国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

親日(国)

【日本の軍艦が祀られる】台湾・高雄・紅毛港保安堂!38番にっぽんぐんかん・海府大元府!

高雄市内にある紅毛港保安堂と呼ばれる日本の軍艦が祀られている場所を訪問。高雄には昔、日本海軍の基地がありました。 かつて保安堂は、海岸沿いにあったのですが、再開発で地区の住民ごとこちらに移ってきたのですが、住民とともに移ってきたのが、この保安堂です。

保安堂が出来た由来は、大東亜戦争で日本の38番軍艦の中尉の艦長が米軍との戦いで高雄近くの小琉球という島の近くで爆死。戦後の1946年に艦長の首が紅毛港の漁民に拾われ海府大元帥として祀られ、この紅毛港保安堂の由来となりました。 海府大元帥が大漁の神様のように扱われて1953年に保安堂が作られ、1992年に神艦として「38にっぽんぐんかん」が建造されたのですが、2013年に移築されました。

保安堂内部には、神輿や第三十八号哨戒艇の模型などが展示されており、日本人としては是非とも訪れて頂きたい高雄の場所の一対です。台湾の方々も来られています。保安堂は住民により大切に管理されています。

【台湾の1泊2200円の安宿】台湾・台中・台中駅前・富春大飯店(ホテル)

【台中で宿泊した台中の1泊2200円の安宿】
台中駅前で立地条件抜群。古くて清潔さにはかけますが、日本統治時代に建てられた窓からは、駅舎を見ることが出来ます。(駅前で騒音は煩いですが)従業員は、英語や日本語は通じず、大学時代に第二言語としてならった北京語を使用しています。北京語といっても片言しか話せませんが。まとに勉強していなかったので。(大学1年の時は)
漢字をかけば意思疎通できたりしますが。

英語は2年間豪国留学にて、英語習得。それなりに自信があります。(TOIECは最高850点。英会話学校NOVAのレベルは上から2番目の8。仕事においても英語を使用してきた自分です。)

宿はインターネット予約せずに直接ウォークインにてチェックイン。最近、ネット予約が流行り、ネット事前予約しないととれないこともあるので事前のネット予約を自分もするようになりましたが、昔ながらのウォークインにてチェックイン。

ドイツのミュンヘンで、ウォークインで宿探したら10軒近く空きがなかった苦い経験ありますが。

短期海外渡航の場合は、4つ星~5つ星のホテルも宿泊しますが、中長期での海外渡航は、基本的に安宿に宿泊します。1泊1~3万もするホテルを半年間泊まり続けたらいくらになるかを計算していただければ分かると思いますが、経費削減です。

台湾で尊敬される日本人!台湾・福瀬村!森川清治郎巡査が祀られる台湾・嘉義県福瀬村の富安宮

台湾には数多くの日本人が尊敬されていますが、そのうちの1人が森川清治郎巡査です。

場所はどこにあるのかというと嘉義県の東石郷福瀬村です。
交通の便は悪いので、嘉義からタクシーを利用し、高速も使い30分程で到着。(距離でいうと40キロくらいはあると思います。)
タクシー代だけでも往復5000円くらいかかりました。でも行って本当によかったです。

それでは、台湾人にいまでも尊敬される森川清治郎巡査とはどんな方なのでしょうか。

1861年(文久6年)に横浜に生まれた森川巡査(農家の生まれ)
日本統治後の1897年(明治30年)に台湾へ渡りました。そしてここ福瀬村の派出所勤務となりました。

当時は、劣悪な治安であったようですが、治安改善に尽力。そして私費を投じて、教科書を日本より取り寄せて、寺子屋を開き当時、村民のほとんどが文盲であったなか、住民に読み書きを教えました。衛生教育にも熱心でした。

村人が海で溺れているとの通報で、真っ先に海に飛び込み、助けに入ったこともありました。これにより、村人達から非常に尊敬されるようになりました。

明治34年(1901年)に台湾総督府は漁業税を設けました。福瀬村は海岸からも近く漁民が中心の村です。人々の生活は貧しく、漁業税をもうければ、村人の生活がたちいかなくなる可能性が高かったのです。(村人達の訴えもあった)

村の窮状をしっている森川巡査は、嘉義庁東石港支庁へ赴き、減税を求めたが、当時の支庁長は、住民を扇動し、謀反を起こそうとしているとして要請を跳ね除けた上、森川巡査を訓戒処分に処し徴税を重ねて命じました。

