国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

2025年

【タイ北部の山あいの小さな町『パーイ』郊外のにある中国国民党の残党勢力(KMT)のサンティチョン村】

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前回10年前にも訪問したパーイの中国国民党の残党勢力(KMT)の村。パーイの中心街から4キロ程の距離にあります。
中には飲食店や商店があります。

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戦後、中国共産党と中国国民党は争い、中国共産党が勝利し大陸での実権を握りました。
その結果、蒋介石率いる部隊は台湾に逃れ、南西部にいた部隊はビルマ(現ミャンマー)に逃れました。

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その後、中国共産党とつながりを深めたビルマ政府軍に追いやられ、中国国民党の残党勢力はタイ北部に逃れれきました。
彼らは武装したまま居座り集落を形成。麻薬売買などで生計をたてていました。KMTは武装訓練もおこなっていました。

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1987年、タイ政府との交渉でKMTは武装解除、
武装解除の見返りとしてタイ政府からタイ国籍を与えられました。
村を離れる華人、以前ほど観光客が来なくなったのもあり、閉店している店が多かったですが、村の中心部から坂道を登ったところに華人達が家を建てて居住しています。
※NikonのフラッグシップミラーレスカメラZ9で撮影
使用レンズはF2.8 24-70㎜のレンズ

【タイ北部の小さな町『パーイ』にある日本軍敷設橋】

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タイ北部の山合いの小さな町にあるパーイ。タイは先の大戦下、日本と同じ枢軸国側の同盟国でした。

日本軍はタイ政府から土地の租借、軍隊を駐留を認められていました。大東亜戦争開戦前にビルマ攻略を容易にするため、日本軍はビルマとの国境付近の川に多くの橋を敷設。

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そのうちの1つがこのパーイ川にかかる橋です。

戦争末期に連合国がタイ側に進軍してくることを想定して

日本軍はこの橋を破壊しました。

橋は現地人にとっても貴重なものでしたが、

橋がなくなり川を小船で渡らなければならなくなりました。

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多くの現地人が橋の再建を望み

戦後、他から橋を移築する形で再建されました。

1970年代に大きな洪水に見舞われて橋が崩壊。

その後、再び再建され現在に至ります。

※NikonのフラッグシップミラーレスカメラZ9で撮影

使用レンズはF2.8 24-70㎜のレンズ

タイ・バンコクのアソーク駅近く!ターミナル21のフードコート(Pier21)でタイ料理

タイのバンコク
アソーク駅近くに2012年に完成したターミナル21。
上の階にフードコートがありますが
前々から利用しています。綺麗なフードコートで安くて美味しい。
大人気のフードコートなのでお昼時はかなり混んでます。

【タイ・チェンマイの寺院『ワット・ムンサーン』日本軍野戦病院跡-日本兵慰霊碑】

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チェンマイの旧市街を出て南に10分程すすんだところにある寺院『ワット・ムンサーン』。ここは先の大戦下に日本軍の野戦病院が置かれていた寺です。寺院内には日本兵慰霊碑と資料館があります。

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資料館は施錠されていますが、鍵を持っている高僧がいる平日、内部見学出来ます。資料館見学希望の方は寺の関係者に資料館見学をしたいと伝えてください。

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※NikonのフラッグシップミラーレスカメラZ9 で撮影
使用レンズはF2.8 24-70㎜のレンズ

【タイ・チェンマイ郊外にある『メー・サー滝』】

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チェンマイ郊外でお薦めの場所の1つが『メー・サー滝』です。

エレファントキャンプのそばにあるので併せて訪れるとよいでしょう。

色々な滝がありますが全て高低差がなく小さな滝です。展望所1-10までありますが、ゆっくり周った場合1時間~1時間半かかります。滝では子供たちや若者たちが水遊びをしています。

※NikonのフラッグシップミラーレスカメラZ9 で撮影

使用レンズはF2.8 24-70㎜のレンズ

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露出時間は1秒‐2秒に設定してスロー撮影

滝が流れるような感じの写真

【タイ・ラムプーン県の藤田氏‐日本兵慰霊塔『噫-忠烈戦歿勇士の慰霊塔』】

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人生4回目のチェンマイは合計で6泊しました。

1日はチェンマイ周辺のラムプーン県やプレー県にある日本兵慰霊碑を慰霊のためにホンダの160CCのスクーターで巡りました。

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まずはチェンマイから60キロ南下してラムプーンの日本兵慰霊塔に。慰霊を終えた後、そこから177キロ東(所要時間2時間40分程)、プレー県の日本兵慰霊碑に。

