国際バス利用【タイ&マレーシア国境地帯】タイ・ハジャイ⇒マレーシア・クアラルンプール行きの国際越境バス!Bus from Hatyai in Thailand to KL in Malaysia
2018年12月末
6年11か月ぶりにマレーシアのクアラルンプールに。
タイのハジャイから国際バスを利用して8時間程で到着。途中、両国の国境地帯で出入国審査を受け、マレーシアの高速道路ののPA
で昼食もとりました。
国際バス利用【タイ&マレーシア国境地帯】タイ・ハジャイ⇒マレーシア・クアラルンプール行きの国際越境バス!Bus from Hatyai in Thailand to KL in Malaysia
2018年12月末
6年11か月ぶりにマレーシアのクアラルンプールに。
タイのハジャイから国際バスを利用して8時間程で到着。途中、両国の国境地帯で出入国審査を受け、マレーシアの高速道路ののPA
で昼食もとりました。
【海外治安注意】イギリス・ロンドン南部で発生したテロ!テロの被害者にならない秘訣は?何をすれば良いのか?
【フジテレビ・昼のワイドショー番組「直撃LIVEグッディ」にスタジオ生出演】
I appeared on a TV program of Fuji TV in Tokyo,Japan today and mentioned about the overseas security as a specialist.
2020年1月21日フジテレビの昼のワイドショー番組「直撃LIVEグッディ」にスタジオ生出演。15分程の出演
フランスでアジア人狩りと呼ばれる襲撃や強盗、スリ、引ったくりなどが多発している件に関してフランス6回訪問した元旅行会社社員の私が専門家として語らせていただきました。(欧州は全ての国に訪問済み)
アジア人は非力で金を持ち歩き、抵抗しないというの印象があるのは事実で、それに関しては解説させていただきました。
また、フランスで起こっている邦人が被害に遭う犯罪をあげ、クイズ形式で回答いただき、解説させていただきました。
日本人は平和な国日本で生まれ育ってきたので、他国でも日本にいる時と同じ行動しがちです。それにより犯罪被害者になる人々が多いのですが、もっと注意深くなってほしいものです。
ウクライナの首都のキエフを朝6時16分に出発し、13時間30分後のモルドバのキショニョウに19時50分頃到着。親ロシア派の噂の沿ドニエストル共和国に停車(1日3便あり、長いのは迂回してドニエストル共和国を通過しないのですが、確認不足でした。
ロシアのモスクワからモルドバのキシニョウまでの国際列車ですが、同じ車両には、ロシア人やドニエストル共和国の人々、ウクライナ人、モルドバ人、グルジア人と微妙な関係にある人々が同じ車両に。アジア人は自分一人でした。
沿ドニエストル共和国停車&通過は問題なかったのですが、肝心のモルドバの入国審査がなく、入国スタンプが押してもらえませんでした。
過去に、入国審査官の押し忘れで、空港で問題になったことがありますが、その時は充分な証明と説明が出来たので問題ありませんでした。
今回は、ドニエストル共和国を通過した列車の券は車掌さんから返してもらえましたので、それを出して出国時に説明します(むこうが英語が話せないと面倒くさいですが)。出国時に色々と問題になりそうだ。
事前に届け出るのも一つの手です。
旧ソ構成国ではロシア語が流通しており、人々の共通言語になっています。中南米では一部諸国をのぞいてスペイン語が母国語で、英語の通用度が低いのと同じです。
英語の次はスペイン語とおもっていますが、ロシア語も話せるとロシア周辺の多くの旧ソ構成国で会話が出来、便利です。ロシア語もよいな。タイ語も習得したいが。
【親日?】旧ソ構成国!アルメニア渡航を終えての感想!ナゴルノ・カラバフ?ロシア、トルコ、アゼルバイジャンなどの対外関係は?
【初訪問!渡航歴78か国目(未承認国家をいれれば80か国)!】
UAEの首都のドバイに到着!今回の旧ソ構成国を含む欧州、中東周遊20か国目(未承認国家をいれて22か国目)】
I arrived in Dubai in UAE.
This country is the 20th country in this journey and the 78th county in my life. I used Oman air to come here.
