国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

海外日本関連物発見

フィンランド・ヘルシンキ・映画かもめ食堂の撮影ロケ使用レストラン(フィンランド料理)カハビラスオミ!

フィンランドのヘルシンキを訪問の際に、片桐はいり、小林聡美主演の­日本映画「かも­め食堂」の撮影地となったレストランを訪問した。実際、営業しているレ­ストランであ­る。

しかし、日本食ではなく実際は、フィンランド料理を提供するカフェレ­ストラン。名前­はカハヴィラ・スオミ(Kahvila Suomi)。日本人観光客だけでなく、地元フィンランド人達にも大人気のレストラン­­で、混雑している。ランチは安く7.7ユーロ~12.9ユーロでメイン+サラダやパ­ン­、食後のコーヒーかミルクがつく。昼食時は安いので、昼食時に訪問。日本人に配慮­し、­日本語メニューもある。

『かもめ食堂』(かもめしょくどう)は、2006年3月公開の日本映画。

小林聡美、片桐はいり、もたいまさこのトリプル主演。監督は『バーバー吉野』や『恋は­­五・七・五!』の荻上直子。原作は群ようこ。 個性的な面々がフィンランドのヘルシンキを舞台に、のんびりゆったりとした交流を繰り­­広げていく。

第28回ヨコハマ映画祭(2007年)で第5位。

東南アジア、南アジアで流通するリキシャ!日本由来の○○車が由来?世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第4話!

東南アジア、南アジアで流通するリキシャ!日本由来の○○車が由来?世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第3話!

日本の人力車を基にしたリキシャ(力車)。

【人力車とは?】

最近の若い方の中には、人力車を知らない方がいらっしゃるかもしれません。人力車とは、読んで字のごとく人を輸送するための人力による車です。横に並べた2つの輪を持つ車に乗客を乗せ、俥夫がひくものです。日本では、主に明治から大正・昭和初期に移動手段として用いられました。英語にRickshaw(リクショー)という単語がありますが、これは「リキシャ」を語源とする日本語由来の英単語です。

明治時代初めに日本で開発された人力車。人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、馬よりも人間の労働費のほうがはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段になりました。

しかし、人力車は自動車の普及により、今では人力車は一部の観光地でしかみかけなくなりました。

(※下記写真は、東京の浅草で撮影)

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【日本の人力車が海外に普及】

明治時代に日本の人力車は、アジア各国(支那(中国)インド、東南アジア)、へ輸出されました。特にインドでは、明治40年代、年間1万台が日本から輸出され、人力車の人をとったリキシャ(呼びやすい)などの名前で国民に知られるようになりました。その後、自転車を取り付けたサイクルリクシャー、モーターをつけたオートリクシャーが製造されました。

インドでは1919年、コルカタ市が正式な交通手段として認定。
1972年以降、コルカタではいくつかの通りで人力車が禁止。
1982年、市当局は1万2000台以上の人力車を押収し、廃棄。
1992年の調査では、3万台以上の人力車が営業中で、そのうち6000台が違法車両や未許可車両。
新しい許可は1945年以降出されていない。

インドでは、しばしばリキシャはリクシャとも発音される。料金は1回の移動につき2、3ドル。
2005年8月に西ベンガル共産政府は完全に人力車を締め出す計画を発表したが、リクシャワーラーの抗議とストライキに終始しました。
2009年現在、かなりの数の人力車がコルカタにまだ残っており、約8000台、2万人の車夫がいるとされる。リクシャワーラーの組合は、人力車の禁止に強く反対しています。

 

※下記写真は、マレーシアのペナン島で撮影※

リキシャのマレー人の運転手と一緒に記念撮影。リキシャは日本の人力車が由来となっている言及していました。
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下記写真はバングラデシュの首都のダッカ訪問時に利用したリキシャ。自転車が前についており、運転手が足で漕ぎます。そのため人力車よりも速度は速いです。ダッカでは、下記のリキシャで5日間行動しました。乗り心地はよく、装飾も派手にされてり、まるで貴族になった気分になれます。

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他にオートリキシャ(リクシャ)と呼ばれる三輪車がインドやスリランカなどの南インド、タイなどの東南アジアで普及しています。タイではオートリキシャ(三輪車)をトゥクトゥクと呼んでいます。観光客にも馴染みが深い乗り物でです。モーターがついており、サイクルリキシャよりもさらに速度が速く遠出も出来ます。かつては、日本でもオートリキシャ(三輪車)は日本でも走っていたのですが、四輪自動車普及により、今ではみかけなくなりました。

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日本の文化が世界に広まっているのです。世界各地を渡り歩き知った真実です。日本にも外国からの文化が多く入ってきていますが、他方において、日本の文化や日本関連物が世界に出て、浸透しているのです。

