国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

飲食店(海外)

タイ・マクドナルド・サムライポークバーガーとは?

タイのマクドナルドに行くと、メニューの中にサムライポークバーガーというのがある。­­­。最初は!何ぞやと思い、注文してみた。そして​袋を開くとどこが??と思った。 味は照り焼きバーガー​! あっ!! 日本マクドナルドが独自に開発した照り焼​きマックバーガーであるが、さすが親日国タ­­­イ それを知​っており、サムライの国日本発祥にちなんでそう名づけた​。 
日本の照り焼きと違うのは牛肉ではなく豚肉を使っている点である。

タイ・バンコク・北朝鮮政府直営・平壌(アリラン)レストラン潜入!

2015年タイのバンコクに再開業した北朝鮮政府直営の平壌レストラン。場所はBTS­­高架電車プロンポン駅から歩いて20分程。ソイ26にあります。
K-Village&日本街から近い場所にあります。
単身で潜入いたしました。時間は18時過ぎ。1時間以上、客は自分一人でした。
注文は、石焼きビビンパとナムルとキムチ。
喜び組と評されるような北朝鮮の女性の踊りは20時~でございます。
一応、営業スマイルは出来ており、日本人と分かると日本語で話しかけてきました。(片­­言)
あとは、英語で意思疎通。一緒に写真を撮りたいというと、また、今度来た時にと言われ­­ました。

タイ・チェンマイ・ナイトバザール

10月中旬にタイのチェンマイを再訪。その際に利用したナイトバザール。
ナイトバザール内には数多くの飲食店やマッサージ屋、お土産屋があります。
ここでタイ料理を満喫し、買い物を楽しみ、マッサージにて疲れをとる。至福の一時を過ごす事が出来ます。

チェンマイは、チエンマイ県の県庁所在地(ムアン)でもある。ラーンナータイ王国の首都として、メン­­­ラーイ王により1296年4月12日建造された。王国の首都として古くから発展し­、­ラ­ーンナータイ王国が廃止された現在でも北部の文化・経済の中心である。人口で­は東­北部­のナコーンラーチャシーマーを下回るが、その歴史の長さや都市の格から、­一般に­バンコ­クに次ぐタイ第2の都市とされている。
ランナータイ王国の首都は、もともとチエンラーイであったが、メンラーイ王によってグ­­­レゴリオ暦で1296年4月12日午前四時をもって公的にチエンマイに遷都された­。­こ­の日時は宮廷の天文学者や占い師が選定した時間である。このときスコータイか­らラ­ーム­カムヘーン王を呼び、パヤオからはガムムアン王を呼んで、都市計画を練り­上げた­、この­為、都市の建設の様式にスコータイ的な要素が混ざり、それまで、ラー­ンナー世­界で一般­的だった川沿いに都市を建てる様式(チエンセーン、チエンラーイ­など)とは­違い、川か­ら少し離れた場所に碁盤の目状に建てられている。なお、現在­残る市街地の­城壁がこのこ­ろのマンラーイの時代の遺跡なのかメーク王の時代の遺跡­なのかは分かっ­ていない。
チエンマイの建設には以下の要因があった。まず、北にあった元の侵攻を避けること、コ­­­ーク川に面したヨーン地域にアクセスがよく、北上すればすぐマンラーイの母体であ­っ­た­ヨーン地域の支配に不便でなかったこと、またチエンマイは、ピン川の上流にあ­りピ­ン川­はチャオプラヤー川、またその向こうのタイランド湾に通じており、中国と­の貿易­に有利­であった。
その後、チエンマイはラーンナー王朝の首都として発展を遂げたが、ラーンナー王朝は1­­­558年ビルマのタウングー王朝により属国化された。ただし、征服者のバインナウ­ン­は­引き続きチエンマイをラーンナー地域の首都とした。1701年にはラーンナー­地域­はチ­エンマイを中心とする南部地域と、チエンセーンを中心とする北部地域に分­けられ­、チエ­ンマイは南部地域の首都となった。
18世紀後半には、ビルマの求心力が低下し、ラーンナー地域は内乱状態に陥り、178­­­0年までにチエンマイは疲弊し瓦礫と化した。一方カーウィラは1796年に、チエ­ン­マ­イに残っていたビルマ勢を一掃し、チャクリー王朝の後援の元、チエンマイを再­興し­た。­これが現在のチエンマイの骨格となっている。その後、1899年、チエン­マイは­君主を­かかえたまま、内務省の下位の行政組織、郡(アムプー)となった。

世界一周動画!第一弾!マルタ共和国!

