国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

大東亜(太平洋)戦争・激戦地慰霊訪問

親日国パラオ・バベルダオブ島・米軍により破壊された日本海軍通信隊跡

 

平成25年(2013年)6月にかつての日本の委任統治領であるパラオを訪問しました。

9日間の滞在で数多くの場所を訪問しましたが、そのうちの一つが、このパラオ最大の島であるバオブべダル島にある旧日本海軍通信隊跡です。

今回のお題は、

アキーラさん発見!親日国パラオ・バベルダオブ島・米軍により破壊された日本海軍通信隊跡

パラオ最大の島であるバオブべダル島にある日本統治時代に建てられ、米軍により爆撃破­壊された日本海軍通信隊跡。廃墟にはなっているが、当時のままで残っているおります。現地の人­々により管理されております。

スズキ・スイフトをレンタカー会社で借りました
­ールから遷都した。

パラオの最大の島内をドライブ

旧日本海軍通信隊跡
­960人の内訳:内地人(内地出身日本人)25,026人、朝鮮人(朝鮮半島出身日本­人)2,460人、パラオ人先住民6,474人、他にスペイン人・ドイツ人宣教師18­人)。

日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病院­、道路など各種インフラストラクチャーの整備も重点的に行われ、1920年代頃になる­とコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていった。また、日本統治の開始にと­もない日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになっていきました。

先の大戦末期に、アメリカ軍がパラオに侵攻してきた際に、南のアンガウル島やペリリ­ュー島は激戦地となりペリリューでは日本人兵士約11000人が玉砕する(アメリカ軍­死者は約8000人)程、激戦地となった。アメリカ軍が攻めてくる前に、日本軍はペリ­リュー島民を戦争の犠牲者にならないように本島へ移住させた。しかし、日本軍と一緒に­戦うと島に残ったペリリュー島民も多くおりました。

今でもパラオは親日国であり、1994年独立の際は、尊敬する日本の国旗を真似て、国­旗を作りました。初代大統領は日本人の血を引く日系人(現地人との混血)のナカムラ・­クニオ氏です。日本はアメリカと並ぶパラオへの最大の援助国であり、それらへの感謝の­碑をいたるところで発見します。

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親日国パラオ・ペリリュー島・旧日本軍指令本部跡(+水の貯蔵庫)

パラオペリリュー島の慰霊訪問に対しての記事を書かさせていただきます。
前回は、敵国アメリカの最初に上陸した海岸をご案内しましたが、今回は、ペリリュー島の指令本部をご案内します。
戦前からあった建物ですが、建物は鉄筋コンクリート2階建て。
窓枠は広く、洗面台やトイレ等もありました。
沖からの艦隊からの艦砲射撃や空からの空襲で破壊されてしまったこの指令本部ですが、破壊されたあともそのままで残されております。
ここで日本兵の方々が働かれていたと思うと感慨深いものです。その時の光景が脳裡に浮かびました。
トイレの痕や洗面台も残っており、生活のにおいを感じました。

指令本部内散策

近くには水の貯蔵庫跡もありました。
水不足にならないように日本軍が建てた貯蔵庫です。

水の貯蔵庫

パラオをはじめ、太平洋に浮かぶ島々は、かつての日米の激戦地の痕跡をそのまま残している事が多いです。
祖国を守るために尽力された日本兵の方々に感謝の意を表するとともに、慰霊をさせていただきました。

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フィリピン・モンテンルパの日本人墓地(慰霊碑)&ニュービリビッド刑務所

先月、戦後、フィリピンのルパング島のジャングルで30年間近く、戦っていた不屈の侍・小野田寛郎さんが亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

平成23年(2011年)7月にフィリピンのマニラを訪問しました。3泊4日の滞在をし、マニラ+近郊のモンテンルパを訪れました。

マニラ郊外のモンテンルパは渡辺はまこが歌ったモンテンルパの夜と呼ばれる歌が過去に流行ったが、戦後、GHQにより戦犯の汚名をきせられた日本兵がこの近くにあるニュービリビッド刑務所で望郷の詞を作った場所であります。
下記動画をご覧ください。
戦後、多くの旧日本兵が戦勝国である連合国に刑務所に入れられました。

連合国による戦勝国史観により、処刑されましたが、そこには公平性はなかったのです。

墓地内には日の丸が

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入口付近

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そこに歌手の渡辺はまこが刑務所に慰問しました。それには多くの日本人が感動しました。その後、特赦で多くの日本人は帰国する事が出来たのです。
祖国に帰れず、連合国により将校は処刑されました。そんな英霊の方々に感謝の意を表するとともに合掌しました。

ニュービリビッド刑務所

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6月12日、アギナルドを大統領として独立宣言がなされた(第一共和国)。米西戦争で独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がアメリカ合衆国に渡る。

