【ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ-サラエボ事件現場】
ボスニアというと「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」を連想される方が多いと思いますが、もう1つの歴史的な出来事が第一次世界大戦の引き金となった「サラエボ事件」が起こった場所。
1914年6月28日にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子であるオーストリア大公『フランツ・フェルディナント』と妻の『ゾフィー・ホテク』がセルビア系の青年『ガヴリロ・プリンツィプ』によって暗殺された事件。
当時のボスニアはオーストリア・ハンガリー帝国の領土で式典に参加するために皇太子夫妻はサラエボを訪問中。
大セルビア主義を掲げた組織『黒手組』6人による仕業、
この事件の後、
オーストリア・ハンガリー帝国がセルビア王国に最後通牒を出して両国の交渉がまとまらず決裂して国交断交。
翌月7月28日にオーストリア・ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦布告をして第一次世界大戦が勃発しました。
ハプスブルク家が拠点を置いていたオーストリアのウイーン。
シェーンブルン宮殿には日本庭園があります。
サラエボ事件で暗殺されたフェルディナント大公が日本視察訪問から帰国後に造営させたものです。
フェルディナントは1892年、約1年の歳月をかけて世界一周の見聞旅行に出かけ、その行程の中で日本を訪れました。 この時、大公は日本の風物や伝統文化などを詳細に手記に記しており、これは後にまとめられて出版されています。
大公が、海外を周るきっかけとなったのは、 1891年、ロシア皇帝と謁見しにペテルブルグを訪れたのがきっかけ。フェルディナント大公は異質な国民、民衆、文化、民俗についての知見を獲得し、異国の芸術を鑑賞し、さらには、汲めども尽きない異郷の地の自然に肌で接したいと思うようなり、世界一周を開始しました。

その訪問先の1つが日本で1か月程滞在しました。
香港から長崎に入り、 熊本、下関、宮島などを経た後、京都、大阪、奈良、大津などを訪問。 その後、東京に赴き、明治天皇に謁見し、日本政府からもてなしを受けました。
日光東照宮も訪問し、かつての会津若松藩主で東照宮の宮司になっていた松平容保公に迎えられました。
日本文化に初めて触れ、市街のどこもが清潔なことや家屋が開放的なことなどに驚き、一般女性の髪結いまで見学して茶屋遊びを体験。箱根において左腕に龍の刺青を彫ってもらっています。
フェルディナント大公はこの時の日本の風物や伝統文化などを詳細に手記に記しており、これは後にまとめられて出版されています。
1913年、オーストリア皇太子がオーストリアの庭師にみようみまねで造営させた日本庭園。
第一次世界大戦では敗戦し、オーストリ・ハンガリー帝国崩壊後は日本庭園は荒廃し、誰ともなしに「アルプス庭園」と呼ばれるようになりました。1996年にここを訪れた日本人が日本庭園ではないかと指摘により調査が進められました。手水鉢と思われる石など見つかり、日本庭園ということが断定。 これを受けて1998年
日本から庭師を招いて枯山水の日本庭園として修理復元されました。
ちなみに、フェルディナント大公が1年間の世界一周で訪れた国々(地域)は、英領インド、オーストラリア、ヌーメア、ニューヘブリディーズ諸島、ソロモン諸島、ニューギニア、サラワク、香港、日本。
横浜から太平洋を横断してカナダ・バンクーバー
アメリカ合衆国を訪問した後に欧州に戻りました。
暗殺現場は川沿いの道路でラテン橋の近くです。事件現場付近は博物館となっており、当時、皇太子夫妻が乗っていた車の複製品が展示されています。
※NikonのフラッグシップミラーレスカメラZ9で撮影
使用レンズはF2.8 24‐70㎜の広角ズームレンズ
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