スペイン・アンダルシア州の州都であるセビーリャ。
想像以上に大きな都市でした。
アルカサル(大聖堂)は市街中心にたっております。
川があり、遊歩道になっているので遊歩道を散策しました。
グアダルキビル川
平成26年(2014年)生涯3回目の欧州周遊旅行
スペイン・セビーリャにて 9月13日
静岡県湖西市(旧新居町付近)の海釣り公園のT字堤2番で体長70センチ、重さ1.2キロの大きなタコを釣りあげた。カレイ、セイゴを狙ってブッコミ釣りをしていたが、リールを引いている時に、タコがかかったようだ。
浜名湖は遠くのあまり知らない人からすると、淡水湖だと思う人も多いであろう。1498年の大地震の前までは淡水湖であった。1498年(室町時代)の明応の大地震により大きな津波が沿岸部を襲い、浜名湖に海水が入った。 それにより淡水と海水が入り混じる汽水湖になる。
外海と浜名湖の入り口の所を今切口という外海から来る魚はここを通り浜名湖に入る。魚によっては浜名湖の奥(奥浜名湖)、浜名湖に流れ出る川(新川、都田川等)もしくは以前は汚染湖沼全国ワースト1位の汚名をうけた佐鳴湖のほうまでいく魚もいる(ハゼ、クロダイ等)
浜名湖にいる魚は、クロダイ、キビレ、へダイ、スズキ(マダカ、セイゴ)、サヨリ、キス、アナゴ、ハゼ、ヒラメ、カレイ、カワハギ、ウマヅラハギ、メジナ、メバル、マゴチ、メゴチ、タコ、コウイカ(スミイカ)、ウナギ、べラ、メバル、カサゴ、クサフグ、ヒイラギ、ゴンズイ、オコゼ等である。
今回釣れたのは
根魚とセイゴ(スズキ)、カレイ狙いであったが、残念ながらカレイとセイゴは釣れず
1.カサゴ(18センチ~22センチ 計15匹
2.タカノハ鯛 25センチ 1匹
3.タコ 1.3キロ 70センチ
4.アナゴ 30センチ
5.チンタ 15センチ~19センチ 3匹
6. メジナ 18センチ 1匹
正月用のおせち料理に追加で良い魚達が手に入りました。
餌は青イソメ,オキアミ 場所は 新居海釣公園 釣り方は穴釣り、ブッコミ釣りが。他にルアーやウキも使用。
カサゴは浜名湖の平均サイズは13~20センチ程である。
カサゴは岸壁下の岩場やテトラにたまりやすい。なので根がかり覚悟で短竿(1.6メートルで穂先の短いもの 道糸は3号)を使いブラクリで真下に落とす。
獰猛な魚なので何でも食うらしく、口も大きいので魚影が濃ければ数釣りが出来る。
意外に可愛らしい顔をしている。
根魚は引きがつよく釣りを楽しめた。
久しぶりに富士市のラーメン大山にて大麺を堪能。
元ラーメン二郎町田店店長が地元で開いた店。
二郎系以外にもいくつかラーメンがあります。
大麺。極太麺でかなり食べ応えがあります。
ベルギー・ブリュッセルの大広場である世界遺産のグラン・プラスを6年半ぶりに訪問。(夜は初めて)。王の家に入り(入場料5ユーロ)そこから市庁舎の景色を堪能。花壇が広場の中にあり綺麗であった。そこで夜になると30分に一回の割合で、素敵なショーがおこなわれた。5分少々であるが、感動した。
グランプラスは、ブリュッセルの中心地にある大広場。ヴィクトル・ユゴーが賛嘆したことでも知られるこの大広場は、世界で最も美しい広場のひとつと見なされている。1998年にユネスコの世界遺産に登録された。
グラン=プラスは美しい広場であるが、華やかな歴史ばかりに彩られていたわけではない。1523年にプロテスタントの最初の殉教者たちであるヘンドリク・フォエス(Hendrik Voes)とヤン・ファン・エッセン(Jan van Essen)がこの地で火刑に処された。
大同盟戦争中の1695年8月13日に、当時木造だった広場の家屋はヴィルロワ元帥に率いられたフランス軍の砲撃によって大半が破壊された。市庁舎の塔は砲撃の的になったが、石でできた壁は放火による火災に耐えた。広場を囲む家々は様々なギルドによって石造りで再建された。このため、市庁舎以外のほとんどの建物は、この時以降のものである。
モロッコのタンジェ訪問時に旧市街(メディナ)内のレストランでモロッコ料理を堪能しました。 ★ハリラと呼ばれる羊肉か魚の出汁でヒヨコマメ、玉ねぎ、トマトなどを煮込み、小麦粉でとろみをつけたスープ。 ★ケバブ=アラブ圏(イスラム圏)で全域で食べられる肉の串焼き。香辛料で臭みを消した羊、牛、鶏肉、ケフタなど串に刺し、炭火焼したもの。 ★クスクス=北アフリカで広く食べられている料理。羊肉、鶏肉、魚などを野菜と煮て中身とスープを取り出し、これをスームルという粗粒上の小麦を蒸したものをかけたもの。 他にも数品堪能。モロッコのビールともに堪能。 締めは、アラブで盛んに飲まれているミントティー





帝国主義の時代になると、モロッコがフランスとドイツの角逐の場となり、1905年にはフランスのモロッコ支配を阻止しようとするドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がタンジェに上陸しました。
このタンジェ事件(第一次モロッコ事件)は翌1906年のアルヘシラス会議で妥協が図られたが最終的な決着はつかず、1911年のアガディール事件(第二次モロッコ事件)を経て、モロッコはフランスにより保護国化され、タンジェは国際管理地域(英語版)とされた。タンジェの国際管理化は第一次世界大戦での中断を経て、1923年12月18日のパリ会議でフランス、スペイン、イギリスの三国による条約が締結され、同年6月24日より開始されました。
後に条約にイタリア、ポルトガル、ベルギー、オランダ、アメリカ、ソビエト連邦も加入した。
第二次世界大戦勃発後の1940年6月14日、スペイン軍はタンジェに侵攻し、一方的併合を宣言しました。
しかし世界大戦終結から半月後の1945年8月31日、タンジェは国際管理地域に復帰した。
1956年10月、条約加盟各国はタンジェの国際管理終結を決定。1956年12月31日をもって国際管理は終わり、タンジェはモロッコに復帰した。復帰に当たり、1960年4月18日までの期限付きで為替や貿易に関する特別措置が採られています。
平成26年(2014年)生涯3回目の欧州周遊旅行
モロッコ・タンジェにて 9月11日