52分の新動画アップ!こないだ訪問したマルタ共和国の動画をまとめて編集した52分の旅動画を作成。出発から帰国までを事細かに紹介。デロップをいれております。
これでマルタ共和国観光が丸わかりになる動画です。是非、ご覧ください!
ラバト、イムディーナ、コゾ島、ヴァレッタ、青の洞門、マルサシュロック、スリーシテ­­­ィーズ等を訪問。
ホテルはスリーマ地区にある4つ星のホテルであるウィンザーホテルに宿泊しました。
セントジュリアンの方面にも散策。
航空会社は、エミレーツ航空利用し、成田からドバ、キプロス経由でした。
マルタ共和国は、南ヨーロッパの共和制国家。イギリス連邦および欧州連合(EU)の加­­­盟国である。公用語はマルタ語と英語、通貨はユーロ、首都はバレッタ。地中海に位­置­す­る島国です。
イタリアのシチリア島から船で行くことも出来ます。
イタリア・シチリア島の南に位置する。面積は316km²で、東京23区の面積622­­­.99km²の半分の大きさである。
カルタゴ、共和政ローマ時代に既に地中海貿易で繁栄し、その後一時イスラム帝国の支配­­­に入ったこともある。それに抵抗して戦ったマルタ騎士団がこの土地の名前を有名に­し­た­。
小型犬のマルチーズの発祥の地であり、マルチーズの名はマルタに由来する。
日本との関係
1862年、1858年に英仏など5カ国と個別に締結された修好通商条約の修正を求め­­­て派遣された文久遣欧使節団が訪問している。
1917年6月11日に大破した駆逐艦榊の59人の戦死や傷病による戦死者の「大日本­­­帝国第二特務艦隊戦死者之墓」がある。
1921年4月、皇太子時代の昭和天皇が訪問している。
マルタは地中海の中央部、シチリア島の南約93kmに位置する。主要な島はマルタ島と­­­ゴゾ島、コミノ島の三つである。海岸線が変化に富むため良港が多い。地形は低い丘­陵­や­台地からなり、最高地点はマルタ島内の標高253mの丘陵である。
気候は地中海性気候のため、冬は温暖で雨が多く、夏は暑く乾燥している。

2015年12月3日~12月10日 欧州の小国マルタへの訪問

2015年12月3日~10日まで欧州の小国でイタリアのシチリア島の南側にある
小さな国マルタ共和国へ初訪問。

成田空港から出発。
マルタ行き航空会社は、エミレーツ航空です。
中東のUAEのドバイ乗り継ぎ、キプロスのマルナカ経由でマルタに。
目的地まで2回も経由するのは、14年程前、学生時代に学校のセミナー旅行以来です。
あの時は、成田からSK《スカンジナビア航空》利用し成田→デンマークのコペンハーゲン→ノルウェーのオスロ→ノルウェーのトロムソに行って以来。1日がかりで目的地に到着。
合計で7日間の旅ですが、現地4泊+機中2泊の計6泊7日です。
12316148_993357297354149_4247862299834228847_n
マルタ内では主要な観光名所を訪問しました。
訪問した場所は、イムディーナ、ラバト、スリシティーズ城塞都市ヴィットリオーザ、天然の見晴台セングレア、騎士団長の宮殿
アッパー・バラッカー・ガーデン、聖パウロ教会、ハジャーイム宮殿、マルサシュロック、青の洞門、コゾ島観光

マルサシュロックの港
12301739_994093820613830_6758892626275684983_n
アズールウィンドー
10409187_994509930572219_2064814495552836672_n
料理は、マルタ料理満喫。
マルタ風ローストビーフ、マルタ風ソーセージ、メカジキのグリル、シーフードプレート、ピーマンの肉詰め、リコッターチーズのラビオリ等を堪能。

12316456_994513593905186_7987833142950507574_n

JAPANIZM28(青林堂ジャパニズム)2015年12月号への寄稿!