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1899年1月21日にフィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。フィリピン共和国の建国を認めないアメリカ合衆国による植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したが、米比戦争で60万人のフィリピン人が無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。アギナルドは米軍に逮捕され、第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカ合衆国の主権の下に置かれた。そして太平洋戦争が勃発すると、アジアに旋風を起こしていた日本軍がフィリピンにも上陸、アメリカ軍主体の連合国軍と戦い、わずか150日で駆逐sた。以後、1942年~1945年の終戦まで日本の占領下に置かれ、連合国との激しい戦争がおこなわれる。

合掌

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フィリピンは連合国側につく抗日組織、日本側につく親日組織と分かれる。

GHQにより裁かれ処刑された英霊の方々

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フィリピンでは日本車が大人気です。
多額のODA資金援助、技術援助を受ける。旧宗主国のアメリカとは親密な関係にあり、親米の国である。日も貿易、経済共に密接な関係にあり、きっても切れない仲である。人的交流も盛んで、日本人は安土桃山から江戸時代初期、多くの日本人がフィリピンに渡りマニラ等に居住。
(最盛期には3000人ほど居住)、1910年代には農園経営の為の日本人労働者が南部のダバオに大量移民し、1916年には日本人人口が1万人を超える日本人街が形成された。

ホテル近くで待っていたタクシー運転手と交渉をし、単独乗り込みました

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墓地周辺

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皆さんにも是非とも、マニラを訪れる際には、訪れていただきたいと思います。タクシーを利用する際は、恐喝や詐欺に遭う可能性もありますので注意が必要です。

マニラから高速を使い1時間程で到着します。


祖国のために戦われた日本兵の方々を尊敬するというフィリピン人


国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

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慰霊訪問!親日国パラオ・ペリリュー島(日米激戦地)・米軍初上陸地(オレンジビーチ)

今年(平成25年)6月にかつての日本の委任統治領であるパラオを訪問しました。

パラオ訪問時に、日米の激戦地になったペリリュー島を訪問しました。マラカル島からボートで約1時間程で到着しました。
船外機ボートはヤマハ(発動機)のものがほとんででたまにスズキ製品があります。これらに浜松に関連した会社の製品が世界のシェアを独占しております。基本的にどこにいってもヤマハ製を多く見かけます。
小型ボートをチャーターしました

 

日章旗と旭日旗を掲げた。
英霊の方々が歓迎してくれたのか清々しい天気でありました。昭和19年9月15日米軍によるペリリュー初上陸が行われた。(海岸からの戦艦等によるに艦砲射撃後に)。(オレンジビーチ)米軍の計算では数日で陥落させる予定が、一斉の日本軍の射撃、砲撃にあり反撃をくらい小さな島であるが陥落までに2か月以上を要した。日本軍の死者約11000人、米軍の死者約8000人。祖国を守るために戦われて命を落とした英霊の方々に感謝の意を表するとともに慰霊をさせていただきました。
ペリリュー島・米軍初上陸地

 

上記地点より南の地点。非常に綺麗な海でした
アメリカが攻めて来るのを事前に察知し、戦闘にペリリュー島民を巻きこまないように、島民を本島のほうへ移しました。しかし、そんな中、一部のペリリュー島民はペリリュー島決死隊を結成し、日本軍と一緒にアメリカと戦ったのでした。
日本は武士道精神を重んじた行動をしておりました。素晴らしい国・我らが日本

国際&旅行ジャーナリスト 大川原 明

ベトナム・ホーチミン・日本軍上陸地点

ホーチミン市内を流れるサイゴン川。ここは先の大戦で日本がベトナムを占領した際、南部仏印進駐の際に、外海から日本の艦隊がこの川を上り、この地に上陸した場所である。
欧米列強は、大航海時代以降に、アジア、アフリカ、アメリカ大陸に進出し、各地を植民地化していきました。
東南アジアのベトナム、ラオス、カンボジアは19世紀にフランスが保護国化、植民地化をし、この3国はフランス領インドシナと呼ばれていました。
第二次世界大戦が始まり、ドイツは破竹の勢いで、連戦連勝し、連合国軍側で参加していたフランス軍と激しい戦闘の末、勝利を収め、首都のパリも陥落しました。そんな中、暫定政権であるヴィシー政権がフランスで樹立されました。ドイツの影響下にあったこの政権ですが、
フランス領インドシナはフランスが統治したままでした。
そんな中、このヴィシー政権と交渉をし、戦闘をまみえることなく、日本軍は昭和15年(1940年)に北部仏印に進駐、さらには、開戦(動画では間違えて開戦と共にと論述してしまいましたが)前の昭和16年7月28日に南部仏印に進駐しました。
南部はサイゴン(現ホーチミン市)が主要都市でしたが、海岸からサイゴン川を上流にむかってのぼり、現在の都市部の船着き場から日本軍は上陸しました。
終戦間際まで日本軍は駐留し、多くの日本人が当時のサイゴンをはじめ、現在首都のハノイ、中部のダナンのあたりに住んでおりました。
終戦後、再び植民地化を図ったフランスに対して、日本(人)に見習えと日本軍から勇気と希望、戦闘方法を教わったベトナム人が起ちあがりました。
外の時にベトナム軍を指導するために、ベトナムのために尽力するために残った残留日本兵、日本人志願兵は約600名に上るとされており、陸軍第34独立混成旅団参謀の井川省少佐を始め多くの日本兵がベトナム独立のために尽力しました。
日本人志願兵はベトミンに軍事訓練を施したり、作戦指導を行っておりました。
ベトナム初の士官学校であるクァンガイ陸軍中学の教官・助教官全員と医務官は日本人でした。
後年、30名を上回る日本人がベトナム政府から勲章や徽章を授与されております。