日本を出発して4か月弱。
今回の旧ソ構成国を含む欧州、中東周遊20か国目(未承認国家をいれれば22か国目)、初訪問のUAEのドバイに到着。渡航歴78か国目の国【国連加盟193か国&国連非加盟独立国4か国=197か国のうち、78か国+未承認国家を入れて80か国】です。
日本を発ち、イギリス、アイスランド、オランダ、フランス、ドイツ、オーストリア、スロバキア、ハンガリーと来てポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバ、(沿ドニエストル共和国)、ウクライナ、ジョージア、アゼルバイジャン、アルメニア、カタール、キプロス共和国、(北キプロストルコ共和国)、バーレーン、オマーンときてドバイに。
今回は出発前に余裕をもって4か月の予定を組みましたが、
欧州では当初再訪予定の計画がなかった国々(フランス、オランダ、スロバキア、オーストリア、ハンガリー)を友人の誘いで訪問。さらに、旧ソのモルドバやウクライナ、ジョージアが予定よりも長く滞在しすぎたために、中央アジアに行く余裕がなくなり、中央アジア行きは来年のアフリカ訪問の際についでに行くことにしました。
この後はトルコのイスタンブールに行き、帰国の途に。
今回は、中央アジア4か国と中東諸国5~6か国訪問を来年に延期します。
来年、中南米周遊後にアフリカを周遊しますが、今回と同じく中東系航空会社を使用。
その時に今回訪問できなかった中東諸国や中央アジア諸国を訪問も出来るので、無理に日程をつめないようにします。
来年中に渡航歴130〜140か国になるように、中南米、太平洋島嶼国、中央アジア、中東、アフリカ周遊。
北キプロス・トルコ共和国実効支配地。事実上、南のキプロス共和国の統治が及ばない、トルコのみが承認する国連未承認国家です。
レフコシアの旧市街北側に南北を分断するグリーンラインが設定され、旧市街内から北側に行くことが出来ます。
高い場所にきて、レフコシアの北側に大きな山々があり、トルコやキプロス・トルコ共和国の国旗が。
In the Past,After WW2,Greece residents and Turkish residents in Cyprus fought with each other and Greece army and Turkish army join the Conflict. Turkish residents declared independence from the south and founded the northern Cyprus republic on Nov 15th in 1983.(Turkish government admitted it)
In recent 15 years,the traffic of people has become easier as compared with before. I will also go to North Cyprus at this time.
初訪問のキプロス共和国。日本人に馴染みが薄い国(というよりも非欧州もしくは中東諸国民には認知度が低い)。
トルコの南にある小さな島国です。
キプロスは歴史的に様々な民族、国々に支配されていましたが、住民は主にギリシャ系。ローマ帝国⇒東ローマ帝国⇒ウマイヤ朝⇒ウマイヤ朝と東ローマ帝国の共同統治⇒東ローマ帝国⇒イングランド⇒リュジニャン家⇒ヴェネツィア共和国⇒オスマントルコ⇒イギリス⇒1960年にイギリスから独立。
ギリシャがオスマントルコに支配された時代に、トルコ人が移住。ギリシャ、トルコ系住民双方がイギリスからの独立し、ギリシャ系はギリシャによる併合、トルコ系はトルコによる併合を望み、イギリスから独立後。
1960年の独立後、1961年に英連邦加盟。
独立前1955年~紛争がおこり、1975年まで紛争が続き、ギリシャ軍やトルコ軍が介入し、結果的にはトルコ側の勝利となり、トルコ系住民は、1983年11月15日に、北キプロス共和国建国’(事実上独立状態、国連未承認国家、トルコのみ独立承認)。
現在は名目上は紛争が終結しておらず、停戦中ですが、停戦から40年が過ぎ、以前に比べ、北と南の往来がしやすくなりました。
先月、未承認国家である沿ドニエストル共和国を訪問した小生ですが、今回はキプロス滞在中にトルコ系住民の北キプロス共和国にも潜入します。
旧ソ構成国を周って、民族や国家間の根深い争いがあることを垣間見る事が出来ましたが、トルコと周辺(アルメニアやギリシャ、キプロスなど)諸国民との争いも根深いものがあります。
ギリシャ系住民とトルコ系住民の間で南北に分断されています。北側はトルコが支援し、トルコのみが国家承認する国連未承認国家(南のキプロス共和国の統治が及ばない事実上の独立国家)。
キプロスには北キプロスに行く複数の場所があるのですが、そのうちの1つが、レフコシア旧市街リドラ通りにあります。旧市街自体も南北に分断されています。
2004年までは、北キプロスから南への越境が難しかったのですが2004年以降は、南北の移動が容易になりました。
目視で確認していると双方の国民(’特にトルコ系が南に)が往来している姿を見る事が出来ました(海外のプロですので、民族の顔の違いを認識できる)
