グアムの中心部タモンから北進。米軍のアンダーソン空軍基地から近い距離にある南太平洋戦没者慰霊公苑。平和寺の建物の奥には平和祈念塔(慰霊塔)と慰霊碑(第18連隊、第521海軍航空隊、独立自動車第265中隊など)がある。
北側には旧日本軍の司令部壕跡がある。
この辺りはグアムの戦い最後の激戦地となった場所。
司令部壕には説明書きがあり
「第31軍司令官‐小畑英良司令官中将は最後の総攻撃を下命するにあたり天皇陛下および大本営に足し、『己れの身を以て、太平洋の防波堤たらん』と決別の辞を打電し60名の将兵と共に自決した。時は1944年8月11日未明であった』と書かれている。
しかし、中部太平洋陸軍作戦の書物では60名の将兵は自決ではなく、壕が撃破され、兵員の殆どが戦死と書かれている。
壕は爆破された時の傷跡が残っており、当時の状況を物語っており、壕の近くには日本軍飲料用水槽や1人用塹壕『蛸壺』が残されている。日本軍飲料用水槽がある場所の近くに階段があるが、そこに小川が流れている。
雨期なので湿気があり、小生が到着時は曇っていたのが急に太陽が出てきて非常に蒸し暑く、蚊も多かった。
グアムは数は減ったとはいえ、日本人に人気のビーチリゾート。綺麗な海で海水浴も楽しんでほしいが、かつて日米激戦となった地、数多くの日本人に慰霊訪問してほしいと切に願っている。
グアム島北部の叉木山々麓は日本守備軍(小畑中将軍司令官)玉砕の地。この地に太平洋戦域に散華した50万余柱の英霊を合祀する慰霊塔と平和を祈る家(平和寺)を建設し、諸霊位を慰め、世界の恒久平和を祈念している。
昭和41年に(財)南太平洋戦没者慰霊協会設立。同年、グアム島ジーコ村にグアム平和慰霊公苑の日米合同建設起工式がおこなわれた。昭和45年に太平洋全域における戦没者を合祀する表徴的慰霊塔及び納骨堂が完成し、除幕式がおこなわれた。
昭和57年に苑内に我無山平和寺が完成。僧侶を派遣常駐させていたが、平成10年4月に僧侶常駐廃止。
苑内には平和寺、慰霊塔、慰霊碑のほか、旧日本軍司令部壕や飲料用水槽が残されている。