国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

台湾

台湾・台南・飛虎将軍廟(杉浦茂峰兵曹長)【台湾で尊敬される日本人】

【台湾で尊敬される日本人の1人】台南の飛虎将軍廟
民間信仰の廟で日本軍人が神として祀られている廟です。日本の絶対国防圏であるサイパン島等のマリアナ諸島陥落後に、米軍による本土空襲が日に日に増しました。

日本統治の台湾においても、アメリカによる空爆が支那の遂川基地からの新竹空襲などがありましたが、本格的な空爆は、フィリピンの戦いのために第38任務部隊の艦上機が来襲した昭和19年10月12日に始まりました。このときに台湾沖航空戦が展開されています。
台湾では台南航空隊と高雄航空隊が活躍。

アメリカによるフィリピン・ルソン島占領後は陸上機も頻繁に来襲し、屏東や虎尾の製糖アルコール生成工場、高雄港、岡山航空廠を目標にしました。

昭和19年10月にアメリカによる台湾空襲が本格化する中、米軍との空中戦による墜落などで家屋への被害も少なくなかったのです。

そして、ここで祀られている飛虎将軍こと杉浦茂峰兵曹長21歳の飛行機が米軍機に迎撃するために出撃するも、攻撃をかわせず、被弾。杉浦兵曹長は、パラシュートで脱出することも可能でしたが、そのまま戦闘機を操縦士し、家屋のない田園地帯に墜落。

これは、住民を犠牲にすることを避けるために、杉浦兵曹長が自ら命を捧げたのです。

その後、現場となった付近の住民の枕元に、杉浦兵曹長の霊が現れるようになったために(夢でみる等)、台湾の住民が彼の献身をたたえる廟を1971年につくったのです。

台湾・台北・士林市場(士林夜市)・台湾料理&露店!

台湾といえば夜市。(アジア各国ではこういった夜市があります。タイの夜市も好きです。)台北で最大の市場である士林市場での夜市。

数多くの観光客が訪れる市場です。
歴史は古く日本統治時代の1909年に開かれた市場です。

士林市場は、1909年開場の施設の老朽化による衛生上・安全上の問題があったため、台北市政府は大規模改修をするため、2002年10月14日に同市場を閉鎖し、代替施設として剣潭駅前に「士林臨時市場」が設置されました。

臨時市場は2002年11月25日に営業開始し、士林市場にあった飲食店の多くが臨時市場に移転しました。

市場の中には、日本の縁日にあるような射的などのゲームがありますし、服飾やカバン、雑貨などの土産物店。南国特有の果物が売られている果物店、台湾や大陸の料理が食べれる店が多く軒を連ねています。

台湾・台湾版新幹線(台灣高鐵700T型電聯車)

【台湾版新幹線】台湾の新幹線乗車。THSR。2007年1月5日に開業した台湾新幹線。北部の台北から南部の高雄まで結んでいます。路線総距離は348.5キロ。

電車男ではないですが、電車は好きなほうで、電車マニアになりかけている自分ですW 今までに世界各地で電車を利用。高速列車は、フランスのTGV、ドイツのICE、イギリスとフランスのドーバー海峡を結ぶユーロスター、イタリアのフレッチャロッサ、ポルトガルのアルファヴェンドゥラール、スウェーデンのX2000等を利用してきました。

技術採用にあたり、欧州勢と日本勢の争いがあり、国民党と民進党の政治問題までに発展したものです。民進党が日本案を支持。結局、民進党政権下に日本の技術が採用されました。川崎重工、日本車両、日立が製造に関わっている。
日本の700系の改良型である700T型。中も日本の新幹線と変わりませんでした。

台湾・台北・暴走族ばり?大量のバイク集団

世界中を周り、バイクが多い都市はベトナムのホーチミンと思いますが、台湾の台北もバイク天国です。台湾は経済発展してもバイク(スクーター)人気です。

理由としては、
1.渋滞回避
2.車通勤だととめるとこがない(駐車料金高い)
3.ガソリン代は車に比べかからない。
4.MRTは通勤ラッシュ時に混雑する

等です。

台湾・花蓮・松園別館の琉球松(日本統治時代建立=高級将校休憩所)!

花蓮にある日本統治時代の痕跡】花蓮市内には日本統治時代の関連物がいくつかありますが、そのうちの一つがこの松園別館です。戦中昭和17年(1942年)に日本軍により軍事指揮センターと高級将校の休憩所とし造られました。

場所は花蓮の港と海を一望できる小高い丘にあります。神風特別攻撃隊の出征前に攻撃隊はここに集い、天皇陛下よりの御前酒がふるまわれました。

また、敗戦後、日本人将校がここで自決しました。その後、ここを訪れた人々が将校の亡霊をみたという目撃証言が相次ぎました。
しばらく放置されていたのですが、2002年に花蓮歴史建築物として登録され、2006年より一般公開されています。

今では、建物内部で芸術作品も展示されており、多くの台湾人が訪問する場所となっており、若者達のデートスポットにもなっています。

【台湾お薦め観光名所】台湾・太魯閣国立公園・断崖絶壁の景勝地!

