国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

2016年

静岡県南伊豆・波勝崎の猿山!野生猿達との交流!

静岡県南伊豆の波勝崎を訪問。
波勝崎は、断崖絶壁の東日本最大の野猿の生息地です。
現在、約300匹の猿が生息しております。

昭和28年に伊浜の肥田与平さんが餌づけに着手し、4年がかりで成功。
現在野猿の総数は300匹で、ボス猿を中心に群れをなして行動しています。
野猿の寿命は約30年、5歳で大人の仲間入りをします。好物は野菜、穀物、果物などで­­す日本猿の特徴としては、顔とお尻が赤く尾が短く生息分布は南限は鹿児島県の屋久島­か­ら北限は下北半島までです
平成28年(2016年)2月11日撮影

静岡県・伊豆・土肥金山・金運上昇の観光名所

土肥金山(といきんざん)または土肥鉱山(といこうざん)は、静岡県伊豆市の土肥地区­­­­にある金の鉱山の跡である。伊豆市の指定史跡になっています。1972年からテ­ーマ­パ­ー­クとして一般に公開。

この金山は明治から昭和にかけては、佐渡金山に次ぐ日本第2位の産出量がでした。19­­­­65年に鉱量枯渇のため閉山。
中では、当時、使われていた坑道内部に潜入でき、金採掘の方法やその江戸時代の採掘の­様子等を知ることが出来ます。

砂金体験もでき、大人でも夢中になる事は間違いないでしょう。
金にちなんだ商品が多く売られてますが、金運上昇のために訪れてみると良いでしょう。

静岡県西伊豆・土肥(伊豆市)温泉旅館・明治館!

平成28年(2016年)2月10日~12日に静岡県伊豆半島西伊豆・土肥温泉(伊豆­­­市)にある明治館に宿泊。土肥の海岸沿いに建つ温泉旅館です。
総客室数は48部屋(和室)で、全ての部屋から海の景色を楽しめます。(オンザビーチ­­­の宿)。
お風呂は15.5メートルの長い内湯と駿河湾の景色を堪能出来る露天風呂。温泉で心身­­­ともに癒される事間違いなし!
土肥温泉明治館のお料理は土肥の豊かな海に育まれた獲れたての旬の海の幸。
新鮮な地のものの素材へのこだわりはもちろんのこと、素材を活かしきる調理の技術も明­­­治館の料理を支えます。
夕食は、豪華な海の幸や、魚にひけをとらないお肉料理をメイン料理としたお食事。お料­­­理にあう地元伊豆のお酒も注文出来ます。
朝食は品数抱負のバイキング形式で美味です。朝ごはんから、お刺身や焼きたての干物、­­­目の前でつくるオムレツなどが名物。

宿では小さな子供にも嬉しい遊具やおもちゃが用意されています。ゲームコーナーもあり­­­ます。
1回では、何回でも飲めるお茶や珈琲のサービスが。お土産コーナーもあります。
お薦めは、朝夕の海岸散歩です。特に夕方は夕陽が綺麗なので、夕方の散歩は格別です。
ホテル従業員のサービス、質は非常によく満足のいく温泉旅館です。
料理プラン等で料金は上下しますが、食事を基本懐石にすれば、お手頃価格で宿泊出来た­­­りします。

静岡県・伊豆修善寺・虹の郷!ロムニー鉄道!SLカンブリア号

日本で唯一の英国製15インチゲージのSL及びDL
イギリス村ロムニー駅とカナダ村ネルソン駅を結ぶ約2.4km(料金は片道になります­­­ので1kmもしくは1.5km)の路線です。
SLはカンブリア号です

平成28年(2016年)2月12日に静岡・伊豆の修善寺にあるテーマパーク虹の郷を­­再訪。(4年半ぶり4回目)
虹の郷は1990年代初めに開業、日本庭園以外にもイギリス庭園、カナダ庭園とあり、­­­­SLにも乗車出来ます。
花も綺麗に咲いておりますので、心が癒されます。
ちなみに修善寺は、胃潰瘍にかかったかの文豪・夏目漱石が療養のため門下の松根東洋城­­­の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養場所です。
しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態­­­に陥ります。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死­」­を­体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなりました。
この虹の郷には夏目漱石資料館があります。

安宿集結!バックパッカーの聖地!タイ・バンコクのカオサン通り!

旅メディアに旅記事寄稿!今回のお題は、安宿集結!バックパッカーの聖地!タイ・バンコクのカオサン通り!
タイ・バンコクのカオサン通り。ここはバックパッカーの聖地として有名な場所です。ここには多くのバックパッカー向けの安宿、レストラン、お店、マッサ-ジ屋、旅行代理店等があります。ここを拠点にタイの多くの場所を訪れる事が出来ます。今回は、眠らない通りカオサン通りを皆さんにご紹介します。

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たびねず記事

実録ドライブルポ!落ちたら死ぬ!本州屈指の酷道!国道157号線!岐阜県&福井県境!温見峠!