【文章&写真】

〚略歴〛タイ⑬

国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。

 

上記記事に関しての質問や問い合わせ、取材、記事寄稿依頼、講演依頼等ありましたら

下記までご連絡ください。

大川原 明(オオカワラ アキラ)

E-mail:last-samurai-akira@hotmail.co.jp

携帯電話:090-6078-6677





マルタ共和国・日本海軍戦没者慰霊碑(墓地)イギリス軍墓地内・昭和天皇が皇太子時代に行幸の地

日本海軍・第二特務艦隊戦死者之墓。(日本人墓地・慰霊碑)
前述いたしましたが、第一次世界大戦中に、日本とイギリスは日英同盟を結んでおりまし­­た。
第一次世界大戦時に、日本はイギリスの要請を受け、地中海に艦隊を派遣。
ドイツやオーストリアの潜水艦の攻撃をうけたのですが、駆逐艦榊の乗務員計78名が死­­傷いたしました。
マルタは、かつてイギリス領でしたが、カルカーラに英国海軍の墓地があり、その中に、­­日本海軍戦死者の墓があります。
墓地の奥にあるのであすが、慰霊・合掌させていただきました。

タイ北部クンユアム!タイ日友好記念館!第二次世界大戦関連地訪問!現地ルポ!世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第3話!

タイ北部の小さな町、ビルマとの国境地帯に近い­­場所にあるクンユアムを訪問。そこ­にあるタイ日友好記念館。

クンユアムは、メーホーンソーンの南約65キロの場所にあります。かつては、日本軍が­­­駐留し、日本兵が野営を張ったり、現地のお宅にお世話になるなど、日本兵と現地タ­イ­人­の深い交流が結ばれた町です。
インパール作戦の失敗後、多くの日本兵がビルマ戦線で亡くなられましたが、戦争末期か­­­ら終戦後、多くの日本兵がビルマ国境を通り、同盟国であったタイ国内に敗残兵とし­て­入­ってきました。終戦後、枢軸国の一員で英米に宣戦布告していたタイも英米に従­わざ­るを­得なくなりました。
そんな中、ビルマからタイへ多くの日本兵が移動してくる中、コレラや飢え、傷病で亡く­­­なる日本兵は大多数おりました。
かつて隊をおいていたクンユアムを目指し、敗残兵と化した日本兵。クンユアムにつき、­­­クンユアムの人々の手厚いもてなしをうけました。治療、看病、食事や衣服提供等。
これは、それだけ日本兵の方々が現地タイ人に信頼されていたのもあります。慈悲深い精­­­神をもった人々が多いタイですが、死にそうになり困っている日本兵を見ていられな­か­っ­たのでしょう。
多くの日本兵がクンユアムでお世話になり、日本へ無事に帰国する事ができました。それ­­­ら、日本兵は、水筒やヘルメット、毛布等を世話になった家庭それぞれに残していき­ま­し­た。
そしてそれら家族はそれらを大切に保管しておりました。
それから50年程たった1995年にクンユアムの警察署長として赴任したタイ人が、か­­­つての日本兵とタイ人との交流に興味を持ち、私費を投じて、それらを集めて199­6­年­に博物館をつくりました。そして8年前にクンユアム市に管理が委託され今にい­たっ­てお­ります。
中には多くの展示物や写真があります。
クンユアムでお世話になった日本兵の中には現地タイ人と結婚し、それらの孫や曾孫が現­­­在、日泰の混血としているようです。

親日国パラオ!子供や会社に日本名をつけるかつての日本の委任統治領パラオの人々!なぜ日本名を?世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第2話!

子供や会社に日本名をつけるかつての日本の委任統治領パラオの人々!世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第2話!

【パラオとは?】

パラオは、太平洋に浮かぶ小さな国。かつて日本が国連に依頼され、委任統治しました。日本が統治する前は、ドイツの委任統治領であったのでした。しかし、第一次世界大戦でドイツが敗戦をした結果、日本が国連よりパラオの統治をゆだねられ、30年程日本の委任統治領であったところです。通称パラオは、太平洋上のミクロネシア地域の島々からなる国である。首都はマルキョク。平成18年(2006年)10月7日に旧首都コロールから遷都されした。
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パラオは、16世紀頃より、スペイン人が初めて渡来し、次いでポルトガル人、イギリス人がやってきました。パラオはその後、1885年にスペインの植民地下に入りました。これらのヨーロッパ人により天然痘などが持ち込まれ、また現地人に対する搾取が行われた結果、パラオの人口は90%程度減少したといわれています。1899年に、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却、パラオもこれに含まれ以降ドイツ植民地となりました。

