水槽が残されている。

【先の大戦‐戦跡地慰霊訪問】日米激戦地!グアムのアガット海岸‐ガンポイント!日本軍の大砲!グアム

グアム島内にある先の大戦の日米激戦地の戦跡の1つ『ガンポイント』。
昭和19年(1944年)7月21日にアサン海岸と共に米軍上陸地となったアガット海岸。アサン海岸から南に位置している。現在は太平洋戦争国立公園の1つとして整備されており、海岸沿いには旧日本軍の大砲が2門残っている。

ガンポイントはアガットの上陸海岸の中心に位置。米軍上陸当時、椰子の木が一帯に密生。石灰岩の岩盤があるが、上陸する米軍を攻撃するための日本軍陣地(偽装陣地)として使われた。

米軍が上陸前におこなった航空偵察ではこの山背一帯を単なる砂山だと見られていたが、米軍は上陸して日本軍陣地として知る事に。第77歩兵師団の数千名の米海兵隊が上陸。浅瀬の珊瑚礁の歩行は比較的容易であったが、上陸地点で日本軍の攻撃開始。米軍は数時間の間、前進を妨げられた。

海岸には日本軍の発射数毎分300発の25㎜二連対空砲と沿岸砲、トーチカが残されている。

※NIKONのフラッグシップミラーレスカメラZ9で撮影

【先の大戦‐戦跡地慰霊訪問】グアム南西部のアサン海岸 ‐日米激戦地 グアムの戦いアメリカ軍上陸地

グアムの中心部タモンから南に位置するアサンビーチ。ここは先の大戦下、グアムの戦いでアメリカ軍が上陸した海岸で日米の激戦地。
昭和19年(1944年)7月21日の上陸前、7月8日からアメリカ軍は沖からの艦砲射撃と空爆。グアム戦の前におこなわれたサイパンの戦いでの日本軍の抗戦を予測したうえで、第三海兵師団が上陸。

2kmほどのアサン海岸には、独立混成第48旅団の第1大隊が守備を担当。アメリカ軍上陸部隊が海岸に接近すると山砲と速射砲で砲撃を加えた。またフォンテヒルに配備されていた第10連隊砲兵大隊も砲撃を開始。

アサン海岸沿いの丘に日本軍は米軍上陸を想定して海岸線の防御陣地。セメントなどの資材不足もあり、陣地構築に苦労したが、洞窟を利用して島のあらゆる丘や尾根にハチの巣状に数百の陣地が築かれた。

グアムは海岸から内陸に少しいったところは丘、小高い山々があり、そこに日本軍が洞窟陣地を形成。実際に現地踏査して自らの目で地形を確認すると
当時の日米の戦いがわかる。
※ニコンのフラッグシップミラーレスカメラZ9で撮影

【親日国】かつて日本が委任統治したパラオの2つの神社『ペリリュー神社&南洋神社(コロール島)』

かつての日本の委任統治領であったパラオ共和国を8泊9日の日程で訪問。コロール島のホテルを拠点に、レンタカーを借りてバベルダオブ島などを訪問。訪問目的の1つが日本統治時代の日本関連物調査と日米激戦地調査(聞き取り調査&写真と映像での撮影)
かつて日本が委任統治したパラオ共和国。

パラオには2つの神社があります。

1つはパラオのコロール島の南洋神社跡。一部は現存しているが、多くは戦後に再建されたものです。
統治時代は、敷地はもっと広く立派であったそうですが。南洋神社参拝。かつての日本人が多くこの神社に参拝していたかと思うとその光景が脳裏に浮かびます。このあたりで亡くなられた英霊達もこの神社に合祀されております。

もう1つはペリリュー島にあるペリリュー神社。
米軍最初の上陸地や1000人防空壕、司令本部跡、旧日本軍ゼロ戦や戦車の残骸、ペリリュー神社等参拝。

1934年に天照大神を祭神とする南興神社(ペリリュー神社)が建立され、現地の日本人住民は島の繁栄を祈願してきた。1944年、ペリリュー島で日米による激しい戦闘(ペリリューの戦い)が行われ破壊されました。

この近くにはかつて日本人学校もあったそうです。コロール島と同じように軍人でない日本人も暮らしていたとの事です。1982年に清流社が日本から運搬した材料を使って、ペリリュー神社が再建。
この際、ペリリュー島で戦死した一万余名の英霊が併祀されました。

パラオ

ペリリュー神社

ペリリュー島

神社

パラオ共和国

親日

親日国

南洋神社

青森県八甲田山!明治35年/八甲田雪中行軍遭難事件現場!慰霊訪問!

