国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

プリシュティナ

コソボ・プリシュティナ・マザーテレサ大通りのレストラン!

マケドニア・スコピエから国際バスを利用し3時間弱でコソボの首都のプリシュティナ到着。
宿にチェックインした後に、マザーテレサ大通りにあるレストランで食事をしました。
イタリア料理のレストランで、ピザとパスタとサラダを堪能。
コソボは物価が安いので5ユーロ程でした。

味も美味。従業員のサービスもよかったです。
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コソボ紛争終結から15年程、復興途中ですが、セルビアとの国境地帯を

のぞけば治安も良くなってきております。

平成26年(2014年)7月~9月 3度目の欧州周遊旅行時に撮影
コソボのプリシュティナにて 8月8日

国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明ホームページは下記

http://yukokunoshi-akira.com/

アキーラさんユーチューブチャンネル
憂国の旅人アキーラ旅Travel Channel1

は下記
http://www.youtube.com/user/Yuukokunoshi1

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憂国の旅人アキーラ旅Travel Channel2は下記
https://www.youtube.com/channel/UCU73nZx4SBPzHfrdUZxBWlA

別Youtubeチャンネル
ジャーナリスト大川原 明は下記
https://www.youtube.com/channel/UCEfs6mugbMR65m4RmF1hXIw

コソボ紛争!紛争地コソボ・首都のプリシュティナ到着

今回の旅で7か国目、渡航歴53か国目となるコソボに入国しました。首都のプリシュティーナです。マケドニアのスコピエから3時間程バスに乗り、到着しました。
写真はプリシュティーナのバスターミナルです。近くにいた現地人に撮影してもらいました。国境付近でいろいろ尋問されましたが、なんとか入国できました。(あとで報告します。)
ここはアルバニアかと思うほど、アルバニアの国旗が掲げられ、ここはアジアかと思うほど、露店が多いです。
バスターミナルから宿まで2キロ程。この20キロの荷物を背負い、到着、チェックイン。今から少し仮眠をとります。
一時、方角が分からなくなりましたが、持参して方位磁石が活躍しました。
現地の人複数にも道をたずねました。
サングラスをしていたら怪しまれて、無視されましたが(女性数人に)、はずしたら教えてもらえました笑笑
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平成26年(2014年)7月~9月 3度目の欧州周遊旅行時に撮影
コソボのプリシュティナにて 8月8日

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旧ユーゴ・コソボ(プリズレン市)に寄付された日本のISUZUのごみ収集車?世界中で尊敬される日本!

日本人必見!日本の偉業!世界各国をまわると必ずといっていいほど、日本の援助に対し­ての感謝や日本関連物を見つけます。これも、注意深くみていないとみおとす事が多いの­ですが。コソボに日本から援助された(JICAを通し)ISUZUのゴミ収集車です。
車の中から笑顔で手をふってもらえました。

しかし、そんな日本人気に嫉妬心を燃やし、日本を貶めようと躍起になっている中国、韓­国の姿があります。
恩を仇で返す国家には助ける必要は全くありません
平成26年(2014年)8月に旧ユーゴスラビア・セルビアから平成20年(2008­年)に独立したコソボを訪問!首都のプリシュティーナ、南西部中心都市であるプリズレ­ン、北西部中心都市のペヤの三都市を訪問。

旧ユーゴスラビア・コソボ・プリシュティナ市・Auroraレストラン!

6年前まで紛争状態にあったコソボ!2008年に独立を宣言し、世界100か国以上の人々が独立を承認。首都のプリシュティナを訪問し、目抜き通りのマザーテレサ大通りにあるレストランにて食事しました。
ユーロが通貨となっておりますので、便利です。物価は安いです。

海外で活躍する日本製品・一眼レフカメラ ・コソボのプリシュティーナで活躍するニコンのカメラ!