【日本の統治】

1914年に第一次世界大戦開戦後、当時、日英同盟を結んでいた日本は、米英と同じ連合国側として参戦し、連合国は勝利をおさめました。日本軍は、第二次世界大戦とは違い、ドイツ軍と戦ったのですが、日本軍は海軍を派遣してドイツ軍と戦い、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領。第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領になったのです。

日本の統治が始まった後、首都のコロールには南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島における植民地統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住しました。コロールではそれら日本人が住んでいた痕跡が今でも残っており、時折、日本統治時代にパラオに住んでいた方が、パラオを訪れております。

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日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病 院、道路など各種インフラストラクチャーの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させてきました。また、日本統治の開始にともない日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになりました。

太平洋戦争末期に、アメリカ軍がパラオに侵攻してきた際に、南のアンガウル島やペリリュー島は激戦地となりペリリューでは日本人兵士約11000人が玉砕する(アメリカ軍死者は約8000人)程、激戦地となった。アメリカ軍が攻めてくる前に、日本軍はペリリュー島民を戦争の犠牲者にならないように本島へ移住させた。しかし、日本軍と一緒に戦うと島に残ったペリリュー島民も多くおりました。

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※上記写真はペリリュー島にある旧日本軍戦車

【親日国&パラオ共和国初代大統領は日系人】

今でもパラオは親日国であり、1994年独立の際は、尊敬する日本の国旗を真似て、国旗を作りました。初代大統領は日本人の血を引く日系人(現地人との混血)のナカムラ・クニオ氏です。日本はアメリカと並ぶパラオへの最大の援助国であり、それらへの感謝の碑をいたるところで発見します

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【親日国パラオ!自分の子供や会社に日本名をつける!?】

パラオ人は、日本統治時代に日本がした貢献に関して非常に感謝しており、非常に親日。日本、日本人を尊敬しております。そのため、自分の子供や会社、お店に日本名をつける人々が多いのです。
パラオ訪問時にタクシーを利用していると、タクシー運転手の証明書の名前が、YOSHIO(ヨシオ)という名前でした。著者が運転手に、「日本の血が入っているのか?」と尋ねると運転手は「いえ、純粋なパラオ人です。自分の父が日本が大好きで、尊敬する日本人の知り合いに自分の名前をつけてもらった」とのこと。

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他に、マラカル島を歩いていると、YOJIRO(ヨージロー)という自動車修理工場を見つけました。聞き取り調査すると、経営者はパラオ人。尊敬する日本(人)の名前を自分の会社名につけたとのこと。このように、この国では生粋のパラオ人が、日本人の名前を子供や会社につける事をしております。それだけ日本が尊敬、愛されているということです。

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【さいごに】

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いかがでしたでしょうか?日本は世界で非常に好かれた国である事は事実です。世界数多くの国々を渡り歩き、この目でみてきました。世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!シリーズはこれからも続々とアップしていきます。

【文章&写真】

〚略歴〛タイ⑬

国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。

 

上記記事に関しての質問や問い合わせ、取材、記事寄稿依頼、講演依頼等ありましたら

下記までご連絡ください。

大川原 明(オオカワラ アキラ)

E-mail:last-samurai-akira@hotmail.co.jp

携帯電話:090-6078-6677





コウモリのスープも!?パラオで絶対食べるべき名物料理5選

旅メディアに旅記事寄稿!今回のお題は、コウモリのスープも!?パラオで絶対食べるべき名物料理5選

太平洋に浮かぶパラオ共和国。ここはかつて30年程、日本の統治領だった時代があり、パラオ国内いたるところに、日本の名残があります。また、パラオの海は非常に綺麗で、ダイビングやシュノーケリング等のマリンスポーツを楽しめる事間違いなしです。
そんなパラオの食事はどんなものがあるのか気になる方もいると思います。今回は、コウモリ料理をはじめとしたパラオの名物料理を皆さんにご紹介いたします!

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ポーランド孤児?親日国ポーランドとは?日本男児はもてもて?いたるところで逆ナンパ?現地訪問して分かった真実!ポーランド孤児?世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第1話!

世界を周ってきた大和男児アキーラが語る日本が素晴らしいと思える出来事!第1話!親日国ポーランドとは?日本男児はもてもて?いたるところで逆ナンパ?現地取材して分かった真実!ポーランド孤児が起因?

