国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

05月

【日本の古民家や日本庭園も】イギリス・ロンドン・キューガーデン(王立植物園)

キューガーデンはイギリスの首都ロンドン南西部のキューにある王立植物園。
キュー植物園などとも呼ばれる。
1759年に宮殿併設の庭園として始まり、今では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を有している。2003年にユネスコ世界遺産に登録。

キュー・ガーデンズの歴史はテュークスベリーのケープル卿が熱帯植物を集めた庭を作ったことに始まる。その後この庭はジョージ2世の長男フレデリック皇太子の未亡人であるオーガスタ妃によって拡張され、ウィリアム・チェンバーズの設計による建築物が何棟か建てられた。そのうちの1つである1761年建造の中国のパゴダは今日も残されている。

ジョージ3世はウィリアム・エイトンやサー・ジョゼフ・バンクスに命じてさらに庭園の植物を豊かなものにさせた。旧キュー・パークは1802年に廃止され、1781年にジョージ3世は隣接するダッチ・ハウスを買い上げて、王室の子供達を育てる施設とした。この建物は現在キュー宮殿として残されている。

1840年に庭園は国立の植物園と改組された。ウィリアム・ジャクソン・フッカーの指揮のもとで植物園は30ヘクタールにまで拡張され、さらに後の改修で現在の120ヘクタールの敷地が完成した。

平成30年(2018年)3月・沖縄視察(沖縄戦の激戦地・慰霊地調査 ・米軍基地調査 ・辺野古への基地移設問題調査 ・沖縄の政治状況調査 ・沖縄の経済状況調査等)

沖縄視察

3月の天皇皇后両陛下が沖縄へ行幸啓される前に沖縄を17年ぶりに訪問し3週間程視察。

調査内容は下記

・沖縄の文化や食、自然 ・沖縄の観光状況(観光地、世界遺産など)

・沖縄の外国人観光客(インバウンド)調査 ・沖縄戦の激戦地・慰霊地調査

・米軍基地調査 ・辺野古への基地移設問題調査 ・沖縄の政治状況調査 ・沖縄の経済状況調査 等

 

1.沖縄の激戦地・慰霊地調査

  • 旧海軍司令本部壕(那覇市と豊見城境)

沖縄県豊見城市と那覇市の市境に位置する海軍司令部壕。
日本で唯一の陸上戦である沖縄戦で大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕。

昭和19年、先の大戦において、絶対国防圏を守る上での最重要拠点であるサイパンやグアムなどのマリアナ諸島やパラオ戦線やフィリピン戦線での敗北でそれらを失い、敗色が強まってきました。戦線が南西諸島付近まで後退したため最前線となった沖縄の軍備が強化されることになりましたが、沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(現在の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになりました。

 

昭和19年8月10日に着工されましたが、実際には十・十空襲以降に始められ、同年12月に完成しました。壕はかなり深さがあり、枝分かれした全長約450mの坑道といくつかの部屋からなり、砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されています。部屋は作戦室、幕僚室、司令官室、暗号室、医療室、下士官室、兵員室、発電室があり広大な壕です。

 

昭和20年1月20日から大田実海軍中将が沖縄方面根拠地隊司令官として赴任し現地の指揮を執ることになりました。アメリカ軍による本格的な攻撃は3月23日頃から始まりましたが、3月31日には那覇市の北西沖約10キロメートルに浮かぶ神山島に上陸し、4月に入ると島に設置された砲台や海上艦船からの攻撃も始まりました。6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲。6月11日朝、司令部壕に米軍の集中攻撃が加えられ、同日夜には司令部壕からの最後の報告として海軍根拠地隊が玉砕したとの電報が発せられました。
6月13日に大田司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結し、戦線は南部に。司令官室には壁面に大田司令官の愛唱歌「大君の御はたのもとに・・・」の墨書が残されています。

 

戦後の調査で壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集された、昭和33年には更に1500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立されました。

 

