国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

東南アジア

モスクが美しい魅惑の国!ブルネイで訪れるべき場所5選

旅メディアに旅記事寄稿!今回のお題は、モスクが美しい魅惑の国!ブルネイで訪れるべき場所5選

ボルネオ島北部にある小さなイスラム教国・ブルネイ。国土6000平方キロメートルの小さな国です。水上集落があったり、近郊に足を延ばせば熱帯雨林が広がっています。また非常に神秘的で荘厳なモスクがあり眺めているだけでも心が癒される場所です。

首都のバンダルスリブガワンは、ブルネイの観光名所が集中しております。今回は、ブルネイの首都で訪れるべき5つの場所を皆さんにご紹介いたします!

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たびねず記事

ベトナム・ホーチミン・地下鉄1号線!日本のODA援助で建設中!

場から近い場所にある地下鉄1号線の駅ベンタン駅の建設現場。1号線はベンタン⇔スイティエン間を走る地下鉄です。
日本のODA援助による資金で地下鉄建設中。請け負っている会社は日本の大手ゼネコンの清水建設と前田建設。双方が一緒になり建設しております。
日本の血税から流れる資金援助(一応、円借款のようですが)もこのような形で日本人に感謝してもらえるように看板を出してくれるなら有益です。

こういったODA援助は無駄だという方もいらっしゃいますが、一種の外交戦術でもあります。これを生かすも殺すも日本政府の出かたしだいではあります。(実際には日本企業の進出が容易になったり日本にも利点があります。=これは日本にとっても有益です。対日感情もさらによくなります。日本にとっても有益です。ゼネコンにもお金がおちますしね。)

アジア(インド、タイ、ベトナム)2か月弱の渡航調査からの帰国のご報告!

52日ぶりの祖国日本帰国。3月8日に日本を発ってから、インドのムンバイに到着。ムンバイ→ゴア→コーチン→ムナール→チェンナイ→バラナシ→デリー→アーグラ­ー→アーメダバード→ムンバイとインドに25日間滞在。
その後、ムンバイから同盟国タイに赴き首都のバンコック→プーケット→ピピ島→ランタ­島→バンコクとタイに22日間滞在。
同盟国タイを後にしたあとに、南部仏印に赴き主にホーチミンにて調査業務。ベトナムに7日間滞在­しました。合計で52日間です。

久しぶりの祖国日本。自分がいない間に熊本で大きな地震がおこり多くの方々が被害に遭­われ、祖国を憂いておりました。

中部国際空港(セントレア)に到着。高速バスにて地元の浜松に。車内でWIFIが使え­るので、いくつかの諸機関への報告業務をメールにて車内よりしております。
インドのコーチンで日本の携帯を壊してしまいましたが、本日中に対処する予定です。

本来であれば、そのまま中東、アフリカへの諜報任務へつく予定でしたが、日本でいくつ­かの任務がある事と、データを落としたい等の理由で一時帰国。
体勢を整え次第、再出発いたします。

タイの高級リゾート「シェラトン・ホアヒンリゾート&スパ」で最高なひと時を

タイの首都のバンコクから200キロ程南にあるホアヒンは、ラーマ7世の離宮「クライ・カンウォン」が1928年に完成して以来、王室の別荘がある事でも知られています。長いビーチ沿いには数多くのホテルがあるのですが、今回は、スターウッドグループの高級リゾート「シェラトン・ホアヒンリゾート&スパ」を皆さんにご紹介いたします。

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たびねず記事

【タイ風俗】タイ・バンコク・ゴーゴーボーイ(ゲイバー)通り!ゲイ天国?

親日国タイ バンコクのシーロム地区。このあたりは、ゴーゴーバーやカラオケパブ、ゴーゴーボーイ­が多くあります。
ここにあるゲイバー・ゴーゴーボーイ通りを散策。
決して、自身は男に­興味があるわけではないが散策してみてなかなか楽しかったです。
外でも音楽が流れているので屋外レイブ状態で、外にあるバーで酒を飲むだけでも満足し­ます。

【世界の軍隊】バングラデシュ軍兵士!バングラデシュ・ダッカ空港!