青森県八甲田山!明治35年/八甲田雪中行軍遭難事件現場!慰霊訪問!disaster in Hakkoda Snow march distress accident in 1902,Japan

【青森県八甲田山!明治35年(1902年)八甲田雪中行軍遭難事件慰霊訪問】
今から118年前、明治35年(1902年)1月に起きた八甲田雪中行軍遭難事件。
日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件です。
訓練への参加者210名中199名が死亡するという日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故。
この訓練は、厳寒地における対ロシアとの戦いを想定した訓練であり、実際に、この2年後に日露戦争が勃発しています。
後藤房之助伍長の像の背後にある山々が八甲田山系(18の成層火山や溶岩円頂丘で構成される火山群。最高峰は大岳で1584m)

親日国パラオで世界遺産ロックアイランドツアーに参加!ミルキーウェイ、シュノーケリング、無人島上陸

親日国パラオで世界遺産ロックアイランドツアーに参加!ミルキーウェイ、シュノーケリング、無人島上陸!Rock-islands tour in Palau

日本の委任統治領であったパラオ。30年間もの間、日本が統治した国ですが、国民はとても親日。日本人にとって非常に居心地が良い国です。
ペリリュー島やアンガウル島などの慰霊訪問は必ずしていただきたいのですが、ビーチリゾートとしての魅力も素晴らしいです。
ロックアイランドのツアーはお薦めで、シュノーケル堪能や綺麗な海を見る事が出来ます。

パラオ

ロックアイランド

委任統治領

親日

親日国

【古き良き雰囲気が残る】ミャンマー・ヤンゴン・日本人墓地!ビルマの竪琴!

【古き良き雰囲気が残る】
ミャンマー・ヤンゴン・日本人墓地!ビルマの竪琴!

アウンサンスーチー女史の軟禁が解かれ、民主化が進むミャンマー。
ここは、かつてビルマと呼ばれた国です。
先の大戦下では日本の占領下に置かれた国。
日本軍がインパール作戦などで敗退するとともに
数多くの人々がビルマや周辺の国々で亡くなりました。

ビルマの竪琴の水島上等兵で有名なビルマ。
数多くの人々が亡くなり、
それら日本兵(英霊)のために墓地が造られ
慰霊碑が置かれています。

平成30年(2018年)3月・沖縄視察(沖縄戦の激戦地・慰霊地調査 ・米軍基地調査 ・辺野古への基地移設問題調査 ・沖縄の政治状況調査 ・沖縄の経済状況調査等)

沖縄視察

3月の天皇皇后両陛下が沖縄へ行幸啓される前に沖縄を17年ぶりに訪問し3週間程視察。

調査内容は下記

・沖縄の文化や食、自然 ・沖縄の観光状況(観光地、世界遺産など)

・沖縄の外国人観光客(インバウンド)調査 ・沖縄戦の激戦地・慰霊地調査

・米軍基地調査 ・辺野古への基地移設問題調査 ・沖縄の政治状況調査 ・沖縄の経済状況調査 等

 

1.沖縄の激戦地・慰霊地調査

  • 旧海軍司令本部壕(那覇市と豊見城境)

沖縄県豊見城市と那覇市の市境に位置する海軍司令部壕。
日本で唯一の陸上戦である沖縄戦で大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕。

昭和19年、先の大戦において、絶対国防圏を守る上での最重要拠点であるサイパンやグアムなどのマリアナ諸島やパラオ戦線やフィリピン戦線での敗北でそれらを失い、敗色が強まってきました。戦線が南西諸島付近まで後退したため最前線となった沖縄の軍備が強化されることになりましたが、沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(現在の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになりました。

 

昭和19年8月10日に着工されましたが、実際には十・十空襲以降に始められ、同年12月に完成しました。壕はかなり深さがあり、枝分かれした全長約450mの坑道といくつかの部屋からなり、砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されています。部屋は作戦室、幕僚室、司令官室、暗号室、医療室、下士官室、兵員室、発電室があり広大な壕です。

