国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

07月

3年10か月ぶり5回目のフランス・パリ!ジャパンエキスポ2018現地取材!

【3年10か月ぶり5回目のフランス・パリに到着】
I arrived in Paris in France. This country is the 4th country in this journey. The last time I visited here is in Sep 2014.
今回の欧州&中東、中央アジア周遊で4か国目の国となるフランスのパリに到着。3年10か月ぶり5回目のフランスです。オランダのアムステルダムから高速列車タリスを利用して3時間10分程で到着。写真はパリ北駅。

今回の渡航でフランスを省こうと思ったのですが、フランス人の友人からフランスに来るように誘われた事と、6年ぶりに10万人以上の日本好きフランス人が集まる日本の行事であるジャパンエキスポを視察するために、フランス行きを決定。

パリ市内の名所は過去4回の訪問でかなり行きましたが、今回は写真や動画を刷新する目的で少し長めに滞在します。

前回は、モンサンミッシェルや隣国のルクセンブルグ再訪、前々回は、ニースやモンペリエ、モナコ公国などにも行きましたが、今回はパリ市内のみにしようと思います(ヴェルサイユ宮殿には行こうかと検討中)

オランダはかつては反日国だったのか?今はどうなのか?現地アムステルダムより発信


【オランダはかつては反日!?】
オランダは欧州の中ではポルトガルと同じく古くから交易があった国です(17世紀から)。江戸幕府、3代将軍、徳川家光の時代に鎖国政策が整い、欧州ではオランダだけが交易を認められるようになりました。

先の大戦では、オランダ領インドネシアなど南方でオランダとも激しい戦闘を繰り広げた日本。その後の独立に繋がったインドネシアの人々はオランダの圧制に苦しんでいたのは事実で、日本軍進駐を歓迎し、日本軍が進駐しやすいように内から協力したのは事実です。

第二次世界大戦が終了し、オランダが再び、インドネシアを占領しようとしましたが、インドネシアは日本に見習えと独立戦争を4年5か月にわたり展開し、独立を勝ち取りました。(これには数多くの残留日本兵がインドネシア独立のために尽力したのは多くの人々の知るところとなっています。)

そんな経緯があり、戦後、オランダは反日国でした。
ネットでは嘘情報(フェイクニュース)が垂れ流しになっており、フランスやタイが反日だったとか、反日だとかどこかのカルト宗教の信者や左派が嘘を流していますが、絶対にそれはありません。
ネトウヨと揶揄されるろくに海外に出たこともなく、世界の真実を知らない、民族派のように活動も出来ない自称自認保守(カルトが垂れ流すフェイクニュースに踊らされている人々)は真実を見極める目をもったほうはよい。というよりも海外に出て、自分の目と耳で確認しなさいと。

しかし、オランダがかつて反日であったのは事実です。
しかし、戦後73年が過ぎ、戦争体験の世代が減り、今では反日国ではなく、親日知日の人々も戦後世代を中心に増えています。
実際に多くのオランダ人と接して(今までの人生でも)、日本に対して良い感情をもつ人々が増えていると実感しています。

隣国のように反日教育による洗脳をしていませんので、いつまでも謝罪や賠償といっている人々ではありません。
まず、先の大戦では、日本は負けました。勝てば官軍、負ければ賊軍のごとく、敗者は歴史上では悪くなるわけです。

しかし、日本が戦わなければインドネシアの独立はなかったのは事実で、そういった意味では、負けはしたものの、日本が欧米列強にたちむかったことには意義があるのだと思います。

オランダとは先の大戦では戦いあったものの、欧州の中では古くから交易のある国です。そういった意味では日本にとっても感慨深く、大切な国だと思います。
天皇皇后両陛下は行幸啓されたオランダ。
さらなる日蘭友好を現地より願っています。

オランダ・アムステルダム・クルージング船で運河めぐり

アムステルダム滞在最後にクルージング船に乗り、アムステルダムの運河めぐりをしました。
前回来たのは2月の寒い時期で、寒くて、毎日曇りや雪で暗い感じのする都市という印象でしたが、夏にくると全然印象が違いました。

イタリアのヴェネツィアは水の都として有名ですが、それと同じように運河が張り巡らされているアムステルダムです。
ここに来たら、是非とも船で運河めぐりをすべきです。

1人で来ていますので、船をチャーターするわけにはいきませんが、人数がある程度いれば、小型~中型のボートをチャーターしてみるとよいでしょう。
アムスの運河を酒を飲みながら巡るのは最高だと思います。