12376826_996959693660576_1474587876111412580_n

青林堂のJAPANISM28(2015年12月号)に寄稿いたしました。お題は、韓国・中国人経営の海外日本食事情。
7
アメリカのロサンゼルスの日系人街リトル東京、フランスのパリのオペラ地区の日本食街等、現地で撮影してきた写真使用。
現在、60カか国渡航。海外長期4か国計6年の居住歴あり。世界40か国以上の国々で500件以上の日本食屋を利用。
日本人経営も多い中、欧米豪では、中国、韓国人による経営も多いのが実情。
世界無形文化遺産に認定された日本食。
中には、これが日本食?と思えるお店も多いです。

タイ・バンコク・ゲイバー通り!ジャーナリスト大川原 明!現地潜入ルポ!

10月に2年4か月ぶりにタイのバンコクを再訪。久しぶりにバンコク市内、シーロム地区にあるスリウォン通り沿いにあるゲイバー通りを散策。
多くのゲイがおりました。

大感動間違いなし!この世の楽園・イタリア・カプリ島・青の洞窟

大感動間違いなし!この世の楽園・イタリア・カプリ島・青の洞窟

 

イタリア南部ナポリから近いカプリ島。カプリ島は青の洞窟がある事で有名な観光名所です。国内外を問わず世界各地から青の洞窟目当てにカプリ島にきております。小舟に乗り、青の洞窟に乗りこめば大感動間違いなし!

今回はイタリア・カプリ島の青の洞窟をご紹介いたします。

 

青の洞窟まで行くには?

カプリ島1

写真:大川原 明

カプリ島に行くには添乗員つきパッケージ旅行では、添乗員の案内してもらえますが、添乗員無しのパッケージ旅行や自由旅行では少しだけわかりづらいものです。

まず、ナポリの港から行くのが最善であります。

ナポリまでは日本からは直行便出ておりませんので、経由便でナポリもしくはローマなどで滞在した後に電車でナポリになります。

ナポリの港は市街地に面しておりますので分かりやすいです。

上記写真の船に乗り込み、30~40分ほどでカプリ島の港に到着します。船のチケットは、パッケージ旅行であればついている事多いですし、自由旅行であれば、港の券売り場で購入が可能です。

カプリ島にてイタリア料理堪能

カプリ島2

                         写真:大川原 明

ナポリからの船に乗り、カプリ島到着した後に、レストランで昼食をとりました。テラス付きのレストランですが、せっかくなので港の景色が楽しめるテラス席にしました。

注文したのは、カプリ島の近海で取れる海の幸を使用したシーフードパスタとイタリア・パルマ産の生ハムです。

生ハムは口の中でとろけ、噛めば噛むほど味が出てきます。

シーフードパスタは、ムール貝やアサリをしようしており、磯の香りと共に楽しむ事が出来ました。

 

カプリ島の港から青の洞窟へ

カプリ島3

写真:大川原 明

カプリ島の港から小型ボートに乗り込み、青の洞窟へ向かいました。

カプリ島は断崖絶壁で風光明媚ですが、40分程のクルーズを楽しみながら青の洞窟へ向かいました。

青の洞窟以外にもいくつかの場所によりますが、透明度も高くコバルトブルーの美しい海です。

 

青の洞窟に入るための手漕ぎボートへ

カプリ島4

写真:大川原 明

青の洞窟の前に到着し、ここで手漕ぎボートに乗り変えねばなりません。

順番に入るので、しばらく手漕ぎボートに乗り換えるために待たねばなりません。洞窟へ入るには入場料が必要であり、入場料を別途支払わねばなりません。

順番がまわってきたら手漕ぎボートに乗り込み、船頭さんに洞窟まで案内してもらえます。

注意点があり、洞窟に入る際には、必ず、頭を下げねばなりません。

そうしないと洞窟の入り口で頭を打ってしまうからです。

船乗りさんは洞窟に入る前に説明してくれますが。

 

ついに神秘的な青の洞窟へ

カプリ島5

写真:大川原 明

ついに青の洞窟へ入場!