これに村人達に責任を感じた森川巡査は、翌年、自決を遂げました。村の人々の要望に応える事が出来なかった責任を感じ、自らの命を絶って責任をとったのです。これを知った村人達は非常に悲しみました。

その21年後、大正12年(1923年)に福瀬村でコレラ脳炎等の伝染病がはやりました。この時に村人の夢枕に森川が警察官の服装で現れ、「環境衛生に心がけ、飲食に注意し、生水、生ものを口にせぬこと」というお告げの内容を村民に告げたのです。村民がこれを守ったところ、伝染病の流行をまぬがれる事ができました。

義愛公として富安宮という立派な廟を村に建立し、森川巡査が祀られています。日本人は場所柄あまり訪れませんが、台湾の方々(内省人)が多く観光バスなどで訪れています。台湾で非常に尊敬される日本人の1人です。

徳州会事件で有名な徳州会がかつてブルガリアに進出していた

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【ブルガリアに進出していた徳州会グループ】
医師で衆議院議員も務めた徳田虎雄氏が設立した医療法人・徳州会。徳洲会を中心とし、66の病院をはじめとして総数280以上の医療施設を経営する日本最大の医療グループです。
一代でここまでの成長させたのは、ある意味、凄い功績です。

何かと黒い噂がある徳州会ですが、皆さんご存知の通りの徳州会事件。平成24年(2012年)12月の衆議院議員総選挙で、虎雄氏の子息である徳田毅議員の陣営に多数の職員を給与・日当を払い運動員として派遣したとして、公職選挙法違反などで問題となりました。多数の逮捕者を出しました。

この徳田殻議員は、父親の議員秘書時代の2004年2月に知人の紹介で知り合った19歳女性に東京・赤坂で会食を共にした19歳女性に飲酒をさせ、酩酊するまで飲ませて、その後で高級ホテルの部屋に連れ込み、性行為に及んだ(なお、当時は徳田毅は半年前に結婚して新婚であった)。その後、1000万にものぼる慰謝料を相手側に払い、示談。

他に猪瀬元東京都知事が辞任するきっかけとなった徳田一族からの5000万円の資金提供を受けった事件。(新右翼団体一水会の木村三浩氏が斡旋)

他に税務問題、臓器提供斡旋、暴力団とのつながり、業務上横領など様々な問題がある徳州会です。

そんな徳州会が、ブルガリアに進出し、10年前にソフィアに病院を建てました。しかし、徳州会事件等があり、現在では、徳州会の経営から外れ、トルコ系が経営する病院になっています。

※写真は、ブルガリアのソフィアの中心街の歩行者天国

世界で好かれる日本?旧ユーゴ・コソボ(プリズレン市)に寄付された日本のISUZUのごみ収集車

日本の偉業!世界各国をまわると必ずといっていいほど、日本の援助に対しての感謝や日本関連物を見つけます。これも、注意深くみていないとみおとす事が多いのですが。コソボに日本から援助された(JICAを通し)ISUZUのゴミ収集車です。
車の中から笑顔で手をふってもらえました。

平成26年(2014年)8月に旧ユーゴスラビア・セルビアから平成20年(2008年)に独立したコソボを訪問!首都のプリシュティーナ、南西部中心都市であるプリズレン、北西部中心都市のペヤの三都市を訪問。

安宿集結!バックパッカーの聖地!タイ・バンコクのカオサン通り!

旅メディアに旅記事寄稿!今回のお題は、安宿集結!バックパッカーの聖地!タイ・バンコクのカオサン通り!
タイ・バンコクのカオサン通り。ここはバックパッカーの聖地として有名な場所です。ここには多くのバックパッカー向けの安宿、レストラン、お店、マッサ-ジ屋、旅行代理店等があります。ここを拠点にタイの多くの場所を訪れる事が出来ます。今回は、眠らない通りカオサン通りを皆さんにご紹介します。

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親日国パラオ!子供や会社に日本名をつけるかつての日本の委任統治領パラオの人々!なぜ日本名を?世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第2話!

子供や会社に日本名をつけるかつての日本の委任統治領パラオの人々!世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第2話!

