バルト三国の一国であるリトアニアの古都のカウナスを訪問。杉原千畝記念館を訪問。
ここは何が有名かというユダヤ人の命を救った 杉原千畝氏が領事代理として赴任していた地であり、日本領事館があった場所であります。
1940年7月当時、日本は既に日独伊三国協定を結んでいた。(同年9月には三国同盟に発展。)当時は、この地にリトアニアの首都が置かれていた。(ビリニュスは一時、ポーランド領、1940年からソ連領となった経緯があり)
平成27年(2015年)年に映画化されて日本人の中でも名が知られるようになった杉原千畝。杉原千畝は、6000人以上のユダヤ人の命を救った事で知られる日本人である。
1940年7月、突然、多くの人だかりが出来ていた。彼らはナチスに追われ、ポーランドからリトアニアに追われてきたユダヤ人であった。彼らの要求は日本の通過ビザである。それがないとソ連すら抜けることが出来ない。シベリアを経由してアメリカ大陸へ渡る方法を模索していた。(多くの人が日本を経由した)。
当時の日本は、ドイツとの関係があり、日本政府は通過ビザ打診の許可を出さなかった。日本政府としては当然の事をしたまでである。
しかし、杉原氏は自分の身や家族を顧みることなく、彼らを助けるために半月ほど、昼夜問わず、ペンが折れ、腕が動かなくなるまでビザを書き続けて、リトアニアを脱出する列車でも書き続けたという。発行されたビザは1600。これにより、日本を経由し、第三国に渡ることが出来たユダヤ人は6000を越えるという。
この人はよく、自虐史観に満ちた日本を憂う事が出来ない左翼主義者達に崇められる時がある。そして、そこから過去の大戦のナチスドイツに対する批判が始まり、ひいては日本に対する自虐史観教育の説明につなげられている。
杉原氏に関しては賛否両論ある事と思う。しかし、自分の見解では武士道精神(彼は士族の出で、祖先は武士である)における情があったと思う。あれだけの人だかりをみて情けを掛けずにはいられなかったのである。自分の身も省みず他者を助けた行為は素晴らしいと思う。そして、ビザ発給の際は、皆にニッポン万歳と言わせたという。
戦後、彼のおかげもあり、ユダヤ人は親日的に日本に協力する人も多く、恩を忘れていない。(もちろん全てではなく一部の人々であるが)
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