バングラデシュ訪問時に撮影。バングラデシュのダッカの空港内
バングラデシュ軍の兵士達
ダッカといえば、赤軍派の構成員が起こしたダッカ事件が有名です。
こちらは新しい空港ですが、旧空港がその現場となったところです。
現在は軍の施設として利用されています。

東南アジア、南アジアで流通するリキシャ!日本由来の○○車が由来?世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第4話!

東南アジア、南アジアで流通するリキシャ!日本由来の○○車が由来?世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第3話!

日本の人力車を基にしたリキシャ(力車)。

【人力車とは?】

最近の若い方の中には、人力車を知らない方がいらっしゃるかもしれません。人力車とは、読んで字のごとく人を輸送するための人力による車です。横に並べた2つの輪を持つ車に乗客を乗せ、俥夫がひくものです。日本では、主に明治から大正・昭和初期に移動手段として用いられました。英語にRickshaw(リクショー)という単語がありますが、これは「リキシャ」を語源とする日本語由来の英単語です。

明治時代初めに日本で開発された人力車。人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、馬よりも人間の労働費のほうがはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段になりました。

しかし、人力車は自動車の普及により、今では人力車は一部の観光地でしかみかけなくなりました。

(※下記写真は、東京の浅草で撮影)

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【日本の人力車が海外に普及】

明治時代に日本の人力車は、アジア各国(支那(中国)インド、東南アジア)、へ輸出されました。特にインドでは、明治40年代、年間1万台が日本から輸出され、人力車の人をとったリキシャ(呼びやすい)などの名前で国民に知られるようになりました。その後、自転車を取り付けたサイクルリクシャー、モーターをつけたオートリクシャーが製造されました。

インドでは1919年、コルカタ市が正式な交通手段として認定。
1972年以降、コルカタではいくつかの通りで人力車が禁止。
1982年、市当局は1万2000台以上の人力車を押収し、廃棄。
1992年の調査では、3万台以上の人力車が営業中で、そのうち6000台が違法車両や未許可車両。
新しい許可は1945年以降出されていない。

インドでは、しばしばリキシャはリクシャとも発音される。料金は1回の移動につき2、3ドル。
2005年8月に西ベンガル共産政府は完全に人力車を締め出す計画を発表したが、リクシャワーラーの抗議とストライキに終始しました。
2009年現在、かなりの数の人力車がコルカタにまだ残っており、約8000台、2万人の車夫がいるとされる。リクシャワーラーの組合は、人力車の禁止に強く反対しています。

 

※下記写真は、マレーシアのペナン島で撮影※

リキシャのマレー人の運転手と一緒に記念撮影。リキシャは日本の人力車が由来となっている言及していました。
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下記写真はバングラデシュの首都のダッカ訪問時に利用したリキシャ。自転車が前についており、運転手が足で漕ぎます。そのため人力車よりも速度は速いです。ダッカでは、下記のリキシャで5日間行動しました。乗り心地はよく、装飾も派手にされてり、まるで貴族になった気分になれます。

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他にオートリキシャ(リクシャ)と呼ばれる三輪車がインドやスリランカなどの南インド、タイなどの東南アジアで普及しています。タイではオートリキシャ(三輪車)をトゥクトゥクと呼んでいます。観光客にも馴染みが深い乗り物でです。モーターがついており、サイクルリキシャよりもさらに速度が速く遠出も出来ます。かつては、日本でもオートリキシャ(三輪車)は日本でも走っていたのですが、四輪自動車普及により、今ではみかけなくなりました。

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日本の文化が世界に広まっているのです。世界各地を渡り歩き知った真実です。日本にも外国からの文化が多く入ってきていますが、他方において、日本の文化や日本関連物が世界に出て、浸透しているのです。

【文章&写真】

〚略歴〛タイ⑬

国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。

 

上記記事に関しての質問や問い合わせ、取材、記事寄稿依頼、講演依頼等ありましたら

下記までご連絡ください。

大川原 明(オオカワラ アキラ)

E-mail:last-samurai-akira@hotmail.co.jp

携帯電話:090-6078-6677





タイ北部クンユアム!タイ日友好記念館!第二次世界大戦関連地訪問!現地ルポ!世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第3話!