オランダ・アムステルダム・ダム広場!独立を目指す東トルキスタン共和国亡命政府、ウイグル人団体との交流

【独立を目指す東トルキスタン共和国亡命政府、ウイグル人団体との交流】

アムステルダムのダム広場では、法輪功やウイグル人の団体が中国共産党に対しての抗議活動を展開していましたが、両者に聞き取り調査をさせていただきました。

まずは、法輪功では北京出身でアムステルダムの大学に留学している男性より話しをききました(英語力はかなりの上級者)。

その次に、ウイグル人の団体に聞き撮り調査。
現在、オランダに居住しているウイグルの人々です。ここにいる方のお父さんや兄弟が、刑務所か政治収容所に入れられており、数多くのウイグル人が中国共産党により虐殺されていると訴えていました。

日本が先の大戦で敗戦した4年後、1949年、国共内戦で勝利した中国共産党は中華人民共和国を建国すると、国民党勢力の残存していた地域へ侵攻してこれを制圧。これによって新疆は中華人民共和国に帰属されることとなった。この地域の中華人民共和国による併合後、民族名称はウイグル族と公式に定められました。

中国共産党は1950年頃から新疆ウイグル自治区に漢族を中心とする新疆生産建設兵団を大量に入植させました。
当初、入植当初人口7パーセントだった漢族が1991年には40パーセントになりましたが、このような方法は確実な併合とするべき、中国共産党の策略の1つです。

ウイグルは石油と天然ガスの埋蔵量が豊富ですので中国共産党としてもこの地区は絶対に手放したくないのです。

旧ソ解体、東欧の民主化(ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊など)、ユーゴスラビア解体など、共産社会主義国であった国々が、次々と民主化し、連邦を組んでいた国では連邦内の国々が次々と独立。
その世界的な動きに乗じて、ウイグルでも独立の気運が高まりました。数多くの抗議でも活動を展開し、多くのウイグル人が中国共産党が送り込んだ公安や警察などに逮捕、処刑されました。

2009年ウイグル騒乱は非常に大きなもので、漢人と争った多くのウイグル人が犠牲になりました。1万人近くが行方不明になり、処刑もしくは多くある収容所に送られたとのことです。

欧州を出た後に、旧ソ構成国でもあった中央アジア(カザフスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、キルギスなど)に赴きますが、ウイグル人の多い国々です。
これらの国々はではウイグルの機関が連携しています。

「東トルキスタン国」の建設を名目として活動を世界で展開しています。

2015年8月にタイのバンコクの江ラワン廟で爆破テロ事件があり、死者20名を出しました(現地踏査済)。
当初は、タイ国内の政治デモの争い、南部のイスラム独立派の仕業と考えられていましたが、タイ政府は、この1か月前に、亡命を目指していたウイグル人109人をシナ(中国)に強制送還した報復であったという見方が、タイの諜報機関の調査の見解です。

ウイグル、内モンゴル、チベットでは中国共産党が支配を続けるために、徹底的な言論封殺と圧力、外部への情報漏えいを防ぐことをしていますが、平和や人権と訴える日本共産党や社民党などの左派政党はこの問題に関してどのように考えているのであろうか。

共産党信者、共産社会主義者はある意味、カルト宗教の信者と同じです。カルト宗教のようなものなのです。教祖や上がいう事により洗脳され、真実を見極めることが出来ずに、目的達成のためには平気で嘘をつく。
こわいものです。

ちなみに、ウイグル地域には日露戦争前後に日本人が渡り調査をしていました。
1902年から1908年および1910年にかけては大谷探検隊、1905年には上海亜同文書院二期生の波多野養作、林出賢次郎、桜井好幸、1906年には参謀本部将校の日野強と上原多市が入りました。
彼らは情報収集活動をおこなっていましたが、ロシア動向を探るものであったのです。

大日本帝国陸軍は、満州、モンゴル、ウイグル、チベットやイスラム教勢力などを支援することによって、ソ連や中国共産党などの共産主義勢力を包囲する戦略として「防共回廊」政策がありました。

大日本帝国時代の諜報員に、西川一三がおり、 1945年に内モンゴルより河西回廊を経てチベットに潜行。戦後、インドを経て帰国した。ほかに木村肥佐夫も同様に諜報員としてチベットに入りましたが、両者にチベット入りを指示したのは戦後、A級戦犯として処刑された東條英機でした。

日本の諜報員はかつて海外で諜報業務についていました。
正直な話し、先の大戦で負け、GHQにより骨抜きにされた現代に日本においても海外で諜報活動に従事する人々が・・・。