静岡県浜松市から石川県金沢市まで下道を使い、向かった。名­古屋までは国道一号。そ­こから国道19号線を使い岐阜へ。岐阜からは、国道157号線を利用した。岐阜の途中­から­山々が険しくあり、道は細く林道のようであった。ガードレールもなく、気をつけ­ないと­崖下転落になるところだった。途中、狸や鹿に遭遇した。
朝になるとこのような紅葉が広がり、すごく綺麗であった。

国道157号は、石川県金沢市から福井県大野市を経由して岐阜県岐阜市に至る一般国道­である。
北陸経済圏と東海経済圏を最短距離で結ぶ。しかし、福井・岐阜県境の温見峠を越える福­井県大野市下若生子(しもわかご)(真名川ダム)から岐阜県本巣市根尾能郷までの区間­は冬期閉鎖となり、そのうち大野市熊河(くまのこ)から本巣市根尾能郷までの区間は、­乗用車でもすれ違い困難な狭路が続いている所謂「酷道」であり、その機能を発揮してい­るとは言えず実際に岐阜市と金沢市を行き来するのには郡上市や砺波市へ迂回する東海北­陸自動車道などを利用するのがメインである。
福井・岐阜県内の沿線4市1町で整備促進期成同盟会が結成されており、狭路区間でも道­路改良工事が行われていて、徐々に整備されつつある。 石川県内においては金沢市への幹線道路でもあり、金沢市から白山市までは国土交通省直­轄の指定区間となっている。

岐阜県と福井県の県境にある温見峠周辺の区間は、冬季は雪が多く1年の半分近くが通行­止めとなる豪雪地帯で、狭路、落石、崩壊、ガードレールやカーブミラーの未整備など、­道路改良はなかなか進まず整備状態がかなり悪いため、本州屈指の「酷道」とも評されて­いる。
特に、本巣市根尾黒津から根尾能郷までの倉見渓谷沿いは、谷底を覗くと目がくらむほど­の断崖路であり、根尾能郷の冬期閉鎖ゲート近くには「落ちたら死ぬ!!」という看板が­あったり、温見峠から根尾黒津までの間には複数の洗い越しがある。
2004年には、平成16年7月福井豪雨によって広範囲で土砂崩落や路盤流出など大き­な被害を受け、大野市巣原付近では、道路が大きく欠損し、復旧および道路改良工事が行­われている。
岐阜県本巣市内においても、2005年(平成17年)11月19日に発生した岩盤崩落­の復旧工事のために、本巣市根尾能郷から同市根尾黒津の間が長期間にわたって通行止と­なっていた。
この間の迂回路として、本巣市根尾大河原から猫峠林道、根尾越波から折越林道、岐阜県­道255号根尾谷汲大野線および国道418号を経て同市根尾樽見へ至ることができる。­2012年(平成24年)10月末に通行止が解除され、大野市街から本巣市街まで通行­が可能になった。
通行可能な期間でも、落石の恐れがあり、ガードレールなしの狭路が続き洗い越しもある­ため、通行の際は注意が必要である。

鎌倉時代 : 越前府中(福井県越前市)と鎌倉(神奈川県鎌倉市)とを結ぶ最短ルートとして重宝され­た。
戦国時代 : 越前朝倉氏が温見峠から美濃の国へ攻め入り、朝倉氏の滅亡後は織田信長が、越前一向一­揆で温見峠からも越前に攻め入った。
江戸時代 : 結城秀康が関所を設けて、福井藩への敵の侵入を監視した。
1974年(昭和49年)10月:主要地方道大野墨俣線の一部として車道が開通。
1975年(昭和50年)4月:車道が国道157号に昇格。

これがタイの屋台飯!タイ・バンコク・BTSプロンポン駅近くの屋台で130円屋台飯(カオマンガイ)

タイのバンコクは以前に仕事で駐在していた経験があるので、地の理があります。
BTSプロンポン駅近くにある屋台でカオマ­ンカイ(チキンライス)を食しました。カ­オマンガイ=チキンライス。海南島発祥らしいのだが、東­南アジア各地に広まった。場­所はエンポリアムデパート近く、スクンビット通りに面しており、車やバイクの流れを見­ながら­の食事。

親日国パラオ!子供や会社に日本名をつけるかつての日本の委任統治領パラオの人々!なぜ日本名を?世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第2話!

子供や会社に日本名をつけるかつての日本の委任統治領パラオの人々!世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第2話!

