【沖縄戦慰霊・慰霊地】
那覇市内にある対馬丸記念館
沖縄線で忘れてはならないのは、沖縄からの学童疎開に使用された輸送船・対馬丸。アメリカの潜水艦による魚雷攻撃で沈没。1482名の死者を出しました。
対馬丸は1912年(明治45年・大正元年)から整備を開始したT型貨物船のうち、欧州航路向けの第1期船6隻のうちの一隻として、イギリスのグラスゴーのラッセル造船所で高田丸とともに建造される。船価は9万4500ポンド。
竣工後は第一次世界大戦真っ只中の欧州航路などを就航して、当時は日英同盟で連合国側についていた日本。連合国向けの軍需品や食糧輸送で活躍し、特に対馬丸は1916年(大正5年)6月21日、再開されたパナマ運河を経由する貨物船として、横浜~東回りニューヨーク航路第1便として横浜を出航しました。
開戦直前の1941年(昭和16年)9月21日に陸軍に徴傭され、南方作戦に投入されました。後に、船舶運営会使用船となりました。
サイパン島玉砕後にアメリカはB29爆撃機による本土空襲が可能になりました。
これを危惧して日本政府は
「本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせよ」との命令を通達しました。
一方で、沖縄本島などへ展開させる兵員や軍需物資の輸送も同時に行う事となり、一部を除いて往路は軍事輸送、復路は疎開輸送に任じる事となりました。
1944年(昭和19年)8月20日に対馬丸と暁空丸、和浦丸で構成されたナモ103船団は台風接近による激しい風雨の中、蓮と宇治の護衛により長崎へ向けて那覇を出港しました。
翌々日の8月22日に西沢武雄船長と陸軍少尉の輸送指揮官との間で激論が交わされました。米潜水艦による魚雷攻撃によりいくつもの船が沈んでいる事を知っている西沢船長はこの航路の危険を熟知していたので、ジクザグコースを取る事を主張。しかし輸送指揮官は、船団から離れる危険や、到着の遅延への懸念の方を重く見て直線での航行を主張し、結局「軍の命令」ということで直線コースをりました。それが命取りに。
対馬丸を撃沈させたのは
アメリカの潜水艦ボーフィン。8月22日夜に攻撃を開始。6発の魚雷を発射し、2本の魚雷が命中。命中した11分後に対馬丸は大爆発を起こして沈没。
対馬丸の乗船者1788名のうち1482名が犠牲に。生き残った人々はイカダでトカラ列島や奄美諸島に漂着もしくは漁船等に助けられました。
平成26年(2014年)6月に慰霊のために天皇皇后両陛下が行幸啓。
慰霊碑「小桜の塔」や対馬丸記念館を訪れ、事件の生存者や遺族らと対話をしました。
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