  • 南風原町・沖縄陸軍病院南風原壕20号群

旧日本陸軍が造った病院壕

南風原町には黄金森(こがねもり)とよばれる小高い森があります。日本軍は沖縄戦に備え、黄金森に沖縄陸軍病院壕群を構築しました。院長以下、軍医・看護婦・衛生兵・ひめゆり学徒らがここで傷病兵の治療に当たりました。

 

昭和20年年4月1日に米軍が上陸してからは負傷兵が次々と南風原病院に運び込まれるようになりました。麻酔はすぐに底をつき手術は麻酔無しで行われました。
負傷した兵士は手足を切断する必要のある兵士も多く、麻酔無しの手術のために激痛が走り、手術の間、患者が暴れないよう押さえることや切断した手足や死体の処分等も
ひめゆり学徒の仕事でした。昭和20年5月25日に南部撤退命令が出て南部に移動。

 

ここには実際に使われていた当時のままの壕のうち20壕が有料で見学できます。縦横180センチほどの小さな通路で70メートル程の長さがあります。壕内は湿っており、電球がないので安全のためにヘルメットを着用し、懐中電灯を借りて案内人の方の説明を聞きながら進む感じになります。

  • ひめゆりの塔(糸満市

糸満にある「ひめゆりの塔」を再訪。
沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。

慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいます。

「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」でしたが、戦後ひらがなで記載されるようになりました。

昭和20年3月24日に沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍。5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜みました。戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられました。
既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味しました。

職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名であるが、このうち解散命令以後に死亡したのは117名で全体の86%にものぼり、さらに判明しているだけでも全体の35%にあたる47名が第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっています。

 

  • 対馬丸記念館(那覇市)

対馬丸事件

那覇市内にある対馬丸記念館
沖縄線で忘れてはならないのは、沖縄からの学童疎開に使用された輸送船・対馬丸。アメリカの潜水艦による魚雷攻撃で沈没。1482名の死者を出しました。

対馬丸は1912年(明治45年・大正元年)から整備を開始したT型貨物船のうち、欧州航路向けの第1期船6隻のうちの一隻として、イギリスのグラスゴーのラッセル造船所で高田丸とともに建造される。船価は9万4500ポンド。

竣工後は第一次世界大戦真っ只中の欧州航路などを就航して、当時は日英同盟で連合国側についていた日本。連合国向けの軍需品や食糧輸送で活躍し、特に対馬丸は1916年(大正5年)6月21日、再開されたパナマ運河を経由する貨物船として、横浜~東回りニューヨーク航路第1便として横浜を出航しました。
開戦直前の1941年(昭和16年)9月21日に陸軍に徴傭され、南方作戦に投入されました。後に、船舶運営会使用船となりました。

サイパン島玉砕後にアメリカはB29爆撃機による本土空襲が可能になりました。
これを危惧して日本政府は
「本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせよ」との命令を通達しました。
一方で、沖縄本島などへ展開させる兵員や軍需物資の輸送も同時に行う事となり、一部を除いて往路は軍事輸送、復路は疎開輸送に任じる事となりました。

1944年(昭和19年)8月20日に対馬丸と暁空丸、和浦丸で構成されたナモ103船団は台風接近による激しい風雨の中、蓮と宇治の護衛により長崎へ向けて那覇を出港しました。

翌々日の8月22日に西沢武雄船長と陸軍少尉の輸送指揮官との間で激論が交わされました。米潜水艦による魚雷攻撃によりいくつもの船が沈んでいる事を知っている西沢船長はこの航路の危険を熟知していたので、ジクザグコースを取る事を主張。しかし輸送指揮官は、船団から離れる危険や、到着の遅延への懸念の方を重く見て直線での航行を主張し、結局「軍の命令」ということで直線コースをりました。それが命取りに。

対馬丸を撃沈させたのは
アメリカの潜水艦ボーフィン。8月22日夜に攻撃を開始。6発の魚雷を発射し、2本の魚雷が命中。命中した11分後に対馬丸は大爆発を起こして沈没。
対馬丸の乗船者1788名のうち1482名が犠牲に。生き残った人々はイカダでトカラ列島や奄美諸島に漂着もしくは漁船等に助けられました。

