国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

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猫?タイ・バンコク・ソイ23のお薦めバー『The club House』ピザと日本のアサヒビール!アソーク駅近く

【タイのバンコクのソイ23にあるThe Club House】

アソーク駅近くソイ23 前々から利用しているスポーツバー『The Club House』にて夕食。 洋食からタイ料理まであり ビールや酒も種類豊富です。 ここでは タイ料理食べることが多いですが 久しぶりにピザが食べたくなり ピザをいただきました。

ビールは現地生産のアサヒビールをパイントで。 選んだビザはハム&マッシュルームのピザ。 ピザは生地、具材ともに非常に美味しかったです。 欧米人に人気のバーですが 日本人駐在員など現地在住日本人も利用する店。モニターでスポーツ観戦出来 雰囲気が非常によいバーです。 料理の味も良し。 費用は総額550バーツ(約2600円)


【海外日本食人気】フランス・パリのオペラ地区!日本食屋街②寿司やラーメンなど!中国や韓国も?

フランスのパリのオペラ地区。バブル期以前より日本企業がフランスに進出し、パリに支店や現地法人を設けました。その中でオペラ地区に拠点をおく企業が多く、それら日本人駐在員向けに日本食屋が出来たのが始まりです。

今となっては数多くの日本食屋ができ、フランスでの日本食人気もあり、フランス人も数多く訪れる地区になっています。
日本食人気に肖り、韓国や中国人がこちらで日本食屋を経営したり、日本とは隣の国ということで、日本食人気に肖り、相乗効果を図ろうとする韓国料理屋が増えています。



【海外日本食人気】フランス・パリのオペラ地区!日本食屋街②寿司やラーメンなど

フランスのパリのオペラ地区。バブル期以前より日本企業がフランスに進出し、パリに支店や現地法人を設けました。その中でオペラ地区に拠点をおく企業が多く、それら日本人駐在員向けに日本食屋が出来たのが始まりです。

今となっては数多くの日本食屋ができ、フランスでの日本食人気もあり、フランス人も数多く訪れる地区になっています。
日本食人気に肖り、韓国や中国人がこちらで日本食屋を経営したり、日本とは隣の国ということで、日本食人気に肖り、相乗効果を図ろうとする韓国料理屋が増えています。

ヤンギカラ峡谷【中央アジアの北朝鮮】『2日目』トルクメニスタンの首都アシガバード→ヤンギカラ峡谷→カスピ海「トルクメンバシ」に移動

ヤンギカラ峡谷【トルクメニスタン/ツアー2日目』トルクメニスタンの首都アシガバード→ヤンギカラ峡谷→カスピ海「トルクメンバシ」に移動The Second day-Turkmenistan tour

105か国目、初訪問の国
中央アジアの北朝鮮と呼ばれる『トルクメニスタン』5日間滞在。

トルクメニスタンの大人気観光名所『地獄の門』。近い将来、閉鎖される可能性があり行くなら今のうちと思い訪問しましたが、神秘的で感動感が高かったです。

今回の動画はツアー2日目
首都のアシガバート市街地の景色を堪能。アシガバートからカスピ海沿いの都市『トルクメンバシ』に移動。
道中、美しい絶景を楽しむことが出来る『ヤンギカラ峡谷』によりました。ホテルはトルクメンバシの高級ホテルに宿泊。

ツアー2日目に訪れた場所の詳細は下記

【トルクメニスタンの首都『アシガバート』ホワイトシティー】
中央アジアの北朝鮮と呼ばれるトルクメニスタンの首都『アシガバート』
初日と3日目にアシガバートのホテルに宿泊しました。
人口は103万人と同国最大の都市。1948年10月6日に発生したアシガバート大震災によって甚大な被害を受けました。そのため、現在、アシガバートにある建物は大震災以降に建てられた建物です。

首都なので数多くの政府機関がありますが、それら建物の全てが白い大理石を用いて建てられており、別名『ホワイト・シティー』と呼ばれています。整然とした街並みで非常に綺麗な都市です。政府が力をいれているのを実感しました。

【ヤンギカラ峡谷】
首都のアシガバートからカスピ海沿いの都市『トルクメンバシ』に移動する道中に寄った『ヤンギカラ峡谷』トルクメンバシから車で3時間ほどの場所にあります。

もともとはカスピ海の海底だった場所のようで、海底のあとが風雨による浸食で今の姿になったようです。

ここまで来るまで、ラクダが多いカラクーム砂漠地帯の悪路を進んできました。途中から地層の色が違う崖があらわれます。
最も美しいのは夕方の夕映えした時間。
夕日で太古の海が夕映え、赤く染まる習慣が非常に美しいです。

【トルクメンバシのホテル『BEYIK YUPEK YOLY(Great Silk Road”Hotel』】
ツアー2日目。カスピ海沿いのリゾート地『トルクメンバシ』に移動して1泊。ヤンギカラ渓谷などに寄っていたので、到着時間が深夜になりました。
豪華な造りで綺麗で清潔な館内と部屋。満足のいく滞在が出来ました。朝食も美味しかったです。

