親日国ポーランドとは?日本男児はもてもて?いたるところで逆ナンパ?現地訪問して分かった真実!
ポーランド孤児や日露の戦いでの日本の勝利。
こういったところが起因となっております。
1919年(大正8年) このころは ロシア国内において革命、反革命の勢力が争う内戦状態が続き激しさをましていた。
この時シベリアには、ロシアに祖国を滅ぼされたポーランドの政治犯や、愛国者の家族、内戦の混乱を逃れてきた人達が15万人~20万人いたといわれている。
彼らは過酷な重労働、飢餓や疾病の中で極めて悲惨な生活を送っていた。
特に親と死別した子供たちは、お腹を空かし、身を寄せる場所さえなく、 まさにこの世の地獄な様な極限状態であった。 1920年 (大正9年)7月 ロシアのウラジオストクからポーランド孤児たちを乗せた日本陸軍の輸送船 「筑前丸」が敦賀港に入港。
下船した孤児たちは、粗末な服を着て、哀れなほど痩せ細って青白い顔をしていた。
敦賀に入国して、孤児たちの姿を見た多くの日本人は、同情を寄せ、子供たちに愛情のこもった暖かい救済をはじめていく。
収容された孤児たちの多くは、栄養不良で痩せ細り、青白い顔色をして下腹がふくれ、歩いてもフラフラする状態であった。
また、子供たちの多くは腸チフス、感冒、百日咳などの病気であったため、すぐに治療が施される。
さらに長い放浪のため、着ている物はボロボロで、靴を履いている子供はほとんどいなかった。
そこで 日本赤十字社は、一人ひとりに衣服、肌着、靴、靴下などを新調し、さらに食事の提供や果物などを支給している。
収容先では、子供たちを慰めるため慰安会が開かれ、動物園や博物館へも行って楽しく過ごしている。
また、貞明皇后から御下賜金が届けられ、全国から多数の寄付金が寄せられた。
子供たちはよく規則を守り、朝食と就寝前には、お祈りを欠かさなかった。
また、病院では、すぐに充分な治療が受けられるように病室も準備していた。 安全を確保するため警察官も配備するなど子供たちの周りには、善意があふれていた。
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