ちなみに、現場にはシリア人もおり、色々とシリアの内情を教えて頂きました。

記念にウイグル人やシリア人と記念撮影。

オランダ・アムステルダム・ハイネケンエクスプレス(博物館)

オランダといえばハイネケンビールです。ハイネケンは、1863年にヘラルド・A・ハイネケンによって創立され、現在では世界170か国以上で販売、アンハイザー・ブッシュ・インベブ、SABミラーに次ぐ世界第3位のシェアを占める世界的ビール会社です。オランダも含めて世界100か国に醸造工場を持っています。

アムステルダム市内にはハイネケンエクスプレスと呼ばれる1988年まで工場として稼動していた建物を博物館として一般に開放しています。

ビール好きにはたまらない見学ですが、入場料21ユーロの中にビールの試飲が2杯ついています。想像以上に満足のいく場所でした。特に最新のCGを使った映像が未来的で素晴らしく感動しました。

酒は強くないのですが、2杯で酔ってしまいました。
アムステルダムに来たら是非とも訪れるべき場所です。

アムステルダム市内、ハイネケンエクスプリスで仲良くなったメキシコ人。メキシコ人も親日的な人々が多そうです。来年初めにメキシコに行き、そこから中南米を4か月程周遊(15~20国)しますが楽しみです。

オランダ・アムステルダム・ゴッホ美術館!日本の浮世絵を愛した天才画家ゴッホ!

本日訪問したゴッホ美術館ですが、本館は1973年に出来、写真の新館は1999年6月に完成しました。
実はこの新館は世界的に有名な日本人建築家である黒川紀章氏が設計したものです。

別館は1999年6月に黒川記章氏設計&旧安田火災海上保険の支援により完成。
ゴッホ簿術館内にはその功績をオランダ語、英語、日本語の3か国語でまとめた碑文があります。

【日本の浮世絵を愛したゴッホ】
Van Gogh was interested in Ukiyo-e of Japan art and gathered and copied when he lived in Paris.
アムステルダムのゴッホ美術館で購入した英語書籍
前述したとおり、パリ在住時に日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写をおこなっていました。
日本に対しての関心が高かったゴッホは日本の地を踏むことはありませんでしたが、日本の浮世絵を好んでいたことに関して、日本人としては非常に嬉しいものです。

これ以外にも数多く日本に関わる商品が売られていましたが、書籍では一番軽いものにしました。(まだ様々国々を周遊するので重量を増やしたくない)

オランダ・アムステルダム・ダム広場・王宮

アムステルダム市街地のダム広場の王宮に。
1655年にタウンホールとして建設され、19世紀初めにフランスの皇帝であったナポレオンの弟ルイボナパルトによって接収。その後、オランダの王家のものとなり、現在は迎賓館としてされています。
天皇皇后両陛下が平成12年にオランダに行幸啓された際にも使われた迎賓館です。

ダム広場では、 法輪功のやウイグル人達が、中国政府(共産党)の虐殺問題に関して周知活動をおこなっていました。

オランダ・アムステルダム・SPORTS cafeでスペアリブを堪能

本日の昼はアムステルダム市内ライツェ広場にあるSPORTS cafeでスペアリブを堪能!飲み物合わせて2222円(日本円でカード決済)でしたが、なかなかの量でこの値段は安かったです。

隣にいたドイツ人のオジサンがスペアリブが冷めていた事に対して、怒ってクレームを出し、つくりなおさせてました(笑)

ライツェ広場界隈では超人気店。混雑したお店ですが、店員の対応もよく感心しました。

オランダ・アムステルダムの国営カジノ(HOLLAND CASINO)


アムステルダム市内の国営のカジノを12年4か月ぶりに訪問。
犬も歩けば棒にあたるではないですが、オランダには私営も含めて多くのカジノ(スロットだけのとこもいれて)あります。

一番多く展開しているのは、国営カジノチェーンとして運営されている「ホランド・カジノ 」国内に14あります。

IR法案で日本にもカジノが出来る予定ですが、世界各地のカジノを視察(実際にプレイしてお金を落とす)してきた小生です。今までカナダ、オーストラリア、ベトナム、フィリピン、イギリス、エストニア、ブルガリア、韓国、シンガポールなどのカジノを訪問。