東欧のポーランド。日本人から遥か遠い場所にある国。日本とは深い関わりがないと思う人は多いと思うのだが、実は日本とは関わりが深い国である。

ポーランドを訪問時に首都のワルシャワや古都のクラクフを訪問。写真撮影中にいたるところでポーランド人女性に話しかけられて、一緒に記念写真を撮っていいですか?と言われた。

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日本に来た事があるのか?と女の子達に質問するとほとんどが日本へ行った事がないとの事。しかし、日本が好きで日本へは是非とも行きたいとの事であった。これは何が起因となっているのか?これには、かつて日本政府がポーランド孤児を助けた事や日露の戦いでの日本の勝利、日本文化がポーランドに入り込んでいる事が掲げられる。

1904年(明治38年)~1905年(明治39年)の日露戦争。日露戦争開戦時、世界のほとんどの国が大国ロシアが勝つと思っていた。しかし、そんな世界各国の予測は外れ、アジアの小国である日本が帝政ロシアを打ち負かした。これは、欧米列強に植民地とされていたアジアやアフリカ諸国だけでなく、当時、ロシアの植民地もしくは圧政下に苦しんでいたフィンランド、バルト三国、ポーランドをはじめとした東欧諸国に勇気と感銘を与えたのは事実である。

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日露戦争時のポーランドは、帝政ロシア、オーストリア帝国、プロイセン王国の3つの国に領土を分割され支配されていた。ポーランドは18世紀に領土分割されて以降、11月蜂起、1月蜂起にみられるような独立運動を展開してきた。しかし、成功はしなかった。そんな中、日露戦争においてアジアの小国である日本が大国ロシアに打ち勝った事に勇気と感銘を与えられたのは紛れもない事実である。

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日露戦争が終わった9年後、1914年(大正3年)、オーストリアの皇太子がサラエボでボスニア系セルビア人に暗殺されたのが発端となり第一次世界大戦が勃発。1918年(大正7年)の第一次世界大戦後に、ポーランド共和国として独立を果たす。

1919年(大正8年)このころは ロシア国内において革命、反革命の勢力が争う内戦状態が続き激しさをましていた。この時シベリアには、ロシアにより捕らえられたポーランドの政治犯や、愛国者の家族、­内戦の混乱を逃れてきた人達が15万人~20万人いた。これら人々は過酷な重労働、飢餓や疾病の中で厳しい生活を送っていた。親と死別した子供たちは、お腹を空かし、身を寄せる場所さえなく、 いつ死んでもおかしくない極めて厳しい状況下で暮していた。

あまりに悲劇的な状況を見るに見かねたウラジオストク在住のポーランド人たちが立ち上がり、「ポーランド救済委員会」を設立。欧米各国に救済を依頼したが、断られた。そんな中、ポーランド救済委員会は日本政府に助けを求めた。救済依頼した欧米諸国に断られ、最後の頼みの綱が日本であったのである。日本政府は、わずか17日後には救いの手を差し伸べる決断を下す。大変な費用と手間が必要であったにもかかわらず、日本人は、シベリアのポーランド人たちの惨状を見るに見かねて判断したのであろう。これぞ、まさに武士道精神である。人情深い人が多い日本人らしい行動である。

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1920年 (大正9年)7月 ロシアのウラジオストクからポーランド孤児たちを乗せた日本陸軍の輸送船 「筑前丸」が敦賀港に入港。孤児たちは、粗末な服を着て、哀れなほど痩せ細っていた。敦賀港より入国して、孤児たちの姿を見た多くの日本人は、同情を寄せ、子供たちに愛情のこ­もった暖かい救済をはじめていく。収容された孤児たちの多くは、栄養不良で痩せ細り、歩くのもままならないものも多くいた。また、子供たちの多くは腸チフス、感冒、百日咳などの病気であったため、すぐに治療が­施される。着ている物はボロボロで、靴を履いている子供はほとんどいなか­った。

そこで 日本赤十字社は、一人ひとりに衣服、肌着、靴、靴下などを新調し、さらに食事の提供や­果物などを支給。収容先では、子供たちを慰めるため慰安会が開かれ、動物園や博物館へも行って楽しく過­ごしている。また、貞明皇后から御下賜金が届けられ、全国から多数の寄付金が寄せられる。病院では、すぐに充分な治療が受けられるように病室も準備していた。 安全を確保するため警察官も配備するなど孤児達の周りには、善意があふれていたのである。

1920年(大正9年)と1922年(大正12年)の2回、合計で765名もの孤児が東京や大阪で治療と看病を受け、全員が元気をとり戻し、横浜や神戸の港から帰国したのである。親身に世話をしてくれた日本人の看護婦や保母たちとの別れを悲しみ、乗船を泣いて嫌がるほどであった。孤児として両親と生き別れ、愛情もまともに受けずに育ってきた孤児達。そんな中、日本人の深い愛情に感銘を受けたのである。