平成26年(2014年)6月に慰霊のために天皇皇后両陛下が行幸啓。
慰霊碑「小桜の塔」や対馬丸記念館を訪れ、事件の生存者や遺族らと対話をしました。

 

  • 平和祈念公園(糸満市)

 
公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地&終焉地。
昭和20年5月、アメリカ軍の攻撃により、首里にあった日本軍司令部は、沖縄本島南部に移動。

日本軍による組織的抵抗は、6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了したがアメリカ軍は翌7月初めまで掃討戦を続けました。

平成祈念公園内には各県の慰霊碑一覧があります。

喜屋武岬などと同じくこの摩文仁の丘からも沢山の人間が追い詰められて飛び降りて亡くなりました。

  • 米軍基地調査(嘉手納基地、辺野古への基地移設問題、

    高江ヘリパッド等)

 

  • 嘉手納基地

米空軍の基地(在日米軍&極東最大の空軍基地)

昭和19年9月:大日本帝国陸軍航空隊の中飛行場として開設。

昭和20年4月:沖縄本島に上陸した米軍(アメリカ海兵隊)に占領される。整備拡張が行われ、同年6月には全長2,250mの滑走路が完成、嘉手納飛行場として使用開始。同年にキャンプ・サンソネ、陸軍住宅地域が設置されました。
基地の総面積は、約19.95km2。3,700mの滑走路2本を有し、200機近くの軍用機が常駐する極東最大の空軍基地である。滑走路においては成田国際空港(4,000mと2,500mの2本)や関西国際空港(3,500mと4,000mの2本)と遜色なく、日本最大級の飛行場の一つということになっている。

米軍の所在部隊は
・第18航空団 ・第353特殊戦航空群 ・第733航空輸送隊 ・第82偵察隊 ・第390情報隊

 

  • 高江ヘリパッド問題(東村)

アメリカ海兵隊の基地である北部訓練場(ジャングル戦闘訓練センター)です。の過半の返還の条件となる6ヶ所のヘリパッド移設工事に、東村高江の区民総会が反対決議を採択したことに端を発する一連の問題。

左派はノグチゲラやヤンバルクイナが生息する北部の自然を壊してほしくないという名目での抗議
ゲート付近の南側にテントがあり、共産党の看板や社民や沖縄の大衆党の面々、本土から左派の人々が押し寄せている。基地内には警察や警備関係者が警戒態勢をとっています。
テント内や周辺には左派の垂れ幕や看板が
・9条の会&彩の会の垂れ幕       ・日本共産党の看板

 

  • 辺野古移設問題(キャンプシュワブ前テント)

普天間基地移設の移転先となるであろう名護市の辺野古を訪問。在日米海兵隊の基地で第3海兵師団戦闘強襲大隊、 同第4海兵連隊、歩兵大隊などが駐留。

キャンプシュワブ周辺は「辺野古社交街」として、1960年代までは米兵で賑わう英語表記のスナックやバーで賑わう歓楽街でした。今ではそういったバーやスナックが普通の飲食店になっていたりしますが当時の面影を少し感じ取ることが出来ます。

辺野古移設反対の人々がテントを建てて米軍に対して抗議を展開。
テントにいた人々の人数は100人程で多くが60代~70代でしたが20代~40代の人々も少なからずいました。沖縄の人々と本土からの移住もしくは遠征組と混じっていました。
目視や話しをしてみていわゆるプロ市民(共産社会主義革命=全共闘世代や全学連など)もいれば、平和を願いそれら人々に洗脳されている人々も多くいます。

ゴールデンウイーク第二週!直前予約で間に合うか?秘訣!年末年始やお盆などの混雑期の国内外の旅行予約に関して

ゴールデンウイーク第二週!直前予約で間に合うか?秘訣!年末年始やお盆などの混雑期の国内外の旅行予約に関して

GWの旅行に関して
●国内

所謂、訪日外国人旅行者
が多くないところではホテルや旅館などの宿泊施設の空きがあります。(全国各地)