 

昭和20年1月20日から大田実海軍中将が沖縄方面根拠地隊司令官として赴任し現地の指揮を執ることになりました。アメリカ軍による本格的な攻撃は3月23日頃から始まりましたが、3月31日には那覇市の北西沖約10キロメートルに浮かぶ神山島に上陸し、4月に入ると島に設置された砲台や海上艦船からの攻撃も始まりました。6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲。6月11日朝、司令部壕に米軍の集中攻撃が加えられ、同日夜には司令部壕からの最後の報告として海軍根拠地隊が玉砕したとの電報が発せられました。
6月13日に大田司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結し、戦線は南部に。司令官室には壁面に大田司令官の愛唱歌「大君の御はたのもとに・・・」の墨書が残されています。

 

戦後の調査で壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集された、昭和33年には更に1500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立されました。

 

  • 南風原町・沖縄陸軍病院南風原壕20号群

旧日本陸軍が造った病院壕

南風原町には黄金森(こがねもり)とよばれる小高い森があります。日本軍は沖縄戦に備え、黄金森に沖縄陸軍病院壕群を構築しました。院長以下、軍医・看護婦・衛生兵・ひめゆり学徒らがここで傷病兵の治療に当たりました。

 

昭和20年年4月1日に米軍が上陸してからは負傷兵が次々と南風原病院に運び込まれるようになりました。麻酔はすぐに底をつき手術は麻酔無しで行われました。
負傷した兵士は手足を切断する必要のある兵士も多く、麻酔無しの手術のために激痛が走り、手術の間、患者が暴れないよう押さえることや切断した手足や死体の処分等も
ひめゆり学徒の仕事でした。昭和20年5月25日に南部撤退命令が出て南部に移動。

 

ここには実際に使われていた当時のままの壕のうち20壕が有料で見学できます。縦横180センチほどの小さな通路で70メートル程の長さがあります。壕内は湿っており、電球がないので安全のためにヘルメットを着用し、懐中電灯を借りて案内人の方の説明を聞きながら進む感じになります。

  • ひめゆりの塔(糸満市

糸満にある「ひめゆりの塔」を再訪。
沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。

慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいます。

「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」でしたが、戦後ひらがなで記載されるようになりました。

昭和20年3月24日に沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍。5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜みました。戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられました。
既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味しました。

職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名であるが、このうち解散命令以後に死亡したのは117名で全体の86%にものぼり、さらに判明しているだけでも全体の35%にあたる47名が第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっています。

 

  • 対馬丸記念館(那覇市)

対馬丸事件

那覇市内にある対馬丸記念館
沖縄線で忘れてはならないのは、沖縄からの学童疎開に使用された輸送船・対馬丸。アメリカの潜水艦による魚雷攻撃で沈没。1482名の死者を出しました。

対馬丸は1912年(明治45年・大正元年)から整備を開始したT型貨物船のうち、欧州航路向けの第1期船6隻のうちの一隻として、イギリスのグラスゴーのラッセル造船所で高田丸とともに建造される。船価は9万4500ポンド。

竣工後は第一次世界大戦真っ只中の欧州航路などを就航して、当時は日英同盟で連合国側についていた日本。連合国向けの軍需品や食糧輸送で活躍し、特に対馬丸は1916年(大正5年)6月21日、再開されたパナマ運河を経由する貨物船として、横浜~東回りニューヨーク航路第1便として横浜を出航しました。
開戦直前の1941年(昭和16年)9月21日に陸軍に徴傭され、南方作戦に投入されました。後に、船舶運営会使用船となりました。

サイパン島玉砕後にアメリカはB29爆撃機による本土空襲が可能になりました。
これを危惧して日本政府は
「本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせよ」との命令を通達しました。
一方で、沖縄本島などへ展開させる兵員や軍需物資の輸送も同時に行う事となり、一部を除いて往路は軍事輸送、復路は疎開輸送に任じる事となりました。

1944年(昭和19年)8月20日に対馬丸と暁空丸、和浦丸で構成されたナモ103船団は台風接近による激しい風雨の中、蓮と宇治の護衛により長崎へ向けて那覇を出港しました。