彼らは帰国船が出発する際に、口々に「アリガト」など、覚えたての日本語を連発、「君が代」などを歌って感謝の気持ちを表わしたのである。双方ともに、涙を流しながら、姿が見えなくなるまで手をふりつづけたのである。

これら孤児達は、ポーランドに帰国後に「極東青年会」という団体を組織し、第二次世界大戦前にドイツが侵攻するまで、ポーランドで日本の素晴らしさを紹介する活動を行なうと共に、日本に行くための資金を積み立てておりました。しかし世界大戦の戦乱と、東西冷戦により日本へ行くことがかなわなかったのである。

1995年(平成6年)に阪神大震災がおこった後に、1996年(平成7年)、1997年(平成8年)に震災で被災した児童をポーランド政府は招待してくれたのである。その時に、ポーランドの元孤児の方4名がこれら被災した日本人児童と面会し、温かい言葉をかけた。

ポーランドでは、ポーランド孤児を日本が助けた事に関して教育で教えており、非常に日本に対しての感情がよく親日家が多いのである。よって、日本人が写真撮影していようものなら一緒に写真をとってくれませんか?と話しかけられるのである。

また、第二次世界大戦中、日本とポーランドは対ソ連諜報において緊密な秘密協力関係にあった。また、ポーランド共和国陸軍はソ連の暗号を解読しており、大正時代より教官を派遣するなど、日本軍に最新の暗号解読技術を教授した。密接な関係にあったポーランドである。

※下記写真はポーランドの古都クラクフの大聖堂。非常に美しい大聖堂である。

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ポーランドに進出している日系企業は260社を超えており、日本製品もポーランド国内で普及。また、それら日系企業で働くポーランンド人も数多くおり、日本語教育の需要があるのである。

日本語教育の歴史としては、ちょうどポーランド孤児が受け入れられたころに、日本研究が盛んになり、1919年にワルシャワに日本語講座が開かれた。ワルシャワ大学には現在、日本語学科があるのであるが、ポーランド内の多くの大学で日本語学科を設けている。2002年には、同大学日本語学科は天皇皇后両陛下がポーランドを訪問(行幸啓)。現地ポーランド人から強い歓迎を受けたのである。

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ポーランド人男性からポーランド人の日本に関しての感情を伺ったのだが、やはり、上記理由などからほとんどのポーランド人が日本に対して良い感情を持っているとの事である。

ちなみに日本の文化、武道、漫画、日本食も人気である。ポーランド国内では、多くの日本食屋があり、ポーランド滞在時に利用してみた。

※下記写真は、ワルシャワ市内のオト寿司という日本食屋

165835_424280877595130_277739521_n日本からポーランドは直行便が就航していなかったのですが、なんと今年(平成28年1月14日)からLOTポーランド航空が週三便直行便を飛ばすようになりました。益々、日本とポーランドの関係は深まるものと思われます。

【文章&写真】

〚略歴〛タイ⑬

国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。

 

上記記事に関しての質問や問い合わせ、取材、記事寄稿依頼、講演依頼等ありましたら

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大川原 明(オオカワラ アキラ)

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大東亜戦争の真実・タイ北部慰霊の旅 タイ人に手厚くもてなされた日本兵 クンユアム・タイ日友好記念館訪問&パーイ日本軍敷設橋!国際ジャーナリスト大川原 明!現地取材ルポ!

大東亜戦争の真実・タイ北部慰霊の旅
タイ人に手厚くもてなされた日本兵
クンユアム・タイ日友好記念館訪問&パーイ日本軍敷設橋

【はじめに】

二年四か月ぶりに東南アジアの雄で親日国として知られるタイを再訪いたしました。タイは、かつて仕事で駐在経験がある国で、多くの場所を訪問いたしましたが、今回は、タイ北部での大東亜戦争での日本軍の関わりが深い事に着目し、今回は、それらに対しての調査と慰霊の旅を敢行。

タイ1
【かつて日本軍が駐留したメーホンソーン県】

かつて日本軍の第十五軍が駐留したメーホーソーン県。ビルマ方面への拠点となった場所です。タイは緩衝国の意味合いもあり、欧米列強の植民地にならず、アジアでは日本と同じく独立国でありました。同じ枢軸国側として参戦。日本はタイから土地使用、食料や水分補給等の助力を受け、現地ビルマからの内からの協力もあり、昭和十七年五月末にはビルマ全土を占領し、連合国軍を駆逐しました。