平成26年(2014年)旧ユーゴスラビアのコソボの首都のプリシュティーナ訪問時に­撮影。
世界で人気の日本の一眼レフカメラ。基本的に、一眼レフカメラを製造販売している会社­は日本のニコン、キャノン、ペンタックス、ソニー等です。ニコンとキャノンは特に人気­があり、世界中の人々が使用し、愛されております。

旧ユーゴスラビア・コソボの首都のプリシュティーナのバスターミナル

平成26年(2014年)8月に旧ユーゴスラビア諸国再訪。マケドニアは2年ぶりの再­訪でしたが、そこからバスで3時間程の距離にあるコソボ紛争で有名なコソボ(2008­年独立)を訪問。マケドニアの首都のスコピエから国際バスを利用し陸路越境し、コソボ­の首都のプリシュティーナへ。
こちらが利用したバス。コソボ国境で、コソボ側の入国審査官に怪しまれ、銃を持った3­人の警察官に囲まれ、いろいろと尋問されたが、明確に回答。日本人と答えると安心した­のか、納得し、無事に入国できました。

旧ユーゴ・コソボ・プリシュティナ市・マザーテレサ大通り・水と光のショー!

プリシュティーナ市街、マザーテレサ大通り、国立劇場近くの噴水。夜になるとこのように光と水のショーを楽しむ事が出来ます。
子供たちが楽しんでおります。
アジアの発展搭乗国のような喧騒感があるコソボの首都のプリシュティナ。NIKONの一眼レフカメラD610によるフルハイビジョン動画!現地にて撮影。コソボ紛争で有名なコソボ(16年前まで紛争状態でありました。皆さんの記憶にも新しいでしょう。外務省の危険レベルが1段階引き下げられました。)首都のプリシュティナ訪問。プリシュティナの目抜き通りのマザーテレサ大通りを端から端まで徒歩散策。

旧ユーゴ・コソボ・プリシュティナ市・マザーテレサ大通り・歩行者天国

アジアの発展搭乗国のような喧騒感があるコソボの首都のプリシュティナ。NIKONの一眼レフカメラD610によるフルハイビジョン動画!現地にて撮影。コソボ紛争で有名なコソボ(16年前まで紛争状態でありました。皆さんの記憶にも新しいでしょう。外務省の危険レベルが1段階引き下げられました。)首都のプリシュティナ訪問。プリシュティナの目抜き通りのマザーテレサ大通りを端から端まで徒歩散策。
かの有名なノーベル賞受賞の修道女マザーテレサの母親がアルバニア人のため、アルバニア系住民が大多数を占めるコソボにおいて、マザーテレサ大通りと名付けられました。
旧ユーゴスラビアのコソボ平成26年(2014年)8月に旧ユーゴスラビア・セルビアから平成20年(2008­年)に独立したコソボを訪問!首都のプリシュティーナ、南西部中心都市であるプリズレ­ン、北西部中心都市のペヤの三都市を訪問。

プリシュナは、コソボの首都。2008年にセルビアからの独立を宣言したコソボ共和国の首都と定められているが、セルビアはコソボ共和国の独立を認めておらず、コソボ・メトヒヤ自治州の州都としている。

近隣の都市としては、約95キロ北東のニシュ、約80キロ南のスコピエ(マケドニア共和国の首都)などが挙げられる。1990年代のコソボ紛争で深刻な打撃を受け、現在も復興の途にあります。

人口は十万人台と首都の割には非常に少ないが、これでもコソボでは最も人口の多い都市であります。

第二次世界大戦後のユーゴスラビア社会主義連邦共和国を率いたヨシップ・ブロズ・チトーが1980年に死去すると、セルビア内で民族主義が高揚。

プリシュティナでは、経済不況や食糧不足でアルバニア人の暴動が頻発しました。

1989年、セルビアの大統領・スロボダン・ミロシェヴィッチが自治を制限、アルバニア語の使用が制限されアルバニア系住民が多くの職場から排斥されると、コソボのユーゴスラビアからの分離を求める運動が激化されました。