【パラオとは?】

パラオは、太平洋に浮かぶ小さな国。かつて日本が国連に依頼され、委任統治しました。日本が統治する前は、ドイツの委任統治領であったのでした。しかし、第一次世界大戦でドイツが敗戦をした結果、日本が国連よりパラオの統治をゆだねられ、30年程日本の委任統治領であったところです。通称パラオは、太平洋上のミクロネシア地域の島々からなる国である。首都はマルキョク。平成18年(2006年)10月7日に旧首都コロールから遷都されした。
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パラオは、16世紀頃より、スペイン人が初めて渡来し、次いでポルトガル人、イギリス人がやってきました。パラオはその後、1885年にスペインの植民地下に入りました。これらのヨーロッパ人により天然痘などが持ち込まれ、また現地人に対する搾取が行われた結果、パラオの人口は90%程度減少したといわれています。1899年に、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却、パラオもこれに含まれ以降ドイツ植民地となりました。

【日本の統治】

1914年に第一次世界大戦開戦後、当時、日英同盟を結んでいた日本は、米英と同じ連合国側として参戦し、連合国は勝利をおさめました。日本軍は、第二次世界大戦とは違い、ドイツ軍と戦ったのですが、日本軍は海軍を派遣してドイツ軍と戦い、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領。第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領になったのです。

日本の統治が始まった後、首都のコロールには南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島における植民地統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住しました。コロールではそれら日本人が住んでいた痕跡が今でも残っており、時折、日本統治時代にパラオに住んでいた方が、パラオを訪れております。

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日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病 院、道路など各種インフラストラクチャーの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させてきました。また、日本統治の開始にともない日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになりました。

太平洋戦争末期に、アメリカ軍がパラオに侵攻してきた際に、南のアンガウル島やペリリュー島は激戦地となりペリリューでは日本人兵士約11000人が玉砕する(アメリカ軍死者は約8000人)程、激戦地となった。アメリカ軍が攻めてくる前に、日本軍はペリリュー島民を戦争の犠牲者にならないように本島へ移住させた。しかし、日本軍と一緒に戦うと島に残ったペリリュー島民も多くおりました。

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※上記写真はペリリュー島にある旧日本軍戦車

【親日国&パラオ共和国初代大統領は日系人】

今でもパラオは親日国であり、1994年独立の際は、尊敬する日本の国旗を真似て、国旗を作りました。初代大統領は日本人の血を引く日系人(現地人との混血)のナカムラ・クニオ氏です。日本はアメリカと並ぶパラオへの最大の援助国であり、それらへの感謝の碑をいたるところで発見します

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【親日国パラオ!自分の子供や会社に日本名をつける!?】

パラオ人は、日本統治時代に日本がした貢献に関して非常に感謝しており、非常に親日。日本、日本人を尊敬しております。そのため、自分の子供や会社、お店に日本名をつける人々が多いのです。
パラオ訪問時にタクシーを利用していると、タクシー運転手の証明書の名前が、YOSHIO(ヨシオ)という名前でした。著者が運転手に、「日本の血が入っているのか?」と尋ねると運転手は「いえ、純粋なパラオ人です。自分の父が日本が大好きで、尊敬する日本人の知り合いに自分の名前をつけてもらった」とのこと。

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他に、マラカル島を歩いていると、YOJIRO(ヨージロー)という自動車修理工場を見つけました。聞き取り調査すると、経営者はパラオ人。尊敬する日本(人)の名前を自分の会社名につけたとのこと。このように、この国では生粋のパラオ人が、日本人の名前を子供や会社につける事をしております。それだけ日本が尊敬、愛されているということです。

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【さいごに】

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いかがでしたでしょうか?日本は世界で非常に好かれた国である事は事実です。世界数多くの国々を渡り歩き、この目でみてきました。世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!シリーズはこれからも続々とアップしていきます。

【文章&写真】

〚略歴〛タイ⑬

国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。

 

上記記事に関しての質問や問い合わせ、取材、記事寄稿依頼、講演依頼等ありましたら

下記までご連絡ください。

大川原 明(オオカワラ アキラ)

E-mail:last-samurai-akira@hotmail.co.jp

携帯電話:090-6078-6677





オーストリア・ウイーン・シェーンブルーン宮殿内の日本庭園!サラエボ事件で殺害されたオーストリア皇太子(日本通)が造営指示! 世界中で大人気の日本庭園!

