6年前まで紛争状態にあったコソボ!2008年に独立を宣言し、世界100か国以上の人々が独立を承認。首都のプリシュティナを訪問し、目抜き通りのマザーテレサ大通りにあるレストランにて食事しました。
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6年前まで紛争状態にあったコソボ!2008年に独立を宣言し、世界100か国以上の人々が独立を承認。首都のプリシュティナを訪問し、目抜き通りのマザーテレサ大通りにあるレストランにて食事しました。
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平成26年(2014年)旧ユーゴスラビアのコソボの首都のプリシュティーナ訪問時に撮影。
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アジアの発展搭乗国のような喧騒感があるコソボの首都のプリシュティナ。コソボ紛争で有名なコソボ(16年前まで紛争状態でありました。皆さんの記憶にも新しいでしょう。外務省の危険レベルが1段階引き下げられました。)首都のプリシュティナ訪問。プリシュティナの目抜き通りのマザーテレサ大通りを端から端まで徒歩散策。
かの有名なノーベル賞受賞の修道女マザーテレサの母親がアルバニア人のため、アルバニア系住民が大多数を占めるコソボにおいて、マザーテレサ大通りと名付けられました。
旧ユーゴスラビアのコソボ平成26年(2014年)8月に旧ユーゴスラビア・セルビアから平成20年(2008年)に独立したコソボを訪問!首都のプリシュティーナ、南西部中心都市であるプリズレン、北西部中心都市のペヤの三都市を訪問。
プリシュナは、コソボの首都。2008年にセルビアからの独立を宣言したコソボ共和国の首都と定められているが、セルビアはコソボ共和国の独立を認めておらず、コソボ・メトヒヤ自治州の州都としている。
近隣の都市としては、約95キロ北東のニシュ、約80キロ南のスコピエ(マケドニア共和国の首都)などが挙げられる。1990年代のコソボ紛争で深刻な打撃を受け、現在も復興の途にあります。
人口は十万人台と首都の割には非常に少ないが、これでもコソボでは最も人口の多い都市であります。
第二次世界大戦後のユーゴスラビア社会主義連邦共和国を率いたヨシップ・ブロズ・チトーが1980年に死去すると、セルビア内で民族主義が高揚。
プリシュティナでは、経済不況や食糧不足でアルバニア人の暴動が頻発しました。
1989年、セルビアの大統領・スロボダン・ミロシェヴィッチが自治を制限、アルバニア語の使用が制限されアルバニア系住民が多くの職場から排斥されると、コソボのユーゴスラビアからの分離を求める運動が激化されました。
イブラヒム・ルゴヴァに指導されたコソボ民主連盟が結成される。これに対してセルビア政府は強硬策で臨みました。
1996年からはコソボ解放軍による武装闘争が開始されるが、プリシュティナは当初は平穏でありました。
1999年3月、コソボ紛争が本格化すると、プリシュティナは戦場と化す。4月、NATOの空爆が開始されると、市内のあちこちで虐殺行為が展開された。多くの住民がマケドニア共和国方面に脱出、その数は、アメリカ合衆国国務省の推定で1999年の5月だけで100,000人にのぼります。
コソボ紛争終結後は、40,000人いたセルビア人の多くがプリシュティナを離れたが、市内に留まった者の多くは、今度はアルバニア系住民の報復に怯えることになり、2009年にはプリシュティナから全てのセルビア系住民がいなくなった、と言われる。また、紛争でロマ人も多くが市を離れた。国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の本部が置かれています。
世界59か国渡航(2015年中に100か国突破予定)。留学、仕事において海外長期4か国計6年居住し、国際的にも活動してまいりました。
海外渡航、単身で周る場合、英語は必須になります。英語での交渉事は必然的に多くなりますし、海外での取材の際に、現地の人々から話しを聞くのにも役立ちます。