イブラヒム・ルゴヴァに指導されたコソボ民主連盟が結成される。これに対してセルビア政府は強硬策で臨みました。

1996年からはコソボ解放軍による武装闘争が開始されるが、プリシュティナは当初は平穏でありました。

1999年3月、コソボ紛争が本格化すると、プリシュティナは戦場と化す。4月、NATOの空爆が開始されると、市内のあちこちで虐殺行為が展開された。多くの住民がマケドニア共和国方面に脱出、その数は、アメリカ合衆国国務省の推定で1999年の5月だけで100,000人にのぼります。

コソボ紛争終結後は、40,000人いたセルビア人の多くがプリシュティナを離れたが、市内に留まった者の多くは、今度はアルバニア系住民の報復に怯えることになり、2009年にはプリシュティナから全てのセルビア系住民がいなくなった、と言われる。また、紛争でロマ人も多くが市を離れた。国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の本部が置かれています。

旧ユーゴ・コソボ・プリシュティナ市・マザーテレサ大通り!

アジアの発展搭乗国のような喧騒感があるコソボの首都のプリシュティナ。NIKONの一眼レフカメラD610によるフルハイビジョン動画!現地にて撮影。コソボ紛争で有名なコソボ(16年前まで紛争状態でありました。皆さんの記憶にも新しいでしょう。外務省の危険レベルが1段階引き下げられました。)首都のプリシュティナ訪問。プリシュティナの目抜き通りのマザーテレサ大通りを端から端まで徒歩散策。
かの有名なノーベル賞受賞の修道女マザーテレサの母親がアルバニア人のため、アルバニア系住民が大多数を占めるコソボにおいて、マザーテレサ大通りと名付けられました。
旧ユーゴスラビアのコソボ平成26年(2014年)8月に旧ユーゴスラビア・セルビアから平成20年(2008­年)に独立したコソボを訪問!首都のプリシュティーナ、南西部中心都市であるプリズレ­ン、北西部中心都市のペヤの三都市を訪問。

プリシュナは、コソボの首都。2008年にセルビアからの独立を宣言したコソボ共和国の首都と定められているが、セルビアはコソボ共和国の独立を認めておらず、コソボ・メトヒヤ自治州の州都としている。

近隣の都市としては、約95キロ北東のニシュ、約80キロ南のスコピエ(マケドニア共和国の首都)などが挙げられる。1990年代のコソボ紛争で深刻な打撃を受け、現在も復興の途にあります。

人口は十万人台と首都の割には非常に少ないが、これでもコソボでは最も人口の多い都市であります。

第二次世界大戦後のユーゴスラビア社会主義連邦共和国を率いたヨシップ・ブロズ・チトーが1980年に死去すると、セルビア内で民族主義が高揚。

プリシュティナでは、経済不況や食糧不足でアルバニア人の暴動が頻発しました。

1989年、セルビアの大統領・スロボダン・ミロシェヴィッチが自治を制限、アルバニア語の使用が制限されアルバニア系住民が多くの職場から排斥されると、コソボのユーゴスラビアからの分離を求める運動が激化されました。

イブラヒム・ルゴヴァに指導されたコソボ民主連盟が結成される。これに対してセルビア政府は強硬策で臨みました。

1996年からはコソボ解放軍による武装闘争が開始されるが、プリシュティナは当初は平穏でありました。

1999年3月、コソボ紛争が本格化すると、プリシュティナは戦場と化す。4月、NATOの空爆が開始されると、市内のあちこちで虐殺行為が展開された。多くの住民がマケドニア共和国方面に脱出、その数は、アメリカ合衆国国務省の推定で1999年の5月だけで100,000人にのぼります。

コソボ紛争終結後は、40,000人いたセルビア人の多くがプリシュティナを離れたが、市内に留まった者の多くは、今度はアルバニア系住民の報復に怯えることになり、2009年にはプリシュティナから全てのセルビア系住民がいなくなった、と言われる。また、紛争でロマ人も多くが市を離れた。国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の本部が置かれています。