日本人必見!!オーストリアのウイーン!かつて中世にヨーロッパに覇を唱えたハプスブ­ルク家が居を構えていた土地である。(元々はスイスの小領主出身)
シェーン­ブルン宮殿には日本庭園があります。これは大正2年(1913年)にフラン­ツ・フェルディナント大公(サラエボ事件で殺害されたオーストリア皇太子)が日本訪問­から帰国後造営させたもので、オーストリアの庭師に見よう見まねで作らせたも­のであ­ります。
1892年、約1年の歳月をかけて世界一周の見聞旅行に出かけ、その途上で日本を訪れ­ております。
この時、フランツ・フェルディナント大公(オーストリア皇太子い)は日本の風物や伝統­文化などを詳細に手記に記しており、これは後にまとめられて出版されています。
オーストリア皇太子の日本日記という題名で講談社学術文庫から翻訳されて日本でも発売­されております。

皇太子は「海外を見聞してみたい」と思うようになっていきました。
1891年、ロシア皇帝と謁見しにペテルブルグを訪れたのがきっかけになったようです­。「異質な国民、民衆、文化、民俗についての知見を獲得し、異国の芸術を鑑賞し、さら­には、汲めども尽きない異郷の地の自然に肌で接したい」と思うようになった皇太子は、­世界一周の見聞旅行に出かけます。そして、その訪問先の1つが日本だったのです。
熊本、下関、宮島などを経た後、京都、大阪、奈良、大津などを訪問。
その後、東京に赴き、明治天皇に謁見。政府から大歓迎をうけもてなされました。
日光東照宮も訪問し、そこでは、かつての会津若松藩主であり、宮司になっていた松平容­保公に迎えられました。(薩摩、長州等主体の新政府からはよくは思われていませんでし­たが)

ちなみに松平容保公の曾孫である徳川恒孝氏は養子で徳川宗家に入り、徳川宗家18代目­の当主となられたわけですが。奇遇にも18代目当主のご長男(家広氏)の方とは、当方­は仕事でお会いした事がございます。

大正2年(1913年)に、日本の庭園が忘れられなかったオーストリア皇太子がオース­トリアの庭師にみようみまねで造営させました。
その翌年、ボツニアのサラエボにてセルビア人青年により、オーストリア皇太子は暗殺さ­れました。(サラエボ事件)
それにより第一次世界大戦勃発!!そして敗戦!
オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後は日本庭園は荒廃し、誰ともなしに「アルプス庭園­­」と呼ばれるようになったが、平成8年(1996年)にここを訪れた日本人が日本庭­園ではないかと­指摘により発覚。

その後調査が進められた結果、手水鉢と思われる石など見つかり、日本庭園と­いうこと­が断定されました。
これを受け平成10年(1998年)、日本から庭師を招いて枯山水の日本庭園­として­修理復元されました。

親日国イタリア・ローマ・トレビの泉近くのジェラート屋でナカタ(中田英寿)味のジェラート

日本人必見!イタリア・ローマのジェラート屋でNAKATAジェラート?
平成26年(2014年)8月に2年ぶりにイタリアのローマを訪問しました。
ローマ市内のトレビの泉近くのジェラート屋で日の丸を発見しました。
名前ですが、その名もナカタ!!です。ナカタは今もなおイタリアで人気です。
味は、バニラとイチゴを混ぜたものです。ナカタと命名した理由をイタリア人の先ほどの店員に聞いたのですが、何となくこれがナカタの味だと思ってつけたとの事です。他のジェラート屋にはないと思いますが。適当なイタリア人らしいですね。
バニラは白、苺は赤、日の丸色ではありますが。
そう思ったら、他の名前がついているのをナガトモ!!ホンダ!!といいはじめウケました。
サヨナラ、アリガトウ、マタネ、などカタコトの日本語出来る店員は非常に多いですね。

タイ・バンコク・BTSアソーク駅近く・ターミナル21の日本階

タイのバンコク市内BTSアソーク駅近くに4年程前に出来たターミナル21の1階(日­­本の2階に相当)には親日国らしく東京(日本)階となっており、内装が日本的でこの­よ­うな日本的なものもおかれており、日本好きのタイ人達の憩いの場になっております­。

多くのタイ人が日本にいるかのような感覚で楽しみ、写真撮影しております。服屋を中心­­に雑貨屋などもあります。
上の階にはロンドン階(イギリス階)、その上はイスランブール階(トルコ)、その上は­­ロサンゼルス(アメリカ階)となっております。