しかし、インパール作戦が失敗に終わり、戦況悪化。戦争末期もしくは戦後に、敗残兵としてビルマ戦線から逃れてきた日本兵の方々がタイとビルマ国境地帯でコレラ等の病気や飢えで亡くなりました。そのため、メーホンソーン県には数多くのビルマ戦線日本兵(将兵)慰霊の碑があります。そのうちの一つが左の写真です。メーホーソーン市街地外れにあるお寺ワット・プラノーンにあるビルマ戦線将兵鎮魂之碑です。

タイ2

 【日本軍が敷設したパーイの橋&中国国民党残党勢力の村】
メーホンソーン県にパーイという小さい町があります。チェンマイとメーホンソーンの中間に位置し、バスの休憩地点として栄えた町でもあります。周辺には中国国民党の残党勢力の村、リス族やラフ族の村もあります。写真は、パーイの中心街から4キロ程の距離にある中国国民党(KNT)の残党勢力の村。

タイ③
村の中には商店や飲食店があります。戦後、中国共産党と国民党は争い、中共が勝利し実権を握りました。その結果、蒋介石率いる部隊は台湾に逃れ、南西部にいた部隊はビルマに逃れました。
しかし、中国共産党とつながりを深めたビルマ政府軍に追いやられ、中国国民党の残党勢力はタイ北部に逃れました。彼らは、武装したまま、居座り集落を形成。麻薬売買(ゴールデントライアングルは有名)等で生計をたてておりました。
中国共産党の残党勢力(KMT)は、武装訓練もおこない武装したまま数十年がたちました。いつ大陸に攻めこんでもよいように機会を伺っていたようですが、一九八七年にタイ政府との交渉で、武装解除、タイ国籍取得。いまではほのぼのと暮らしております。隣には山岳少数民族リス族の村があったのでそちらも立ち寄りました。

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大東亜戦争中に、ビルマ攻略を容易にするために、日本軍はビルマとの国境付近の川に多くの橋を敷設しました。映画、戦場にかける橋で知られているカンチャナブリにある橋は有名ですが、他にもタイ国内には日本軍敷設の橋があります。
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このパーイのパーイ川にかかる橋は、大戦中に、日本軍が敷設。現地タイ人が象などを使い橋敷設に協力。大戦末期にインパール作戦で敗走した日本兵たちが逃れてきました。その際に、敵の進軍を阻むために日本軍はこの橋を燃やして壊しました。

※下記写真は、パーイの人々と日本兵が一緒に写る写真。※

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しかし、橋はパーイの人々にとって便利なものでした。橋がなくなった後に、現地の人々は、再び川を小船で渡らなければならなくなりました。(日本軍による橋の建設は、現地の人々にとっても非常に有意義なものであったのです。)多くの現地人により橋の再建がのぞまれ、戦後、他から橋を移築する形で再建。
しかし、1970年代に大きな洪水に見舞われ、橋が崩壊。その後、再建。
この橋は、タイ人に大人気の映画クーカムの撮影地となった場所でもあり、ここを訪れるほとんどのタイ人はしっております。このクーカムという映画は、大東亜戦争でタイに駐留した日本兵。礼儀正しく、武士道精神をもった日本兵たちが描かれ、日本兵と現地タイ人女性との恋の映画です。

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パーイはのどかな風景が広がっております。かつて、日本兵の方々もタイのこののどかな田舎の風景を楽しんだことでしょう。

【クンユアムと日本軍との関係】

クンユアムはタイの北部にあるミャンマー(ビルマ)との国境地帯にある小さな町です。タイ北部のミャンマーとの国境地帯は、大東亜戦争において日本と非常に関わりが深い土地です。かつて日本軍の第十五軍の部隊が駐留もしておりました。