バングラデシュの首都のダッカ訪問時に、空港から市内中心部までタクシー利用。
基本的に発展途上国では英語(現地語等)での料金交渉が必要となります。
平成26年(2014年)8月に旧ユーゴスラビア諸国再訪。マケドニアは2年ぶりの再訪でしたが、そこからバスで3時間程の距離にあるコソボ紛争で有名なコソボ(2008年独立)を訪問。マケドニアの首都のスコピエから国際バスを利用し陸路越境し、コソボの首都のプリシュティーナへ。
こちらが利用したバス。コソボ国境で、コソボ側の入国審査官に怪しまれ、銃を持った3人の警察官に囲まれ、いろいろと尋問されたが、明確に回答。日本人と答えると安心したのか、納得し、無事に入国できました。
セルビアのベオグラード市内で日の丸発見!日本から寄付されたバスだそうです。前述したとおり、1999年のNATOによる空爆、経済制裁により、セルビアは経済疲弊しました。そこに救いの手を出したのが日本なのです。バスは100台程寄付、病院施設、橋や道路なども日本の援助で建設したようでうす。
洪水に見舞われた時も、日本は援助いたしました。それだからか、バスの運転手、横にいたセルビア人青年、道を尋ねて、英語は通じずとも親切に対応してくれると思いました。対日感情は良いですね。
日本は世界中の人々に好かれたすばらしい国です。何度もいいますが、それをよく思わず嫉妬心に燃える韓国、中国の人々は、海外において、そんな日本人気を落とすために工作活動を展開しているわけですが。日本人は気がつかねばなりません。
多くの国々を訪れると多くの事が分かります。
平成26年(2014年)セルビアのベオグラード訪問時に撮影
スコピエの石橋は1451年から1469年にメフメト2世の庇護の下造られた。石橋はスコピエの過去と現在をつなぐ象徴としてスコピエの市章に描かれている。 石橋はスコピエのメインとなる広場であるマケドニア広場とスタラ・チャルシヤを結んでいる。2014年7月に旧ユーゴスラビアの1国であるマケドニアの首都のスコピエを2年ぶりに再訪しました。ここはコソボ紛争でも話題になったコソボ自治州からわずか数十キロの距離に位置している。
通称マケドニアは、東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和国。前身はユーゴスラビア連邦の構成国の1つで、南はギリシャ、東はブルガリア、西はアルバニア、北はセルビアおよびコソボと、四方を外国に囲まれた内陸国である。
これら周りの国との関係は決して良好ではない。特にギリシャに関してはマケドニアという国名の問題で対立している。
マケドニア共和国は、地理的にはマケドニアと呼ばれてきた地域の北西部にあり、マケドニア共和国はマケドニア地域全体の約4割を占めている。残りの約5割はギリシャに、約1割はブルガリアに属している。また歴史上、マケドニア共和国の多数民族はマケドニア人と自称・他称されるが、彼らはスラヴ語の話し手で南スラヴ人の一派であり、ギリシャ系の言語を話していたと考えられる古代マケドニア王国の人々と直接の連続性はない。これらの理由から、ギリシャがマケドニアという国名を拒否し、同国との間で激しい国名論争(マケドニア呼称問題)が生じている。
憲法上の正式名称はマケドニア共和国であり、約125ヶ国はこの呼称を用いている一方、欧州連合や日本等はこれを認めず、国際連合に加盟したときの暫定呼称マケドニア旧ユーゴスラビア共和国を使用している
住民はマケドニア人が64.2%、アルバニア人が25.2%、トルコ人が3.8%、ロマ人が2.7%、セルビア人が1.8%、その他が2.3%である。
マケドニア人は5世紀から7世紀ごろにこの地に移り住んだスラヴ人の子孫であり、スラヴ系のマケドニア語を話す。マケドニア語はブルガリア語と極めて類似しており、ブルガリア人からはマケドニア人・マケドニア語はブルガリア人・ブルガリア語の一部であるとみなされている。マケドニア人の多くは自らをブルガリア人とは異なる独自の言語を持った独自の民族であると考えている