南に比べて経済が遅れた北キプロス。トルコ以外国家承認していないために、他国との貿易も基本的にはおこなわれておらず、トルコけいゆとなります。
トルコ系はイスラム教徒なので、至る所にモスクがあります。
南北の往来が楽になり、外国人観光客も多く往来。
外貨獲得のためにトルコリラだけでなく、ユーロ表記をするレストランも多くあります。
親露派が牛耳る沿ドニエストル共和国に(モルドバ政府の統治が及ばず、事実上独立状態にあるが、国際社会で国家承認されていない未承認国家)
単独での渡航は緊張します。ここまでいくには幾つかの方法があるのですが、そのうちの1つがバス。
モルドバの首都のキシニョウから1時間に1本以上でており、時間は2時間前後(距離でいうと60キロほど)
費用は37レウ(240円程)。
日本人はおろか、アジア人は自分だけ。
ドニエストル共和国側に入る際のモルドバ側の出国審査は無し(モルドバはドニエストル共和国の独立を認めていない)、ドニエストル共和国に入る前に、審査があります。
バスから降りて、事務所に行き、パスポートを提出。
以前は、用紙に記入する必要があったのですが、今は記入の必要はなくなり、口頭での質問に答える感じです。
向こうはあまり英語が話せず、ロシア語で話しかけてきますが、なんとなく言っている意味が分かったので、片言の英語(時折、ロシア語を混ぜ)て会話。
日帰りと伝えたのですが、3日間の滞在許可をもらいました。
スタンプはパスポートに押されず、写真右の証明書を渡されます。
日本のパスポートは世界で最も強い効力のあるパスポートといっても過言ではありません。。旧ソ構成国内では、アメリカに対しての感情が悪い国が多く(反露派の国々も)、アメリカのパスポートを出すと、嫌悪感を示す審査官が多いのが実情(これは、中東諸国においても同じ)。
※日本と国交のあるモルドバ共和国の統治が及ばない
未承認国家である沿ドニエストル共和国ですが、覚悟がない人々は、訪れるべきではありません。
それは、国家未承認で日本との外交関係は無しなので、日本大使館、外務省の効力が及ばない事がありえるからです。(正確にのべれば、親露派の国でロシアが援助している国なので、ロシアに助力を願えばですが)自己責任の上での渡航です。
見所が固まっているので周りやすかったです。
ドニエストル川、複数のロシア正教教会、旧ソの匂いを感じさせる数多くあるブロンズ像
トランスニストリア戦争時に使用された戦車。旧ソを称え、戦争時の様子が良くわかる歴史博物館訪問などなど。
番組をご視聴いただいている方から下記質問をいただきましたので回答をさせていただきます。
(質問)
先日、日本−バンコクの往復チケットを買いました。日程に余裕があるので、ベトナムにも行ってみようと思い、その後バンコク→ホーチミンの航空券も買いました。陸路の国超えをしたことがないのと、カンボジアにも行ってみたいと思ったため、ホーチミン→プノンペン→シェムリアップ→バンコクのルートでバスで移動しようと考えています。今心配しているのが、ベトナム入国の際に出国用チケットがないと入国拒否されるのでは?という点です。バスについては日本からオンラインで事前に予約できそうな所を見つけたので、ホーチミン→プノンペンのバスは最低限予約するつもりですが、このバス予約のみでベトナムの入国審査は通るものでしょうか?最悪ダミーでもベトナム出国用の航空券を事前に取っておいたほうが良いのでしょうか?
長文で申し訳ありませんが、分かればよろしくお願い致します。
(自己の見解)
要約すると片道入国が出国用の航空券がなくても入国可能か?という質問です。これに関して元旅行会社勤務&実際に片道入国を数多くの国々でしたきた私が言及させていただきます。
コソボ北西部最大都市のペヤ。UNESCOの世界遺産に登録されているペーチ総主教修道院がある事でも知られる都市です。
基礎自治体を合わせた人口は10万人弱。
歴史的には農業活動の拠点であり、銅細工職人、金細工職人、靴職人、皮なめし工、馬具工などの伝統職人による工芸品が多く生産されました。
ステファン・ウロシュ4世の統治時代に中世セルビア王国の宗教的中心地となり、セルビア正教会の総主教座が1346年に置かれました。
これは1766年にペーチ教区が廃止されるまで続きました。
その後、オスマン朝による5世紀に渡る支配を経て
第一次バルカン戦争においてオスマン朝時代の終焉を迎え、モンテネグロによる支配⇒オーストリア・ハンガリー帝国⇒第一次世界大戦後、町はセルブ=クロアート=スロヴェーン王国の一部となりました。
1931年から1941年までの間、ペヤはユーゴスラビアのゼタ州の一部となり、第二次世界大戦の間、ペヤはイタリア支配下のアルバニアに占領されました。
大戦後にペヤはユーゴスラビア連邦のセルビア人民共和国の一部となりました。
多数派を占めるアルバニア人とセルビア人との間では、20世紀を通してしばしば緊張関係となっていましたが、その緊張関係は1999年のコソボ紛争でピークを迎え、町はこの間に膨大な被害を受け、多くの死者が発生しました。
2004年のコソボ暴動でも重大な被害を受けました。
現在は情勢は落ち着いており、復興も進んでいますが、至るところで紛争の傷跡を見る事が出来ます。