帰りはプレー県からチェンマイまで200キロほど運転。1日の総距離は440キロほどでしたが頑張って運転しました。

ラムプーン県の慰霊碑は『噫-忠烈戦歿勇士の慰霊塔』

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慰霊塔は旧日本陸軍第18師団-第55連隊(菊兵団)に配属され、戦後も日本に帰還することなく、この地で生涯を終えられた藤田松吉氏(平成21年(2009年1月25日逝去/享年90歳)により建立されました。

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戦後、藤田氏は北タイに留まり、チェンマイ県とメーホーンソーン県にて日本将兵の遺骨収集に尽力し、約800柱に及ぶ御遺骨を慰霊塔内に収めています。

その後、御遺骨は厚生省に引き渡され、千鳥ヶ淵戦没者苑に安置されています。現在の慰霊塔には藤田氏の御遺骨が収められています。キリスト教徒であった藤田氏は毎年のクリスマスの日を戦没者供養の日とし、他界するまでともらいを続けられ、今日では日本とタイの有志でクリスマスの慰霊は引き継がれています。

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‐藤田松吉氏-

出身地-長崎市上野町(現-岡町)出身

タイ名-クーカム・スックジューム

クーカムおじさんと現地のタイ人に親しまれていたようです。

生年月日-大正9年(1918年)12月2日生まれ

逝去日-平成21年(2009年)1月25日 90歳 ラムプーン県の病院で肺炎にて逝去

昭和14年(1939年)第18師団(菊兵団)55連隊第三大隊-第二中隊‐小銃隊に入隊。

中国広東省からタイ、マレーシアを経てシンガポールと転戦。

昭和17年(1942年)2月15日、シンガポール占領を果たし4月にビルマ戦線へと向かった。北ビルマの『死の大峡谷』フーコン戦に従軍し砲弾により、右足大腿部盲貫通の重傷を負う。

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原隊は壊滅状態で散り散りばらばら敗走し、終戦を迎えました。戦後は野宿を繰り返し、現地のビルマの人々の援助を受け、

半年後にタイ国内に移り道路工事などに従事。タイ国籍も取得しました。

昭和40年(1965年)日本の大手ゼネコン前田建設工業㈱が日本業者として初めての世界銀行借款海外工事(ODA援助)としてチェンマイ~ラムプーン間のハイウェー(現国道11号線)工事を受注し、藤田氏は工事の現場監督として尽力しました。

さらにはウボンラチャタニー県のダム工事(ラムドンノイ)にも参加。昭和52年(1977年)厚生省が遺骨収集団を初めてタイに派遣した時、藤田氏は案内役として協力。

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また、自身の戦友の亡骸を自らの手で集め、自宅敷地内に自費で『噫-忠烈戦歿勇士の慰霊塔』の慰霊塔を建立しました。

※NikonのフラッグシップミラーレスカメラZ9 で撮影

使用レンズはF2.8 24-70㎜のレンズ

治安注意?【海外の地下鉄】イタリア・ローマの地下鉄-落書き?ミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリ、ボローニャ、カプリ島、バーリなどを周遊したが・Metro in Italy


10年ぶり4回目のイタリアのローマ。
毎回、地下鉄を利用していますが
今回はローマ市の郊外のホテルに宿泊。
ホテル最寄り駅から中心部へ地下鉄を利用しました。

【タイ・チェンマイの寺院『ワット・ウモーン』】

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ラーンナー王朝の創始者『マンラーイ王』が14世紀末に建立、緑深い山の中に本堂を構える寺。市街地から離れた場所にあり、瞑想修業が出来る寺です。

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ウモーンはタイ語でトンネル(日本語で隧道)。山の中にトンネルを掘ってその中に仏像を安置しています。独特の神秘的な雰囲気が漂っています。

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※NikonのフラッグシップミラーレスカメラZ9で撮影

使用レンズはF2.8 24-70㎜のレンズ