日本が目指すIR法案ではシンガポールのセントーサ島のカジノが一番参考になるカジノです。

アムステルダムの国営カジノは、3階建てで、1階と2階がスロットマシーン。3階が、テーブルゲームの階にになっています。

緩いドレスコードがあるのでスマートカジュアルの恰好できめて乗り込みます。

ホランド・カジノは2008年、2009年、2011年の国際的なアワード「社会的責任を果たすカジノ・オペレーター最優秀賞」を受賞している。

24時間営業課と思って、朝まで勝負と思っていたら、深夜3時に閉店とのことを突然言われ、泣く泣く損した状態で店を後にしました。

最初、最低掛け金20ユーロ(2600円程)のブラックジャックのテーブルでやってましたが、財布からユーロを次々にコインに換えていきました。
2時間で投資額250ユーロ(32500円程)に達しましたが、そこから調子がつき、一時、430ユーロまでいき、180ユーロ(23400円程)の儲けが。
ここでやめようかと考えたのですが、ついつい欲が出てしまし、粘っていたらのまれていきました。
途中、ジャックポット付きのスロットマシーンに移動するも駄目50ユーロ追加=投資総額は300ユーロ。
しばらく±0でしたが、そこから徐々に減り始め、-180ユーロの時点で閉店(深夜3時)といわれ、結局、180ユーロ損(23400円程)

昨夏にカナダのバンクーバーとビクトリアのカジノに行った時に、ATMで国際キャッシングしまくり、総額25万円損しましたが、それに比べたら可愛いものです。
今晩も勝負したいと思ったのですが、明日は朝から撮影しますので、時間がとれず。

オーストリアかブルガリア再訪した時に現地のカジノ視察してみようかと思ってます。(ブルガリアは一昨年再訪し、33000円程儲けた)

オランダのカジノでは客はオランダ人が6割くらい。
後は外国人観光客。顔や言語などで民族、国民を見極める力がありますが、イギリスやアメリカ、ドイツ、フランス、イタリア人などがいました。
インド人や中国人も2桁人数いましたが、20年も前だと査証や経済的問題でほとんど見る事がなかったのですが、両国の経済発展と人口過多の国だというのを感じました。

カジノのテーブルゲームのディーラーは英語力は必須。所詮、カジノで使う英語は限られた専門用語ですので大した英語でなくても大丈夫ですが、英語母国語国からの客が来た時に、普通に楽しい会話が出来る必要がありますのである中の上(アッパーミドル)以上の英語力が必要です。

日本人は英語が流暢に話せる人々は他国と比べて非常に少ないですが、カジノを日本で設置した場合、中級上(アッパーミドルクラス)以上の英語力が必要とされます。
日本社会では英語力が上級だと海外展開している、それなりの会社に入社できる要因となるので、英語が出来る人材確保は給料を高くするなど、優遇しなければと思います。

今までに世界各地のカジノでディーラーと接してきましたが、基本的に、不快な対応をされたことはありません。エンターテイナー的な役割も担っておりますので、客が損しても笑顔で、客が勝った時は喜び、負けた時は相手の気持ちを察知する事もしています。

カジノに関して様々な人々が言及していますが、実際に海外10か国以上のカジノを視察し、実際に体験してお金を落としてきた自分からすると、カジノが出来ると治安が悪くなるとか、売春が横行するなんてことはありません。これは断言できます。

カジノ反対というならば、
まず、全国各地に朝から晩まで利用できるパチンコ屋の廃止に関して議論すべきでしょう。

更なる観光収入、外国人インバウンド客増大、外貨獲得に繋がり、国益に繋がるものと思います。

ギャンブル依存症はあるのは事実です。パチンコやスロットなどのギャンブル依存に苦しんでいる人々は日本各地にいますが、そういった問題も考えるべきです。

本来であれば、カジノは外国人のみ利用可能が最善ですが、それが出来ないのであれば、高い入場料(6000円くらいといわれているが)をとるべきです(数万円くらいとったほうが効果はある。)

カジノの解禁は平成28年に成立したIR整備推進法で決まり、カジノ運営の具体的制度に関してはIR実施法案で定めることになっています。

カジノを含むIRの設置場所の数をめぐっては、ギャンブル依存症を不安視して絞り込みを求める意見がある一方、大阪府や北海道、長崎県、愛知県、横浜市など複数の自治体で誘致を目指す動きがあり、自民党内には拡大論も根強いとの事です。

かつて競艇、オートレース、競輪、競馬などの公営ギャンブルからパチンコ、スロットなどの私営ギャンブルに嵌り、ギャンブル依存症でした。

海外においては韓国、ベトナム、フィリピン、シンガポール、カナダ、エストニア、スペイン、オーストラリア、イギリス、ブルガリアのカジノを視察訪問。実際にブラックジャックやポーカー、スロットマシーン、ルーレットを経験。