花蓮からバスで1時間40分ほどかけて太魯閣という台湾を代表する景勝地・国家公園を訪問。断崖絶壁という言葉が正に似合う場所です。

険しい断崖は遥か昔に、珊瑚礁の海底が隆起してできたもので、その石質は大理石です。太魯閣から天祥にかけての間にハイキングが出来る道があります。

花蓮を訪れたのであれば、必ず訪れるべき名所です。この後の投稿で素晴らしい眺望をアップしていきますが、世界遺産としてもおかしくないです。
台湾は、1971年に国連を脱退しているので、残念ながらユネスコ(国際連合教育科学文化機関)による世界遺産認定を受けることが出来ません。
台湾が国連を脱退してなければ、必ず世界遺産に認定されたと思います。海外63か国、世界各地の名所を訪れ、世界遺産も数多く見てきた私ですがそう思います。
ちなみに、奥地の天祥には、かつての台湾総督・佐久間左馬太を祭神とした佐久間神社がありましたが、戦後、壊されました。

【台湾人気観光名所】台湾・新北市・九份(九ふん)の町

【日本統治時代に建てられた石造りの建物】人気の観光名所となっている九ふん。ここは、1893年に金鉱が見つかり、日本統治時代にはアジアのゴールドタウンと呼ばれた町です。

統治時代に、藤田組によりその最盛期を迎え、石造りの家などが雰囲気をかもし出してます。九份の街並みは、日本統治時代の面影を色濃くとどめており、路地や石段は当時に造られたものです。京都にも似たようなどこか落ち着く雰囲気があります。

【格安LCC・ANA子会社】バニラ航空JW104便!台湾・台北⇒成田空港!

初利用のバニラ航空。今はANAの100%子会社です。台湾を往復29690円でとれました。(今まで35以上の航空会社利用。)
機材はLCC(格安航空会社)で多用されるエアバスのA320。
3-3の配列で、シートピッチがありませんが、3時間という短い搭乗時間であれば問題ないでしょう。
台湾から沖縄を通り、鹿児島上空を通り、宮崎、四国、紀伊半島、中部地方では太平洋沿岸を通りました。

着陸40分程前に機内からの富士山が見えました。
夕映えした富士山は綺麗でした。
時間は17時くらいですが、非常に綺麗でした。機長がアナウンスで富士山が左手に見えてますとの事で見ると綺麗な富士山が。

左側の窓側席を選択していたので、綺麗に見えました。西、西南方面の航路では、富士山近くを通る事が主流ですが、富士山を見たい方は成田や羽田出発では右側の窓側席、帰りは左側の窓側席を選択するとよいです。夜間以外は富士山が見えますね。特に夕方の富士山は最高です。

席を選ぶ際に、通路側を選ぶ方が多いと思いますが、自分は、窓側をいつも選んでます。それは、景色を堪能できるからです。

台湾・新北市・九份の茶房で台湾茶満喫!

【これが台湾の茶房!】現地実録新動画アップ!お題は、台湾・新北市・九份の暗街茶房で台湾茶満喫!Taiwanese tea in Chiufen in Taiwan
台湾はお茶を産する事でも有名です。台北からの人気観光名所である九ふん。九ふんには台湾でとれるお茶を出す、茶屋が複数ありますので、九ふん訪問時には、台湾の内陸部、高山等でとれるお茶を楽しむとよいでしょう。
2時間程滞在しましたが、お茶も美味しく雰囲気もよかったです。
日本では、西洋式のカフェが蔓延(いや世界的に)していますが、昔ながらの雰囲気の茶房もよいですね。
【日本統治時代に建てられた石造りの建物】人気の観光名所となっている九ふん。ここは、1893年に金鉱が見つかり、日本統治時代にはアジアのゴールドタウンと呼ばれた町です。
統治時代に、藤田組によりその最盛期を迎え、石造りの家などが雰囲気をかもし出してます。九份の街並みは、日本統治時代の面影を色濃くとどめており、路地や石段は当時に造られたものです。京都にも似たようなどこか落ち着く雰囲気があります。

【親日台湾で尊敬される日本人】台湾・【八田與一】が建てた鳥山頭ダム(日本統治時代建立)

【台湾の教科書にも載っている台湾で尊敬される日本人の1人】烏山頭ダム水庫に到着。水庫すなわちダムです。ここは日本人の間でも知られている八田與一が建てたダムです。今回の渡航では台湾で尊敬される日本人の痕跡調査しましたが、3人目です。

八田與一は石川県金沢市の地主の家に生まれ、東京帝大卒業後、技師として渡台。当初は台湾の衛生状態をよくするための衛生事業に尽力。台湾南部の都市の上下水道整備等に従事。

その後、発電・灌漑事業の部門に移動。28歳という若さで八田は、桃園治水工事で成功おさめました。そして、31歳で台湾人医師の娘である外代謝(当時16歳)と結婚。

大正7年(1918年)に八田は、嘉南平野の穀倉地帯を旱魃の危険から守るために、灌漑設備の改善策としてダム建設を計画。当初は、受けいられず、国会でも議論されるほどだったのですが、計画が認められ、大正9年(1920年)に工事が開始され、10年後の昭和5年(1920年)に完成。

その後、八田は、フィリピンへの異動を命じられ、昭和17年(1942年)長崎からフィリピンに向かう太平洋丸に乗船中、九州沖でアメリカの潜水艦の攻撃を受けて、命を落としました。享年45歳。

八田與一は、台湾の教科書でも紹介されるほど、台湾では知名度の高い日本人です。台湾人観光客が毎日多く観光バスで訪れています。