【現地実録】ポルトガルのリスボンでケーブルカーが脱線!観光名所『坂の街』17人死亡21人負傷

ポルトガルの首都リスボンでケーブルカー脱線して17名が亡くなりました。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
動画はリスボン訪問時に現地で撮影したもの。

坂の街「リスボン」
坂を歩くのは大変です。そんな時に市民の足として活躍しているのが坂道を走るケーブルカーです。何らかの理由で猛速度で坂道を下り曲がり角を曲がり切れず脱線。

観光名所ともなっており
観光客も多く利用数するケーブルカーです。

ちなみに、リスボンにはは欧州連合薬物庁 (EUDA)
旧 欧州薬物・薬物中毒監視センターが置かれている都市です。
しかし、街中を歩いていると数多くの麻薬の売人に話しかけられ、実物も見せられました。治安に関して少し注意が必要な都市です。

【海外慰霊‐ビルマ戦線】タイ・ラムプーン県の日本兵慰霊塔『噫 忠烈戦歿勇士の慰霊塔!藤田松吉氏(クーカムおじさん)チェンマイから日帰り訪問

【タイ・ラムプーン県の藤田氏‐日本兵慰霊塔『噫-忠烈戦歿勇士の慰霊塔』】

人生4回目のチェンマイは合計で6泊しました。
1日はチェンマイ周辺のラムプーン県やプレー県にある日本兵慰霊碑を慰霊のためにホンダの160CCのスクーターで巡りました。

まずはチェンマイから60キロ南下してラムプーンの日本兵慰霊塔に。慰霊を終えた後、そこから177キロ東(所要時間2時間40分程)、プレー県の日本兵慰霊碑に。

帰りはプレー県からチェンマイまで200キロほど運転。1日の総距離は440キロほどでしたが頑張って運転しました。

ラムプーン県の慰霊碑は『噫-忠烈戦歿勇士の慰霊塔』
慰霊塔は旧日本陸軍第18師団-第55連隊(菊兵団)に配属され、戦後も日本に帰還することなく、この地で生涯を終えられた藤田松吉氏(平成21年(2009年1月25日逝去/享年90歳)により建立されました。

戦後、藤田氏は北タイに留まり、チェンマイ県とメーホーンソーン県にて日本将兵の遺骨収集に尽力し、約800柱に及ぶ御遺骨を慰霊塔内に収めています。

その後、御遺骨は厚生省に引き渡され、千鳥ヶ淵戦没者苑に安置されています。現在の慰霊塔には藤田氏の御遺骨が収められています。キリスト教徒であった藤田氏は毎年のクリスマスの日を戦没者供養の日とし、他界するまでともらいを続けられ、今日では日本とタイの有志でクリスマスの慰霊は引き継がれています。

‐藤田松吉氏-
出身地-長崎市上野町(現-岡町)出身
タイ名-クーカム・スックジューム
クーカムおじさんと現地のタイ人に親しまれていたようです。

生年月日-大正9年(1918年)12月2日生まれ
逝去日-平成21年(2009年)1月25日 90歳 ラムプーン県の病院で肺炎にて逝去
昭和14年(1939年)第18師団(菊兵団)55連隊第三大隊-第二中隊‐小銃隊に入隊。

中国広東省からタイ、マレーシアを経てシンガポールと転戦。
昭和17年(1942年)2月15日、シンガポール占領を果たし4月にビルマ戦線へと向かった。北ビルマの『死の大峡谷』フーコン戦に従軍し砲弾により、右足大腿部盲貫通の重傷を負う。

原隊は壊滅状態で散り散りばらばら敗走し、終戦を迎えました。戦後は野宿を繰り返し、現地のビルマの人々の援助を受け、
半年後にタイ国内に移り道路工事などに従事。タイ国籍も取得しました。
昭和40年(1965年)日本の大手ゼネコン前田建設工業㈱が日本業者として初めての世界銀行借款海外工事(ODA援助)としてチェンマイ~ラムプーン間のハイウェー(現国道11号線)工事を受注し、藤田氏は工事の現場監督として尽力しました。

さらにはウボンラチャタニー県のダム工事(ラムドンノイ)にも参加。昭和52年(1977年)厚生省が遺骨収集団を初めてタイに派遣した時、藤田氏は案内役として協力。
また、自身の戦友の亡骸を自らの手で集め、自宅敷地内に自費で『噫-忠烈戦歿勇士の慰霊塔』の慰霊塔を建立しました。

※NikonのフラッグシップミラーレスカメラZ9 で撮影
使用レンズはF2.8 24-70㎜のレンズ

立ちんぼ?【ジュライローターリー】タイのバンコクのヤワラート夜の繁華街を散策③ジュライホテル!アソークからMRTで行ける

かなり久しぶりに訪問。 バンコク市内のヤワラート(中華街) チャイナタウン。 タイ最大の中華街です。 中心街からジュライホテル、ジュライロータリー 方面に歩いてみました。かなり昔からタイに来ている年配の方々は 懐かしむ場所。 ジュライロータリー周辺には未だに立ちんぼが・・