世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第1話!親日国ポーランドとは?日本男児はもてもて?いたるところで逆ナンパ?現地取材して分かった真実!ポーランド孤児が起因?
東欧のポーランド。日本人から遥か遠い場所にある国。日本とは深い関わりがないと思う人は多いと思うのだが、実は日本とは関わりが深い国である。
ポーランドを訪問時に首都のワルシャワや古都のクラクフを訪問。写真撮影中にいたるところでポーランド人女性に話しかけられて、一緒に記念写真を撮っていいですか?と言われた。
日本に来た事があるのか?と女の子達に質問するとほとんどが日本へ行った事がないとの事。しかし、日本が好きで日本へは是非とも行きたいとの事であった。これは何が起因となっているのか?これには、かつて日本政府がポーランド孤児を助けた事や日露の戦いでの日本の勝利、日本文化がポーランドに入り込んでいる事が掲げられる。
1904年(明治38年)~1905年(明治39年)の日露戦争。日露戦争開戦時、世界のほとんどの国が大国ロシアが勝つと思っていた。しかし、そんな世界各国の予測は外れ、アジアの小国である日本が帝政ロシアを打ち負かした。これは、欧米列強に植民地とされていたアジアやアフリカ諸国だけでなく、当時、ロシアの植民地もしくは圧政下に苦しんでいたフィンランド、バルト三国、ポーランドをはじめとした東欧諸国に勇気と感銘を与えたのは事実である。
日露戦争時のポーランドは、帝政ロシア、オーストリア帝国、プロイセン王国の3つの国に領土を分割され支配されていた。ポーランドは18世紀に領土分割されて以降、11月蜂起、1月蜂起にみられるような独立運動を展開してきた。しかし、成功はしなかった。そんな中、日露戦争においてアジアの小国である日本が大国ロシアに打ち勝った事に勇気と感銘を与えられたのは紛れもない事実である。
日露戦争が終わった9年後、1914年(大正3年)、オーストリアの皇太子がサラエボでボスニア系セルビア人に暗殺されたのが発端となり第一次世界大戦が勃発。1918年(大正7年)の第一次世界大戦後に、ポーランド共和国として独立を果たす。
1919年(大正8年)このころは ロシア国内において革命、反革命の勢力が争う内戦状態が続き激しさをましていた。この時シベリアには、ロシアにより捕らえられたポーランドの政治犯や、愛国者の家族、内戦の混乱を逃れてきた人達が15万人~20万人いた。これら人々は過酷な重労働、飢餓や疾病の中で厳しい生活を送っていた。親と死別した子供たちは、お腹を空かし、身を寄せる場所さえなく、 いつ死んでもおかしくない極めて厳しい状況下で暮していた。
あまりに悲劇的な状況を見るに見かねたウラジオストク在住のポーランド人たちが立ち上がり、「ポーランド救済委員会」を設立。欧米各国に救済を依頼したが、断られた。そんな中、ポーランド救済委員会は日本政府に助けを求めた。救済依頼した欧米諸国に断られ、最後の頼みの綱が日本であったのである。日本政府は、わずか17日後には救いの手を差し伸べる決断を下す。大変な費用と手間が必要であったにもかかわらず、日本人は、シベリアのポーランド人たちの惨状を見るに見かねて判断したのであろう。これぞ、まさに武士道精神である。人情深い人が多い日本人らしい行動である。
1920年 (大正9年)7月 ロシアのウラジオストクからポーランド孤児たちを乗せた日本陸軍の輸送船 「筑前丸」が敦賀港に入港。孤児たちは、粗末な服を着て、哀れなほど痩せ細っていた。敦賀港より入国して、孤児たちの姿を見た多くの日本人は、同情を寄せ、子供たちに愛情のこもった暖かい救済をはじめていく。収容された孤児たちの多くは、栄養不良で痩せ細り、歩くのもままならないものも多くいた。また、子供たちの多くは腸チフス、感冒、百日咳などの病気であったため、すぐに治療が施される。着ている物はボロボロで、靴を履いている子供はほとんどいなかった。