タイ北部の小さな町、ビルマとの国境地帯に近い­­場所にあるクンユアムを訪問。そこ­にあるタイ日友好記念館。

クンユアムは、メーホーンソーンの南約65キロの場所にあります。かつては、日本軍が­­­駐留し、日本兵が野営を張ったり、現地のお宅にお世話になるなど、日本兵と現地タ­イ­人­の深い交流が結ばれた町です。
インパール作戦の失敗後、多くの日本兵がビルマ戦線で亡くなられましたが、戦争末期か­­­ら終戦後、多くの日本兵がビルマ国境を通り、同盟国であったタイ国内に敗残兵とし­て­入­ってきました。終戦後、枢軸国の一員で英米に宣戦布告していたタイも英米に従­わざ­るを­得なくなりました。
そんな中、ビルマからタイへ多くの日本兵が移動してくる中、コレラや飢え、傷病で亡く­­­なる日本兵は大多数おりました。
かつて隊をおいていたクンユアムを目指し、敗残兵と化した日本兵。クンユアムにつき、­­­クンユアムの人々の手厚いもてなしをうけました。治療、看病、食事や衣服提供等。
これは、それだけ日本兵の方々が現地タイ人に信頼されていたのもあります。慈悲深い精­­­神をもった人々が多いタイですが、死にそうになり困っている日本兵を見ていられな­か­っ­たのでしょう。
多くの日本兵がクンユアムでお世話になり、日本へ無事に帰国する事ができました。それ­­­ら、日本兵は、水筒やヘルメット、毛布等を世話になった家庭それぞれに残していき­ま­し­た。
そしてそれら家族はそれらを大切に保管しておりました。
それから50年程たった1995年にクンユアムの警察署長として赴任したタイ人が、か­­­つての日本兵とタイ人との交流に興味を持ち、私費を投じて、それらを集めて199­6­年­に博物館をつくりました。そして8年前にクンユアム市に管理が委託され今にい­たっ­てお­ります。
中には多くの展示物や写真があります。
クンユアムでお世話になった日本兵の中には現地タイ人と結婚し、それらの孫や曾孫が現­­­在、日泰の混血としているようです。

これがタイの屋台飯!タイ・バンコク・BTSプロンポン駅近くの屋台で130円屋台飯(カオマンガイ)

タイのバンコクは以前に仕事で駐在していた経験があるので、地の理があります。
BTSプロンポン駅近くにある屋台でカオマ­ンカイ(チキンライス)を食しました。カ­オマンガイ=チキンライス。海南島発祥らしいのだが、東­南アジア各地に広まった。場­所はエンポリアムデパート近く、スクンビット通りに面しており、車やバイクの流れを見­ながら­の食事。

バングラデシュの首都ダッカ!日本ゆかりのリキシャで巡る!

バングラデシュの首都のダッカ!ダッカは、世界でも有数の人口密度が高い都市でござい­­ます。
歩行者、リキシャ、バイク、車、自転車、CNG等がいきかい混雑しております。喧騒感­­に満ちた都市でございます。

ダッカ訪問時は、日本の人力車が起源となるリキシャという三輪車に乗って市内散策をし­­ました!!
風が心地よ­く乗り心地もよかったです。
夜の散策は外務省の安全ホームページでも強盗に等にある可能性­があるとの事で極力控­­えてくださいと書いてありますが、注意が必要です。
外国人観光客はインドのようにはおらず、物珍しげに見てくる人々が多くおりました。ま­­るでスターになった気分でございました。