(下記写真は、タイとミャンマーの国境地帯。険しい山々が連なる)
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クンユアムは、メーホンソーンの南約六十五キロの場所にあります。かつては、日本軍が駐留し、日本兵が野営もしくは現地のお宅にお世話になるなど、日本兵と現地タイ人の深い交流が結ばれた町です。
インパール作戦の失敗後、多くの日本兵がビルマ戦線で亡くなりましたが、戦争末期から終戦後、多くの日本兵がビルマ国境を通り、同盟国であったタイ国内に敗残兵として入ってきました。そんな中、ビルマからタイへ多くの日本兵が移動してくる中、コレラや飢え、傷病で亡くなる日本兵がかなり多くいました。かつて隊をおいていたクンユアムを目指し、敗残兵と化した日本兵。インパールからの敗走路は、行き倒れた日本兵の遺体が散乱し、白骨街道と呼ばれました。無事に辿りついた日本兵は、クンユアムの人々から治療、看病、食料や衣服提供等、手厚いもてなしをうけました。日本兵の方々もクンユアムの人々であれば助けてくれると思ったのでしょう。敗残兵といえば、極限状態にあり、気が立っており何をしでかすかわからないと恐れられるのが普通でありますが、クンユアムの人々はかつての日本兵との温かい交流を思い出し、温かく日本兵を受け入れたのです。村には当時五十~六十戸の民家と寺がありました。貧しい村ではありましたが、数多くの日本兵が救われ日本に帰国できたのです。
これは、それだけ日本兵の方々が現地タイ人に信頼されていたのもあります。慈悲深い精神をもった人々が多いタイですが、死にそうになり困っている日本兵を見てられなかったのです。多くの日本兵がクンユアムでお世話になったのです。家の大きさによって異なりますが、一軒に大体五人~二十人くらいがお世話になったようです。お礼として日本兵は村の人に何でも出来ること、米の脱穀精米作業とか、農作業のときの赤ちゃんの子守などをしたそうです。義理を重んじる日本人らしい行動です。
その後、日本へ無事に帰国する事ができました。それら、日本兵は、水筒やヘルメット、毛布等を世話になった家庭それぞれに置いていきました。そしてそれら日本兵をお世話した家族はそれら日本兵が残していった物を大切に保管しておりました。建物周りには日泰の国旗が多く掲げられております。
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それから五十年程たった一九九五年にクンユアムの警察署長として赴任したチューチャイ・チョムタワット氏が、署長就任後に村の家々を挨拶して回った際、チューチャイさんは古ぼけた水筒や外套、ヘルメットといった品々が各家庭で宝物のように大切に保管されていたのに驚き。かつての日本兵とクンユアムの人々との交流に興味を持ち、私費を投じて、それらを集めて一九九六年に博物館をつくりました。そして八年前にクンユアム市に管理が委託されました。

博物館は二階建てになっており、外には軍用トラックがあり、博物館内部には、銃、軍刀、軍服、認識票、水筒、御守り、注射器、歯ブラシなど当時の日本兵が使っていた武器や日用品されております。さらに当時の写真などをふくめ、1000点にものぼる収蔵品が一堂に集められております。
また一階には現地の少数民族の生活文化を紹介しており、当時の日本兵との暮らしぶりを再現した模型などもあります。
クンユアムでお世話になった日本兵の中には現地タイ人と結婚し、それらの孫や曾孫が現在、日泰の混血としているようです。
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タイ日友好記念館内には数多くの写真がありましたが、日本兵と笑顔で写る写真が多く展示されていました。これら写真からいかに日本兵と現地タイ人との仲が良かったのかが分かります。

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友好記念館外、敷地内には慰霊碑があります。一人の日本人として慰霊合掌させていただきました。
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タイ日友好記念館向かいのお寺にも慰霊碑があります。お寺の関係者により丁重に管理されております。
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クンユアムの町を隈なく散策しましたが、当時の日本兵の方々の姿が脳裏をかすりました。道がアスファルトになったり、建物が鉄骨や鉄筋コンクリート化されたり現代化されたクンユアムですが、のんびりとした雰囲気は変わっていないでしょう。クンユアムにあるレストランでタイ料理をいただきましたが、レストランの従業員と仲良く交流いたしました。当時の日本兵もこのように現地タイ人と交流をしていたのでしょう。七十年以上たった今、一人の日本人として、再びタイの友好を深めました。
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【タイ北部には数多くの慰霊碑が】

前述通り、ビルマとの国境地帯は敗残兵と化した日本兵の方々が険しい山々を通り、タイへ逃れてきたのですが、その過程で飢えやコレラで多くの日本兵が亡くなりました。なんとか無事にタイの集落に辿りつけた日本兵はタイ人に暖かく迎えられ命拾いをしたわけです。それでも数多くの日本兵が亡くなり、タイ北部にはいたるところに慰霊碑があります。丁重に管理されているものも多いのですが、中には無縁仏と化したものもあります。日本政府もそれら慰霊碑のすべてを把握しきれていないのが実情です。

クンユアムまでは六十五キロ離れたメーホンソーンから二輪を借りて日帰りで往復したのですが、帰りに倉敷有志の会が建てた鎮魂碑を発見いたしました。メーホンソーンとクンユアムのちょうど中間地点にあります。平成十二年に建立されたものです。合掌慰霊。
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【さいごに】

 

今まで、私は、パラオ、ミャンマー、フィリピン、マルタと海外の戦跡地&慰霊の旅をしてきました。各地を訪れて現地にて丁重に管理されているのをみて一人の日本人として感動したものです。
日本は先の大戦で戦争に負けて、連合国GHQにより世界に敷かれた戦勝国史観。もしくは周辺反日諸国により嘘で塗り固められた日本軍。実際は、日本兵は規律正しく、優しく現地の人々から愛されていたのです。この友好記念館がそれを証明してくれています。多くの方々にこの友好記念館を訪問してほしいものです。