訪日外国人の多い京都(訪日外国人が多い他都市も)に関しては
宿の空き状況はかなり厳しいですが、空いているところも
いくつかあります。
(解決策)
解決策としては
・電話で言及のあった近隣府県の宿に宿泊
・連泊だと空いてなくても、1泊毎なら空いている事もあるので
 宿を移るのが可能なら、空いている日付毎に予約していく
・予約サイトに宿(ホテル、旅館など)が部屋を卸していない事もあるので
 宿のホームページ(サイト)を直接確認(ホームページから空き状況を調べたり、電話で確認など)

●海外
方面により4月上旬くらいまでの予約でGWの航空券が安くとれた方は結構いる(聞き取り調査済み)
これからの予約だと、空き状況が厳しいのが実情ですが
何処かしら必ず空いています。

なるべく安く抑えたい場合の秘訣としては
・目的地に運行している全ての航空会社(直行便や経由便、LCCなど)の空きと料金を調べる(1日に同じ航空会社が数便とばしている事も。=料金は異なる)
自分で調べるのが面倒くさければ、旅行会社に問い合わせすると手っ取り早い)
・候補地は複数用意しておく
・往路日や復路日をずらすと空いている事も(旅行日数を減らしたり、増やしたり)
・国内の出発空港を最寄りだけではなく、国内他の空港出発も考慮(目的地への便が他空港で空きがあったり、
安かったりする場合(国内移動費も考慮し)東京在住者が中部国際空港や関空から出発したり)
・目的地に空きがない場合でも同じ国で別都市での空きがあったり、隣国で隣国館をバスなどで移動可能な事も
目的地まで 日本の空港→空路で別の国某都市⇒目的地まで陸路もしくは海路。(帰りは空き状況に応じて予約)

【伊豆釣り】静岡県西伊豆戸田漁港(旧戸田村)で係留船釣り!たか丸!巨大魚?5分以上のバトル

半年ぶりに伊豆へ釣行。
西伊豆
静岡県伊豆半島旧戸田村(現沼津市)

係留船たか丸
6時~16時くらいまで利用可能
たか丸企画
(料金)
1人2500円

釣行日:平成30年(2018年)5月1日

戸田の湾内では数多くの種類の魚が釣れます。
釣れる主なものは
真鯛、黒鯛、スズキ、ブリ(イナダ、ワラサ)、アジ、サバ、アマダイ、イトヨリ、カサゴ、アイナメ、ソーダガツオ、カワハギ、カンパチ、アナゴ、ヒラメなどです。

【ベトナム屋台飯】ベトナム・ホーチミン・ベトナム名物バインミー&ベトナムコーヒー!

ベトナムの名物となっているバインミー!
ベトナムはかつてフランスの植民地でしたが、その時に、フランスパンがベトナムに伝わりました。
バインミーはフランスパンにバター、パテを塗り、野菜をいれ魚醤で味付けするフランスパンを使用したベトナム風サンドイッチです。路上屋台で売られています。

もう1つ名物となっているのが
ベトナムコーヒー。
普通のコーヒーに比べて濃いコーヒーで
練乳を入れて甘くします。

イギリス・ロンドンの地下鉄!ベーカーストリート駅!移民が多いイギリス!

イギリスのロンドンの地下鉄。日本と同じように出勤時間や帰宅時間になると混雑します。
日本とは違い、遅れやストライキは当たり前なのが外国です。
現地出発日は余裕をもって空港に向かう事をお勧めします。

旧ユーゴスラビア・モンテネグロの首都のポドゴリツァ・モンテネグロ(セルビア)料理レストラン・NINO JAKOVIC

2006年にセルビアから分離独立したモンテネグロの首都のポドゴリツァの鉄道駅&バスターミナル近くにあるモンテネグロ(セルビア)料理のレストランNINO JAKOVIC。
従業員の対応も良く、おいしい料理を堪能出来ました。
ポドゴリツァ訪問するのであればお薦めのレストランです。

ギリシャ・第二の都市テッサロニキ市の港・市街地を望む!