【パラオとは?】

パラオは、太平洋に浮かぶ小さな国。かつて日本が国連に依頼され、委任統治しました。日本が統治する前は、ドイツの委任統治領であったのでした。しかし、第一次世界大戦でドイツが敗戦をした結果、日本が国連よりパラオの統治をゆだねられ、30年程日本の委任統治領であったところです。通称パラオは、太平洋上のミクロネシア地域の島々からなる国である。首都はマルキョク。平成18年(2006年)10月7日に旧首都コロールから遷都されした。
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パラオは、16世紀頃より、スペイン人が初めて渡来し、次いでポルトガル人、イギリス人がやってきました。パラオはその後、1885年にスペインの植民地下に入りました。これらのヨーロッパ人により天然痘などが持ち込まれ、また現地人に対する搾取が行われた結果、パラオの人口は90%程度減少したといわれています。1899年に、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却、パラオもこれに含まれ以降ドイツ植民地となりました。

【日本の統治】

1914年に第一次世界大戦開戦後、当時、日英同盟を結んでいた日本は、米英と同じ連合国側として参戦し、連合国は勝利をおさめました。日本軍は、第二次世界大戦とは違い、ドイツ軍と戦ったのですが、日本軍は海軍を派遣してドイツ軍と戦い、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領。第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領になったのです。

日本の統治が始まった後、首都のコロールには南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島における植民地統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住しました。コロールではそれら日本人が住んでいた痕跡が今でも残っており、時折、日本統治時代にパラオに住んでいた方が、パラオを訪れております。

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日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病 院、道路など各種インフラストラクチャーの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させてきました。また、日本統治の開始にともない日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになりました。

太平洋戦争末期に、アメリカ軍がパラオに侵攻してきた際に、南のアンガウル島やペリリュー島は激戦地となりペリリューでは日本人兵士約11000人が玉砕する(アメリカ軍死者は約8000人)程、激戦地となった。アメリカ軍が攻めてくる前に、日本軍はペリリュー島民を戦争の犠牲者にならないように本島へ移住させた。しかし、日本軍と一緒に戦うと島に残ったペリリュー島民も多くおりました。

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※上記写真はペリリュー島にある旧日本軍戦車

【親日国&パラオ共和国初代大統領は日系人】

今でもパラオは親日国であり、1994年独立の際は、尊敬する日本の国旗を真似て、国旗を作りました。初代大統領は日本人の血を引く日系人(現地人との混血)のナカムラ・クニオ氏です。日本はアメリカと並ぶパラオへの最大の援助国であり、それらへの感謝の碑をいたるところで発見します

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【親日国パラオ!自分の子供や会社に日本名をつける!?】

パラオ人は、日本統治時代に日本がした貢献に関して非常に感謝しており、非常に親日。日本、日本人を尊敬しております。そのため、自分の子供や会社、お店に日本名をつける人々が多いのです。
パラオ訪問時にタクシーを利用していると、タクシー運転手の証明書の名前が、YOSHIO(ヨシオ)という名前でした。著者が運転手に、「日本の血が入っているのか?」と尋ねると運転手は「いえ、純粋なパラオ人です。自分の父が日本が大好きで、尊敬する日本人の知り合いに自分の名前をつけてもらった」とのこと。

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他に、マラカル島を歩いていると、YOJIRO(ヨージロー)という自動車修理工場を見つけました。聞き取り調査すると、経営者はパラオ人。尊敬する日本(人)の名前を自分の会社名につけたとのこと。このように、この国では生粋のパラオ人が、日本人の名前を子供や会社につける事をしております。それだけ日本が尊敬、愛されているということです。

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【さいごに】

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いかがでしたでしょうか?日本は世界で非常に好かれた国である事は事実です。世界数多くの国々を渡り歩き、この目でみてきました。世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!シリーズはこれからも続々とアップしていきます。

【文章&写真】

〚略歴〛タイ⑬

国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。

 

上記記事に関しての質問や問い合わせ、取材、記事寄稿依頼、講演依頼等ありましたら

下記までご連絡ください。

大川原 明(オオカワラ アキラ)

E-mail:last-samurai-akira@hotmail.co.jp

携帯電話:090-6078-6677





ポーランド・アウシュヴィッツ強制収容所

ポーランドのオシフィエンチム市にあるアウシュビッツ強制収容所を訪­問。敷地内は広­く、当時のままで残るものが多い。建物内部は、資料館としての役割を果たしており、写­真やユダヤ人処刑者の遺品や髪の毛などが展示されている。
欧州主要言語や日本語ガイド(曜日限定)がおり、それぞれの言語にてガイドに引きつら­れて説明を受ける。
ここまでは、ポーランドの古都のクラクフから電車を利用して訪問。
アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエン­チム市­(ドイツ語名アウシュヴィッツ)に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接する­ブジ­ェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた。周辺には同様の施設が多数建設­さ­れている。ユネスコは二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1­­979年「負の世界遺産」に認定した。一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエ­­ンチム博物館」が管理・公開している。

コウモリのスープも!?パラオで絶対食べるべき名物料理5選

旅メディアに旅記事寄稿!今回のお題は、コウモリのスープも!?パラオで絶対食べるべき名物料理5選

太平洋に浮かぶパラオ共和国。ここはかつて30年程、日本の統治領だった時代があり、パラオ国内いたるところに、日本の名残があります。また、パラオの海は非常に綺麗で、ダイビングやシュノーケリング等のマリンスポーツを楽しめる事間違いなしです。
そんなパラオの食事はどんなものがあるのか気になる方もいると思います。今回は、コウモリ料理をはじめとしたパラオの名物料理を皆さんにご紹介いたします!

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