親日国タイでほとんどの人々が知る日本語とは?○○○は世界で知られてる?
親日国タイでほとんどの人々が知る日本語とは?○○○は世界で知られてる?
台湾には数多くの日本人が尊敬されていますが、そのうちの1人が森川清治郎巡査です。
場所はどこにあるのかというと嘉義県の東石郷福瀬村です。
交通の便は悪いので、嘉義からタクシーを利用し、高速も使い30分程で到着。(距離でいうと40キロくらいはあると思います。)
タクシー代だけでも往復5000円くらいかかりました。でも行って本当によかったです。
それでは、台湾人にいまでも尊敬される森川清治郎巡査とはどんな方なのでしょうか。
1861年(文久6年)に横浜に生まれた森川巡査(農家の生まれ)
日本統治後の1897年(明治30年)に台湾へ渡りました。そしてここ福瀬村の派出所勤務となりました。
当時は、劣悪な治安であったようですが、治安改善に尽力。そして私費を投じて、教科書を日本より取り寄せて、寺子屋を開き当時、村民のほとんどが文盲であったなか、住民に読み書きを教えました。衛生教育にも熱心でした。
村人が海で溺れているとの通報で、真っ先に海に飛び込み、助けに入ったこともありました。これにより、村人達から非常に尊敬されるようになりました。
明治34年(1901年)に台湾総督府は漁業税を設けました。福瀬村は海岸からも近く漁民が中心の村です。人々の生活は貧しく、漁業税をもうければ、村人の生活がたちいかなくなる可能性が高かったのです。(村人達の訴えもあった)
村の窮状をしっている森川巡査は、嘉義庁東石港支庁へ赴き、減税を求めたが、当時の支庁長は、住民を扇動し、謀反を起こそうとしているとして要請を跳ね除けた上、森川巡査を訓戒処分に処し徴税を重ねて命じました。
これに村人達に責任を感じた森川巡査は、翌年、自決を遂げました。村の人々の要望に応える事が出来なかった責任を感じ、自らの命を絶って責任をとったのです。これを知った村人達は非常に悲しみました。
その21年後、大正12年(1923年)に福瀬村でコレラ脳炎等の伝染病がはやりました。この時に村人の夢枕に森川が警察官の服装で現れ、「環境衛生に心がけ、飲食に注意し、生水、生ものを口にせぬこと」というお告げの内容を村民に告げたのです。村民がこれを守ったところ、伝染病の流行をまぬがれる事ができました。
義愛公として富安宮という立派な廟を村に建立し、森川巡査が祀られています。日本人は場所柄あまり訪れませんが、台湾の方々(内省人)が多く観光バスなどで訪れています。台湾で非常に尊敬される日本人の1人です。
旅メディアに旅記事寄稿!今回のお題は、安宿集結!バックパッカーの聖地!タイ・バンコクのカオサン通り!
タイ・バンコクのカオサン通り。ここはバックパッカーの聖地として有名な場所です。ここには多くのバックパッカー向けの安宿、レストラン、お店、マッサ-ジ屋、旅行代理店等があります。ここを拠点にタイの多くの場所を訪れる事が出来ます。今回は、眠らない通りカオサン通りを皆さんにご紹介します。
たびねず記事は下記をクリック
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たびねず記事
※上記写真はペリリュー島にある旧日本軍戦車
国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。
上記記事に関しての質問や問い合わせ、取材、記事寄稿依頼、講演依頼等ありましたら
下記までご連絡ください。
国際ジャーナリスト
大川原 明(おおかわら あきら)
昭和五十四年(一九七九年)九月
静岡県生まれ
専修大学経営学部経営学科卒
大学卒業後、新卒で大手旅行会社入社、退職後、世界各地を調査渡航。
世界六〇か国訪問。今年中に百か国突破予定。
海外在住歴は留学、仕事で長期4か国計6年
世界一周後、日本一周(現在、四一都道府県訪問済み)国内外において、写真と動画双方にて撮影。証拠撮り。
※写真は全て、私自身が、現地調査によって撮影してきたものです。
上記記事に関しての質問や問い合わせ、取材、記事寄稿依頼、講演依頼等ありましたら
下記までご連絡ください。
平成24年(2012年)6月にポーランドの古都であるクラクフを訪問しました。正直な話し、喧噪感があるワルシャワよりも落ち着いた街で、雰囲気はよく私的にはクラクフのほうが好きであります。
今回のテーマは
アキーラさん!ポーランドのクラクフでポーランド人女の子に一緒に記念撮影をしたいと声をかけられる?
ワルシャワの歴史地区と並び、クラクフの旧市街も世界遺産に認定されている。その中心の中央市場広場はすごく雰囲気がよくお勧めである。そしてびっくりしたのは、突然、ポーランド人の女の子が近づいてきて写真を一緒に撮ってくれませんか?と言ってきた。突然、見知らぬ人から話しかけられ、写真を一緒に撮ってくれませんか?と。
しかも別の場所も含め、他にも3組の女の子から同じように写真を撮ってくれませんか?と話しかけられ、びっくりしました。
汗を自分がかいていたので、肩を抱いてとるのはやめたが。太陽の方向を向いているので、目が朝鮮人(韓国人)のように細くつり上がった感じになってしまっているが(笑)。
しかし、何故だろう。なぜ?と聞くことをしなかったが、日本の事は好きとの事です。
日本にも行きたがっております。 以前にポーランドの孤児を 日本政府が助けたのもあるし、日露戦争で日本が大国ロシアに勝ち、それがその後のポーランドの独立(フィンランドも)につながったのは事実であるし、他の東欧諸国、バルト3国、アジア、アフリカ、中東などに勇気と希望を与えたのは事実である。日露から14年後の1918年にポーランドはロシアから独立している。
多くの大学では日本学科をおき、日本語学校も点在するという。欧米では珍しいのだが、日本人男性と結婚したいポーランド人女性も多いそうだ。(主に日本語習得者)
このポーランドがどのような国か知るには Youtubeで親日国ポーランドといれてください。ノンフィクション作家の女性が良い説明をしる動画があります。あとはポーランドの孤児に関して、日本語が話せるポーランド人達など。
親日国ポーランド
日本人として誇りが持てます
日本政府が救ったポーランドの孤児とは?
パラオのペリリュー島の慰霊訪問に対しての記事を書かさせていただきます。
前回は、敵国アメリカの最初に上陸した海岸をご案内しましたが、今回は、ペリリュー島の指令本部をご案内します。
戦前からあった建物ですが、建物は鉄筋コンクリート2階建て。
窓枠は広く、洗面台やトイレ等もありました。
沖からの艦隊からの艦砲射撃や空からの空襲で破壊されてしまったこの指令本部ですが、破壊されたあともそのままで残されております。
ここで日本兵の方々が働かれていたと思うと感慨深いものです。その時の光景が脳裡に浮かびました。
トイレの痕や洗面台も残っており、生活のにおいを感じました。
指令本部内散策
近くには水の貯蔵庫跡もありました。
水不足にならないように日本軍が建てた貯蔵庫です。
水の貯蔵庫
パラオをはじめ、太平洋に浮かぶ島々は、かつての日米の激戦地の痕跡をそのまま残している事が多いです。
祖国を守るために尽力された日本兵の方々に感謝の意を表するとともに、慰霊をさせていただきました。
国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明
アキーラさんユーチューブチャンネルは下記
http://www.youtube.com/user/Yuukokunoshi1
アメブロは下記
http://ameblo.jp/yukokunoshi/