噂通り、青い洞窟でした。神秘的な雰囲気が漂い、洞窟内にいる船乗りさんが

皆で歌を歌いはじめました。

洞窟内滞在時間は、約5分程です。

しばらく神秘的な青の洞窟内で滞在を楽しみました。

洞窟内では写真撮影をしましたが、ボートが揺れているので、ブレがでてしまい撮影に苦労しましたが、ひたすらカメラのシャッターを切り続けて良い写真がとれました。

皆さんも良い写真を撮るにはある程度、高性能のカメラを持参する事をお勧めします。

おわりに

いかがでしたでしょうか?昔から行きたかった観光名所でしたが、やはり感動感は高かったです。

カプリ島の青の洞窟は本当にお勧めいたします

 

天候や波により洞窟内に入れない事もありますが、季節により洞窟に入れる確率に違いがありますので、絶対入りたい方は、可能性を高めるために確率が高い時期に行くことをお勧めします。

ちなみに、過去のデータによれば入れる確率は、12月は7%、6月は87%などとなっております。

アメリカ・ロサンゼルス・ステーキ屋にて巨大ステーキ堪能

アメリカを訪れた際に、楽しみにしていた一つがステーキ​である。本場のステーキを堪­­能した。ここはOrigin​al-Pantry-caffe と呼ばれるステーキ屋である。アメリカの厳ついトラック​野郎達が利用しそうな店で雰­­囲気はまさにアメリカ。巨大​な肉の塊とコールスローのキャベツ、いんげん、ポテト­、­​ペプシと共に堪能した。お陰で太った感じがする(笑) ​周りの多くは巨大なお腹をしており、ものすごく食べそう​な人々ばかりであった。
バケツみたいな入れ物に入ったオレンジジュースを飲み干すアメリカ人をみて、やはり日­本人とは胃袋が違う。
肥満の人々が多い国だと実感しました。

【軍歌】 薩摩・鹿児島県鹿児島市の軍国酒場!軍歌三昧 !

平成26年(2014年)11月15日に鹿児島県を訪問。明治維新の立役者となった外­­様の雄藩であった薩摩藩の地です。知覧の飛行場(知覧平和特攻記念館)を訪問した後­に訪問。

10401403_812411222115425_3755811245344776708_n

たまたま、鹿児島市街で食事をし、歩いていたら、軍歌が聞こえてきました。

ビルの外まで聞こえてきたのですが、ビルの中に入るとこんな感じです。

4階に店があります。
鹿児島市街地天文館にある軍国酒場に突撃訪問!臨時で入隊いたしました!配給をいただ­­き、戦線で活躍し、満期除隊!

1522146_812427105447170_1968112725072256446_n
出征兵士を送る歌、青年日本を送る歌を歌いました!
80歳を越える女性がきりもりしております。(言語明瞭で元気な方です)

配給をいただきました。
1932473_812427078780506_9146519283304972253_n

さて、一杯!
1521702_812427085447172_1301128611242289405_n
雰囲気が出ております。
これは日露戦争の時のか?ロシア人っぽい人形が(笑)
10387647_812427095447171_8577071033303507161_n

昔は軍歌が歌える軍国酒場や軍歌バーといったジャンルの店は昔は全国各地にあったので­すが、このような軍国酒場は激減しました。

鹿児島を代表する繁華街「天文館」。特に山之口本通り界隈は飲み屋街となっております­。
この近くで薩摩の黒豚を食べて、車をとめていた駐車場に戻る途中、ビルから軍歌が聞こ­えてきたので、気になりみてみました。
ビルの上のほうから聞こえてくるのですが、気になりました。看板をみると軍国酒場の文­字が。
気になり、上に行くと軍歌が大音量で流れておりました。
少し入りずらい雰囲気はありましたが、入店。
この軍国酒場、ビルの入口にも書かれていたが「天文館で50年」の老舗。

軍歌を唄いました。お気に入りの出征兵士を送る歌!

10303383_812427072113840_1799291442036735100_n

店内の張り紙や写真や小道具、軍服を着せたマネキンや装備品などは全てママが長年あつ­めてきたもの。
食糧を「配給」。
呼び方はゆで卵は「手榴弾」
ビールは「魚雷」、焼酎は「爆弾」。
店を出る際は「満期除隊」。

鹿児島天文館の九龍城砦・祗園ビルの4階

下記が、動画です。店内の様子がよくわかります。

80歳を過ぎたママさんが、経営しておられますが、
健康問題でいつ、閉店になるか分かりませんが、長生きして頑張ってほしいものです。
このような軍国酒場は逆に今の若者からすれば
新鮮味があるかもしれません。
全国で軍国酒場が復活することを願います。