10月中旬にタイのチェンマイを再訪。その際に利用したナイトバザール。
ナイトバザール内には数多くの飲食店やマッサージ屋、お土産屋があります。
ここでタイ料理を満喫し、買い物を楽しみ、マッサージにて疲れをとる。至福の一時を過ごす事が出来ます。
チェンマイは、チエンマイ県の県庁所在地(ムアン)でもある。ラーンナータイ王国の首都として、メンラーイ王により1296年4月12日建造された。王国の首都として古くから発展し、ラーンナータイ王国が廃止された現在でも北部の文化・経済の中心である。人口では東北部のナコーンラーチャシーマーを下回るが、その歴史の長さや都市の格から、一般にバンコクに次ぐタイ第2の都市とされている。
ランナータイ王国の首都は、もともとチエンラーイであったが、メンラーイ王によってグレゴリオ暦で1296年4月12日午前四時をもって公的にチエンマイに遷都された。この日時は宮廷の天文学者や占い師が選定した時間である。このときスコータイからラームカムヘーン王を呼び、パヤオからはガムムアン王を呼んで、都市計画を練り上げた、この為、都市の建設の様式にスコータイ的な要素が混ざり、それまで、ラーンナー世界で一般的だった川沿いに都市を建てる様式(チエンセーン、チエンラーイなど)とは違い、川から少し離れた場所に碁盤の目状に建てられている。なお、現在残る市街地の城壁がこのころのマンラーイの時代の遺跡なのかメーク王の時代の遺跡なのかは分かっていない。
チエンマイの建設には以下の要因があった。まず、北にあった元の侵攻を避けること、コーク川に面したヨーン地域にアクセスがよく、北上すればすぐマンラーイの母体であったヨーン地域の支配に不便でなかったこと、またチエンマイは、ピン川の上流にありピン川はチャオプラヤー川、またその向こうのタイランド湾に通じており、中国との貿易に有利であった。
その後、チエンマイはラーンナー王朝の首都として発展を遂げたが、ラーンナー王朝は1558年ビルマのタウングー王朝により属国化された。ただし、征服者のバインナウンは引き続きチエンマイをラーンナー地域の首都とした。1701年にはラーンナー地域はチエンマイを中心とする南部地域と、チエンセーンを中心とする北部地域に分けられ、チエンマイは南部地域の首都となった。
18世紀後半には、ビルマの求心力が低下し、ラーンナー地域は内乱状態に陥り、1780年までにチエンマイは疲弊し瓦礫と化した。一方カーウィラは1796年に、チエンマイに残っていたビルマ勢を一掃し、チャクリー王朝の後援の元、チエンマイを再興した。これが現在のチエンマイの骨格となっている。その後、1899年、チエンマイは君主をかかえたまま、内務省の下位の行政組織、郡(アムプー)となった。
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