翌々日の8月22日に西沢武雄船長と陸軍少尉の輸送指揮官との間で激論が交わされました。米潜水艦による魚雷攻撃によりいくつもの船が沈んでいる事を知っている西沢船長はこの航路の危険を熟知していたので、ジクザグコースを取る事を主張。しかし輸送指揮官は、船団から離れる危険や、到着の遅延への懸念の方を重く見て直線での航行を主張し、結局「軍の命令」ということで直線コースをりました。それが命取りに。

対馬丸を撃沈させたのは
アメリカの潜水艦ボーフィン。8月22日夜に攻撃を開始。6発の魚雷を発射し、2本の魚雷が命中。命中した11分後に対馬丸は大爆発を起こして沈没。
対馬丸の乗船者1788名のうち1482名が犠牲に。生き残った人々はイカダでトカラ列島や奄美諸島に漂着もしくは漁船等に助けられました。

平成26年(2014年)6月に慰霊のために天皇皇后両陛下が行幸啓。
慰霊碑「小桜の塔」や対馬丸記念館を訪れ、事件の生存者や遺族らと対話をしました。

 

  • 平和祈念公園(糸満市)

 
公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地&終焉地。
昭和20年5月、アメリカ軍の攻撃により、首里にあった日本軍司令部は、沖縄本島南部に移動。

日本軍による組織的抵抗は、6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了したがアメリカ軍は翌7月初めまで掃討戦を続けました。

平成祈念公園内には各県の慰霊碑一覧があります。

喜屋武岬などと同じくこの摩文仁の丘からも沢山の人間が追い詰められて飛び降りて亡くなりました。

  • 米軍基地調査(嘉手納基地、辺野古への基地移設問題、

    高江ヘリパッド等)

 

  • 嘉手納基地

米空軍の基地(在日米軍&極東最大の空軍基地)

昭和19年9月:大日本帝国陸軍航空隊の中飛行場として開設。

昭和20年4月:沖縄本島に上陸した米軍(アメリカ海兵隊)に占領される。整備拡張が行われ、同年6月には全長2,250mの滑走路が完成、嘉手納飛行場として使用開始。同年にキャンプ・サンソネ、陸軍住宅地域が設置されました。
基地の総面積は、約19.95km2。3,700mの滑走路2本を有し、200機近くの軍用機が常駐する極東最大の空軍基地である。滑走路においては成田国際空港(4,000mと2,500mの2本)や関西国際空港(3,500mと4,000mの2本)と遜色なく、日本最大級の飛行場の一つということになっている。

米軍の所在部隊は
・第18航空団 ・第353特殊戦航空群 ・第733航空輸送隊 ・第82偵察隊 ・第390情報隊

 

  • 高江ヘリパッド問題(東村)

アメリカ海兵隊の基地である北部訓練場(ジャングル戦闘訓練センター)です。の過半の返還の条件となる6ヶ所のヘリパッド移設工事に、東村高江の区民総会が反対決議を採択したことに端を発する一連の問題。

左派はノグチゲラやヤンバルクイナが生息する北部の自然を壊してほしくないという名目での抗議
ゲート付近の南側にテントがあり、共産党の看板や社民や沖縄の大衆党の面々、本土から左派の人々が押し寄せている。基地内には警察や警備関係者が警戒態勢をとっています。
テント内や周辺には左派の垂れ幕や看板が
・9条の会&彩の会の垂れ幕       ・日本共産党の看板

 

  • 辺野古移設問題(キャンプシュワブ前テント)

普天間基地移設の移転先となるであろう名護市の辺野古を訪問。在日米海兵隊の基地で第3海兵師団戦闘強襲大隊、 同第4海兵連隊、歩兵大隊などが駐留。

キャンプシュワブ周辺は「辺野古社交街」として、1960年代までは米兵で賑わう英語表記のスナックやバーで賑わう歓楽街でした。今ではそういったバーやスナックが普通の飲食店になっていたりしますが当時の面影を少し感じ取ることが出来ます。

辺野古移設反対の人々がテントを建てて米軍に対して抗議を展開。
テントにいた人々の人数は100人程で多くが60代~70代でしたが20代~40代の人々も少なからずいました。沖縄の人々と本土からの移住もしくは遠征組と混じっていました。
目視や話しをしてみていわゆるプロ市民(共産社会主義革命=全共闘世代や全学連など)もいれば、平和を願いそれら人々に洗脳されている人々も多くいます。