ベトナム・ホーチミン・サイゴン川・旧日本軍上陸地点

ホーチミン市内を流れるサイゴン川。ここは先の大戦で日本がベトナムを占領した際、南部仏印進駐の際に、外海から日本の艦隊がこの川を上り、この地に上陸した場所である。
欧米列強は、大航海時代以降に、アジア、アフリカ、アメリカ大陸に進出し、各地を植民地化していきました。
東南アジアのベトナム、ラオス、カンボジアは19世紀にフランスが保護国化、植民地化をし、この3国はフランス領インドシナと呼ばれていました。
第二次世界大戦が始まり、ドイツは破竹の勢いで、連戦連勝し、連合国軍側で参加していたフランス軍と激しい戦闘の末、勝利を収め、首都のパリも陥落しました。そんな中、暫定政権であるヴィシー政権がフランスで樹立されました。ドイツの影響下にあったこの政権ですが、
フランス領インドシナはフランスが統治したままでした。
そんな中、このヴィシー政権と交渉をし、戦闘をまみえることなく、日本軍は昭和15年(1940年)に北部仏印に進駐、さらには、開戦(動画では間違えて開戦と共にと論述してしまいましたが)前の昭和16年7月28日に南部仏印に進駐しました。
南部はサイゴン(現ホーチミン市)が主要都市でしたが、海岸からサイゴン川を上流にむかってのぼり、現在の都市部の船着き場から日本軍は上陸しました。
終戦間際まで日本軍は駐留し、多くの日本人が当時のサイゴンをはじめ、現在首都のハノイ、中部のダナンのあたりに住んでおりました。
終戦後、再び植民地化を図ったフランスに対して、日本(人)に見習えと日本軍から勇気と希望、戦闘方法を教わったベトナム人が起ちあがりました。
外の時にベトナム軍を指導するために、ベトナムのために尽力するために残った残留日本兵、日本人志願兵は約600名に上るとされており、陸軍第34独立混成旅団参謀の井川省少佐を始め多くの日本兵がベトナム独立のために尽力しました。
日本人志願兵はベトミンに軍事訓練を施したり、作戦指導を行っておりました。
ベトナム初の士官学校であるクァンガイ陸軍中学の教官・助教官全員と医務官は日本人でした。
後年、30名を上回る日本人がベトナム政府から勲章や徽章を授与されております。

下記動画1分30秒付近で日本の艦隊がサイゴン川をさかのぼる姿を見る事が出来ます。

フィリピン・マニラ・日本人兵士を尊敬をするフィリピン人ガイド

06 露営の歌平成23年(2011年)7月にフィリピンのマニラを訪問した。フィリピンのマニラを訪問時にスペイン時代の面影を残す、マニラ地区を訪問した。サンチャゴ砦や、マニラ大聖堂等の観光名所を馬車で周らないかと勧誘を受ける。そして参加をして馬車でいろんなところに連れて行ってもらいガイドから案内を受る。
フィリピンはかつて日本が太平洋戦争開始時にアメリカ軍を払拭し、3年程占領した国である。
このガイドは先の大戦で戦われた日本兵を尊敬していると言っている。理由は祖国のために尽力し亡くなったからだと。
戦後の学校教育では日本人は嘘の自虐史観を日教組(日本教職員組合)から叩き込まれてきたが、日本人は真実を学ぶ必要があります。日本がかつて欧米列強相手に戦ってきた事に対して、特定亜細亜(中国、韓国、北朝鮮)を除いたアジア諸国、アフリカ、中東、東欧、バルト3国、フィンランド等は感銘を受けて、かつての日本の勇敢さを尊敬している人々が多いのです。
その結果、上記国々が先の大戦終結後、各地で独立戦争を起こし、独立をしていったのです。
日本人が真の歴史を学んでいかねばなりません。