そこで 日本赤十字社は、一人ひとりに衣服、肌着、靴、靴下などを新調し、さらに食事の提供や果物などを支給。収容先では、子供たちを慰めるため慰安会が開かれ、動物園や博物館へも行って楽しく過ごしている。また、貞明皇后から御下賜金が届けられ、全国から多数の寄付金が寄せられる。病院では、すぐに充分な治療が受けられるように病室も準備していた。 安全を確保するため警察官も配備するなど孤児達の周りには、善意があふれていたのである。
1920年(大正9年)と1922年(大正12年)の2回、合計で765名もの孤児が東京や大阪で治療と看病を受け、全員が元気をとり戻し、横浜や神戸の港から帰国したのである。親身に世話をしてくれた日本人の看護婦や保母たちとの別れを悲しみ、乗船を泣いて嫌がるほどであった。孤児として両親と生き別れ、愛情もまともに受けずに育ってきた孤児達。そんな中、日本人の深い愛情に感銘を受けたのである。
彼らは帰国船が出発する際に、口々に「アリガト」など、覚えたての日本語を連発、「君が代」などを歌って感謝の気持ちを表わしたのである。双方ともに、涙を流しながら、姿が見えなくなるまで手をふりつづけたのである。
これら孤児達は、ポーランドに帰国後に「極東青年会」という団体を組織し、第二次世界大戦前にドイツが侵攻するまで、ポーランドで日本の素晴らしさを紹介する活動を行なうと共に、日本に行くための資金を積み立てておりました。しかし世界大戦の戦乱と、東西冷戦により日本へ行くことがかなわなかったのである。
1995年(平成6年)に阪神大震災がおこった後に、1996年(平成7年)、1997年(平成8年)に震災で被災した児童をポーランド政府は招待してくれたのである。その時に、ポーランドの元孤児の方4名がこれら被災した日本人児童と面会し、温かい言葉をかけた。
ポーランドでは、ポーランド孤児を日本が助けた事に関して教育で教えており、非常に日本に対しての感情がよく親日家が多いのである。よって、日本人が写真撮影していようものなら一緒に写真をとってくれませんか?と話しかけられるのである。
また、第二次世界大戦中、日本とポーランドは対ソ連諜報において緊密な秘密協力関係にあった。また、ポーランド共和国陸軍はソ連の暗号を解読しており、大正時代より教官を派遣するなど、日本軍に最新の暗号解読技術を教授した。密接な関係にあったポーランドである。
※下記写真はポーランドの古都クラクフの大聖堂。非常に美しい大聖堂である。
ポーランドに進出している日系企業は260社を超えており、日本製品もポーランド国内で普及。また、それら日系企業で働くポーランンド人も数多くおり、日本語教育の需要があるのである。
日本語教育の歴史としては、ちょうどポーランド孤児が受け入れられたころに、日本研究が盛んになり、1919年にワルシャワに日本語講座が開かれた。ワルシャワ大学には現在、日本語学科があるのであるが、ポーランド内の多くの大学で日本語学科を設けている。2002年には、同大学日本語学科は天皇皇后両陛下がポーランドを訪問(行幸啓)。現地ポーランド人から強い歓迎を受けたのである。
ポーランド人男性からポーランド人の日本に関しての感情を伺ったのだが、やはり、上記理由などからほとんどのポーランド人が日本に対して良い感情を持っているとの事である。
ちなみに日本の文化、武道、漫画、日本食も人気である。ポーランド国内では、多くの日本食屋があり、ポーランド滞在時に利用してみた。
※下記写真は、ワルシャワ市内のオト寿司という日本食屋
日本からポーランドは直行便が就航していなかったのですが、なんと今年(平成28年1月14日)からLOTポーランド航空が週三便直行便を飛ばすようになりました。益々、日本とポーランドの関係は深まるものと思われます。
【文章&写真】
〚略歴〛
国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。
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