パラオ・マラカル島にある日本人の名前をつける現地自動車修理会社。平成25年(2013年)6月に9日間、太平洋に浮かぶかつての日本の委任統治領であるパラオを訪問しました。
今回のテーマは
アキーラさん発見①親日国パラオ・マラカル島・日本名をつける現地自動車修理屋
Yo-jiroと名をつける自動車修理屋
現地での調査結果により、経営者はパラオ人でした。尊敬する日本(人)の名前をつけたそうです。このように、この国では生粋のパラオ人が、日本人の名前を子供や会社につける事をしております。それだけ日本が尊敬、愛されているということです。
パラオはかつて、ドイツの委任統治領でしたが、第一次世界大戦でドイツが敗戦をした結果、日本がパラオの統治をゆだねられ、30年程日本の委任統治領で会った場所です。
通称パラオは、太平洋上のミクロネシア地域の島々からなる国である。首都はマルキョク。2006年10月7日に旧首都コロールから遷都しました。
16世紀頃より、海運の進歩の結果ミクロネシア諸島にもヨーロッパ人が訪れるようになり、スペイン人が初めて渡来し、次いでポルトガル人、イギリス人がやってきた。パラオも1885年にスペインの植民地下に入った。
これらのヨーロッパ人により天然痘などが持ち込まれ、また現地人に対する搾取が行われた結果、パラオの人口は90%程度減少したとされる。1899年に、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却、パラオもこれに含まれ以降ドイツ植民地となりました。
1914年に第一次世界大戦が開始されると、イギリスやアメリカなどと同じ連合国の一国であり、ドイツに対して宣戦を布告した日本が海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領しました。
第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領にななりました]。
コロールには南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島における植民地統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住しました
日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病院、道路など各種インフラストラクチャーの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させてきました。
また、日本統治の開始にともない日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになりました。
太平洋戦争末期に、アメリカ軍がパラオに侵攻してきた際に、南のアンガウル島やペリリュー島は激戦地となりペリリューでは日本人兵士約11000人が玉砕する(アメリカ軍死者は約8000人)程、激戦地となった。アメリカ軍が攻めてくる前に、日本軍はペリリュー島民を戦争の犠牲者にならないように本島へ移住させた。しかし、日本軍と一緒に戦うと島に残ったペリリュー島民も多くおりました。
今でもパラオは親日国であり、1994年独立の際は、尊敬する日本の国旗を真似て、国旗を作りました。初代大統領は日本人の血を引く日系人(現地人との混血)のナカムラ・クニオ氏です。日本はアメリカと並ぶパラオへの最大の援助国であり、それらへの感謝の碑をいたるところで発見します
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