228事件。228と聞いて、226事件を思い浮かべる方がいると思います。226事件は、昭和11年2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こしたクーデター未遂事件です。
それでは228事件とは!?
228和平公園は台北駅の近くにある公園です。日本統治時代の1899年に台湾初の洋風公園として造られた台北公園です。1947年2月28日に起きた228事件を記念し、1996年、当時の台北市長であった陳水扁前総統により現在の名前に変更されました。
公園内には228記念碑や池があり、人々の憩いの場になっています。ベンチもあるので休憩がてら訪れてみるとよいでしょう。
台湾における228事件。
日本が大東亜戦争で連合国軍に降伏し、敗戦した結果、日本は台湾から撤収しました。その後、蒋介石率いる中国国民党政府が台湾を接収。蒋介石政権は台湾の日本資産を搾取し、膨大な財産を手に入れました。
そして、本省人である台湾人を国語(北京語)もろくに出来ない、2等国民として扱ったのです。こうした大陸の人間(外省人)の台湾人軽視、搾取に対しての民衆蜂起が1947年2月28日におこったのです。日本統治が終わって2年4か月後の事です。
228事件が起こった事の発端は、台北市の闇たばこ業者である婦人を煙草専売局の闇煙草摘発隊が殴ったのがきっかけです。中国国民党の政策に反対していた台湾の人々がこれに怒り、デモ隊を引き連れ、専売局に押しかけました。その後、国民党の行政長官公署に向かったところ、機関銃を乱射されて、多数の死者を出しました。
これに憤慨した台湾人がこの公園にある放送局を占拠し、台湾全土に蜂起を呼びかけました。高雄や台南などで行政の奪還、外省人商店襲撃などが置き、台湾全土に運動は広がりました。
本省人側は国民政府に占拠されている諸施設へ大規模な抗議行動を展開。日本語や台湾語で話しかけ、答えられない者を外省人と認めると暴行するなどの反抗手段を行いました。
台湾住民の中には日本語が話せない部族もいましたが、日本統治時代に「君が代」は国歌として全ての台湾人が歌えたため、本省人たちは全台湾人共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進しました。また、本省人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と呼びかけたのです。
台湾国内にいる軍隊だけでは収拾がつかず、大陸本土よりの増援部隊を要請。その後、28000人近い台湾人が虐殺されました。(この中に日本人が多数含まれているようです。)
この鎮圧は、日本統治時代に日本によるエリート教育をうけてきた知識層を根絶する目的もあったようです。
日本の統治からはずれ、蒋介石率いる中国国民党による支配は、台湾の人々に日本統治時代のほうがよかったと思わせる結果になりました。
中国共産党との内戦に敗れた国民党が1949年12月に大陸から遷都という形で台湾に逃れました。その後、台湾全土に戒厳令をしき、自由を無視した恐怖政治を強めたのです。
日本統治時代不は正は少なく、帝国大学も創設された台湾の経済は日本内地の地方都市を超えて東京と同じ水準でした。日本の統治を体験した台湾人にとって、国民党に変わって以降、治安の悪化や役人の著しい腐敗、軍人・兵士などの狼藉、さらに経済の混乱は到底受け入れがたいものであり、人々の不満は高まっていました。
台湾人は日本統治下の法治政治に慣れ、それを当然のものと考えていた為、警官や軍隊が群衆を無差別に虐殺する事態を想定してはいなかったのも被害者を増やした一因であります。