コソボ北西部最大都市のペヤ。UNESCOの世界遺産に登録されているペーチ総主教修道院がある事でも知られる都市です。
基礎自治体を合わせた人口は10万人弱。
歴史的には農業活動の拠点であり、銅細工職人、金細工職人、靴職人、皮なめし工、馬具工などの伝統職人による工芸品が多く生産されました。
ステファン・ウロシュ4世の統治時代に中世セルビア王国の宗教的中心地となり、セルビア正教会の総主教座が1346年に置かれました。
これは1766年にペーチ教区が廃止されるまで続きました。
その後、オスマン朝による5世紀に渡る支配を経て
第一次バルカン戦争においてオスマン朝時代の終焉を迎え、モンテネグロによる支配⇒オーストリア・ハンガリー帝国⇒第一次世界大戦後、町はセルブ=クロアート=スロヴェーン王国の一部となりました。
1931年から1941年までの間、ペヤはユーゴスラビアのゼタ州の一部となり、第二次世界大戦の間、ペヤはイタリア支配下のアルバニアに占領されました。
大戦後にペヤはユーゴスラビア連邦のセルビア人民共和国の一部となりました。
多数派を占めるアルバニア人とセルビア人との間では、20世紀を通してしばしば緊張関係となっていましたが、その緊張関係は1999年のコソボ紛争でピークを迎え、町はこの間に膨大な被害を受け、多くの死者が発生しました。
2004年のコソボ暴動でも重大な被害を受けました。
現在は情勢は落ち着いており、復興も進んでいますが、至るところで紛争の傷跡を見る事が出来ます。
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