※クンユアムまでの行き方
日本からタイまでは日本国内主要空港からバンコクまで直行便が飛んでおります。バンコクから国内線に乗り換えてメーホンソーンへ。メーホンソーンからクンユアムまでは六十五キロの距離。クンユアムには空港がないのでバスもしくはタクシーをチャーターしてメーホンソーンまでいけます。

 

〚略歴〛タイ⑬

国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。

 

上記記事に関しての質問や問い合わせ、取材、記事寄稿依頼、講演依頼等ありましたら

下記までご連絡ください。

大川原 明(オオカワラ アキラ)

E-mail:last-samurai-akira@hotmail.co.jp

携帯電話:090-6078-6677





スイス・ジュネーブ・レマン湖畔!日本犬(柴犬)発見!世界で人気が出てきている日本犬?

平成26年(2014年)9月、2年ぶりにスイスを訪問。チューリッヒは2度訪問した­­­­­ものの、ジュネーブは初めて訪問しました。
ジュネーブといえばレマン湖が有名ですが、そのレマン湖畔で、日本の犬である柴犬(日­­本犬)を散歩している女性を見かけました。
日本人の血が入っていそうなフランス系スイス人女性が散歩しておりました。
柴犬は、国の天然記念物に指定された7つの日本犬種(現存は6犬種)の1つで、指定は­­1936年(昭和11年)12月16日。存6犬種中唯一の小型犬種だが、飼育頭数は­最­も多く、日本犬の代表格ともいえます。
国内ではもちろんの事、海外においても人気を博しているようです。

オーストリア・ウイーン・シェーンブルーン宮殿内の日本庭園!サラエボ事件で殺害されたオーストリア皇太子(日本通)が造営指示! 世界中で大人気の日本庭園!

日本人必見!!オーストリアのウイーン!かつて中世にヨーロッパに覇を唱えたハプスブ­ルク家が居を構えていた土地である。(元々はスイスの小領主出身)
シェーン­ブルン宮殿には日本庭園があります。これは大正2年(1913年)にフラン­ツ・フェルディナント大公(サラエボ事件で殺害されたオーストリア皇太子)が日本訪問­から帰国後造営させたもので、オーストリアの庭師に見よう見まねで作らせたも­のであ­ります。
1892年、約1年の歳月をかけて世界一周の見聞旅行に出かけ、その途上で日本を訪れ­ております。
この時、フランツ・フェルディナント大公(オーストリア皇太子い)は日本の風物や伝統­文化などを詳細に手記に記しており、これは後にまとめられて出版されています。
オーストリア皇太子の日本日記という題名で講談社学術文庫から翻訳されて日本でも発売­されております。

皇太子は「海外を見聞してみたい」と思うようになっていきました。
1891年、ロシア皇帝と謁見しにペテルブルグを訪れたのがきっかけになったようです­。「異質な国民、民衆、文化、民俗についての知見を獲得し、異国の芸術を鑑賞し、さら­には、汲めども尽きない異郷の地の自然に肌で接したい」と思うようになった皇太子は、­世界一周の見聞旅行に出かけます。そして、その訪問先の1つが日本だったのです。
熊本、下関、宮島などを経た後、京都、大阪、奈良、大津などを訪問。
その後、東京に赴き、明治天皇に謁見。政府から大歓迎をうけもてなされました。
日光東照宮も訪問し、そこでは、かつての会津若松藩主であり、宮司になっていた松平容­保公に迎えられました。(薩摩、長州等主体の新政府からはよくは思われていませんでし­たが)

ちなみに松平容保公の曾孫である徳川恒孝氏は養子で徳川宗家に入り、徳川宗家18代目­の当主となられたわけですが。奇遇にも18代目当主のご長男(家広氏)の方とは、当方­は仕事でお会いした事がございます。

大正2年(1913年)に、日本の庭園が忘れられなかったオーストリア皇太子がオース­トリアの庭師にみようみまねで造営させました。
その翌年、ボツニアのサラエボにてセルビア人青年により、オーストリア皇太子は暗殺さ­れました。(サラエボ事件)
それにより第一次世界大戦勃発!!そして敗戦!
オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後は日本庭園は荒廃し、誰ともなしに「アルプス庭園­­」と呼ばれるようになったが、平成8年(1996年)にここを訪れた日本人が日本庭­園ではないかと­指摘により発覚。

その後調査が進められた結果、手水鉢と思われる石など見つかり、日本庭園と­いうこと­が断定されました。
これを受け平成10年(1998年)、日本から庭師を招いて枯山水の日本庭園­として­修理復元されました。