ギリシャの首都のテッサロニキ。
首都アテネに次ぐ2番目に大きな都市で、中央マケドニアの首府であり マケドニア・トラキア行政管区の首府でもある。テッサロニキには 、共同の首都)と言う称号があり、東ローマ帝国時代にはコンスタンティノープルと並びビザンティンに君臨した都市であった。
人口は32万、都市圏の人口も合わせると80万人程。
バルカン半島ではイスタンブール、アテネ、ブカレスト、ソフィア、ベオグラードに次ぎ6番目の人口を誇る。

【ニニ六ならぬニニ八事件?】台湾・台北・二二八和平公園

228事件。228と聞いて、226事件を思い浮かべる方がいると思います。226事件は、昭和11年2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こしたクーデター未遂事件です。

それでは228事件とは!?
228和平公園は台北駅の近くにある公園です。日本統治時代の1899年に台湾初の洋風公園として造られた台北公園です。1947年2月28日に起きた228事件を記念し、1996年、当時の台北市長であった陳水扁前総統により現在の名前に変更されました。

公園内には228記念碑や池があり、人々の憩いの場になっています。ベンチもあるので休憩がてら訪れてみるとよいでしょう。

台湾における228事件。
日本が大東亜戦争で連合国軍に降伏し、敗戦した結果、日本は台湾から撤収しました。その後、蒋介石率いる中国国民党政府が台湾を接収。蒋介石政権は台湾の日本資産を搾取し、膨大な財産を手に入れました。
そして、本省人である台湾人を国語(北京語)もろくに出来ない、2等国民として扱ったのです。こうした大陸の人間(外省人)の台湾人軽視、搾取に対しての民衆蜂起が1947年2月28日におこったのです。日本統治が終わって2年4か月後の事です。

228事件が起こった事の発端は、台北市の闇たばこ業者である婦人を煙草専売局の闇煙草摘発隊が殴ったのがきっかけです。中国国民党の政策に反対していた台湾の人々がこれに怒り、デモ隊を引き連れ、専売局に押しかけました。その後、国民党の行政長官公署に向かったところ、機関銃を乱射されて、多数の死者を出しました。

これに憤慨した台湾人がこの公園にある放送局を占拠し、台湾全土に蜂起を呼びかけました。高雄や台南などで行政の奪還、外省人商店襲撃などが置き、台湾全土に運動は広がりました。

本省人側は国民政府に占拠されている諸施設へ大規模な抗議行動を展開。日本語や台湾語で話しかけ、答えられない者を外省人と認めると暴行するなどの反抗手段を行いました。

台湾住民の中には日本語が話せない部族もいましたが、日本統治時代に「君が代」は国歌として全ての台湾人が歌えたため、本省人たちは全台湾人共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進しました。また、本省人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と呼びかけたのです。

台湾国内にいる軍隊だけでは収拾がつかず、大陸本土よりの増援部隊を要請。その後、28000人近い台湾人が虐殺されました。(この中に日本人が多数含まれているようです。)
この鎮圧は、日本統治時代に日本によるエリート教育をうけてきた知識層を根絶する目的もあったようです。

日本の統治からはずれ、蒋介石率いる中国国民党による支配は、台湾の人々に日本統治時代のほうがよかったと思わせる結果になりました。

中国共産党との内戦に敗れた国民党が1949年12月に大陸から遷都という形で台湾に逃れました。その後、台湾全土に戒厳令をしき、自由を無視した恐怖政治を強めたのです。

日本統治時代不は正は少なく、帝国大学も創設された台湾の経済は日本内地の地方都市を超えて東京と同じ水準でした。日本の統治を体験した台湾人にとって、国民党に変わって以降、治安の悪化や役人の著しい腐敗、軍人・兵士などの狼藉、さらに経済の混乱は到底受け入れがたいものであり、人々の不満は高まっていました。

台湾人は日本統治下の法治政治に慣れ、それを当然のものと考えていた為、警官や軍隊が群衆を無差別に虐殺する事態を想定してはいなかったのも被害者を増やした一因であります。