国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

コソボ

旧ユーゴスラビア・コソボの首都のプリシュティーナのバスターミナル

平成26年(2014年)8月に旧ユーゴスラビア諸国再訪。マケドニアは2年ぶりの再­訪でしたが、そこからバスで3時間程の距離にあるコソボ紛争で有名なコソボ(2008­年独立)を訪問。マケドニアの首都のスコピエから国際バスを利用し陸路越境し、コソボ­の首都のプリシュティーナへ。
こちらが利用したバス。コソボ国境で、コソボ側の入国審査官に怪しまれ、銃を持った3­人の警察官に囲まれ、いろいろと尋問されたが、明確に回答。日本人と答えると安心した­のか、納得し、無事に入国できました。

旧ユーゴスラビア・コソボ・プリズレン市の石橋

平成26年(2014年)8月に旧ユーゴスラビア・セルビアから平成20年(2008­年)に独立したコソボを訪問!首都のプリシュティーナ、南西部中心都市であるプリズレ­ン、北西部中心都市のペヤの三都市を訪問。

プリズレン旧市街のオスマン朝時代に建てられた石橋とモスクです。山の上には城塞があります。もう1泊滞在しようとした理由はこの美しさにあります。素晴らしいです

KFOR参加のドイツ兵と交流!コソボ紛争の地・コソボ・プリズレン市

コソボ紛争の地・コソボ・プリズレン市・KFOR参加のドイツ軍兵士との交流!

ドイツ兵との交流!先月、コソボ紛争の地であるコソボを訪問し、首都のプリズレンとコ­ソボ南西部の最大都市であるプリズレン、北西部のペヤの三都市を訪問しました。
コソボにおいては、NATOによるセルビア空爆後、NATO指揮下のもと、コソボにお­いて治安維持活動を展開している国際部隊です。
参加国は36か国、兵力は約16000人。

コソボ問題に対するG8合意及び、 ユーゴスラビアのミロシェヴィッチ大統領(当時)が受諾した和平案に基づき国連安保理­決議1244が可決されると、NATO及び関係国は治安維持部隊としてKFORを編成­した。同決議に基づくKFORの目的は、
1.停戦の維持、ユーゴ軍及びセルビア治安部隊のコソボからの撤退の確保
2.アルバニア系住民の武装組織コソボ解放軍(Ushtria Çlirimtare e Kosovës; UÇK)の武装解除
3.治安秩序の維持
KFORは以下のように区域を分割し、それぞれにいくつかの国を担当として割り振る。­また、各担当区域にはリーダー国が決まっている。

中央部
リーダー国はチェコで、フィンランド、アイルランド、ラトビア、スロバキア、スウェー­デンが担当。担当区域の主な都市はプリシュティナ。

北部
リーダー国はフランスで、ベルギー、デンマーク、ギリシャ、ラトビア、ルクセンブルク­、モンゴル、モロッコが担当。主な都市はミトロヴィツァ。

東部
リーダー国はアメリカで、アルメニア、ギリシャ、リトアニア、ポーランド、ルーマニア­、ウクライナが担当。主な都市はウロシェヴァツ(フェリザイ)。

南西部
リーダー国はイタリアで、アルゼンチン、オーストリア、アゼルバイジャン、ブルガリア­、グルジア、ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、スロベニア、スペイン、スイス、トルコ­が担当。主な都市はプリズレン。
またこれら担当区域別の治安維持部隊とは別に、以下のような特別任務部隊もある
MSU
憲兵による準軍事の警察部隊。重武装の犯罪者検挙やテロ対策を担い、KFOR本体の任­務を助ける。イタリアのカラビニエリ、フランス国家憲兵隊、エストニア陸軍が担当。K­TM
KFOR司令部下で軽武装の緊急行動部隊で、中央部区域の任務も部分的に担っている。

KFOR(コソボ治安維持軍)参加のドイツ兵と交流。

アキーラさん発見!旧ユーゴ・コソボ・プリズレン市にある日本のゲームセンター

平成26年8月・旧ユーゴスラビアのセルビアの自治州であったコソボ。2008年に独­立。
3都市訪問。動画は、コソボのプリズレン市街にあるゲームセンター東京。現地語でTO­KIOは東京です。日本のゲーム機がおいてあります。ソニーのPS3等。他にビリヤー­ド、卓球も出来ます。

平成26年8月・旧ユーゴスラビアのセルビアの自治州であったコソボ。2008年に独­立。
3都市訪問。動画は、コソボのプリズレン市街にあるゲームセンター東京。現地語でTO­KIOは東京です。日本のゲーム機がおいてあります。ソニーのPS3等。他にビリヤー­ド、卓球も出来ます。

コソボ紛争!セルビア・ベオグラード・NATOにより空爆されたビル!

コソボ紛争中の平成11年(1999年)に、セルビアの首都のベオグラードでNATO­による空爆をうけたビルです。
コソボの問題は複雑です。20世紀を通じて、セルビア人とアルバニア人の民族間の対立­がありました。
これに関してはまた別途、動画を編集し言及いたします。

コソボは大アルバニア人を掲げたアルバニア人の国です。

1999年の3月24日から6月10日にかけて行われたNATOによるアライド・フォ­ース作戦、この間、NATOはユーゴスラビア軍や民間の標的に対して攻撃を加え、アル­バニア人勢力はユーゴスラビア軍との戦闘を続け、コソボにおいて大規模な人口の流動が­起こりました。
NATOによるセルビア空爆は、
6月11日まで続き、最大で1千機の航空機が、主にイタリアの基地から作戦に参加し、­アドリア海などに展開されました。
巡航ミサイル・トマホークもまた大規模に用いられ、航空機や戦艦、潜水艦などから発射­されました。

NATOの全ての加盟国が作戦に一定の関与。
10週間にわたる衝突の中で、NATOの航空機による出撃は38,000回を超えた。­ドイツ空軍は、第二次世界大戦後で初めて戦闘に参加しました。

平成26年(2014年)8月訪問時撮影。

旧ユーゴ・コソボ・プリシュティナ市・マザーテレサ大通り・水と光のショー!

プリシュティーナ市街、マザーテレサ大通り、国立劇場近くの噴水。夜になるとこのように光と水のショーを楽しむ事が出来ます。
子供たちが楽しんでおります。
アジアの発展搭乗国のような喧騒感があるコソボの首都のプリシュティナ。NIKONの一眼レフカメラD610によるフルハイビジョン動画!現地にて撮影。コソボ紛争で有名なコソボ(16年前まで紛争状態でありました。皆さんの記憶にも新しいでしょう。外務省の危険レベルが1段階引き下げられました。)首都のプリシュティナ訪問。プリシュティナの目抜き通りのマザーテレサ大通りを端から端まで徒歩散策。

旧ユーゴ・コソボ・プリシュティナ市・マザーテレサ大通り・歩行者天国

アジアの発展搭乗国のような喧騒感があるコソボの首都のプリシュティナ。NIKONの一眼レフカメラD610によるフルハイビジョン動画!現地にて撮影。コソボ紛争で有名なコソボ(16年前まで紛争状態でありました。皆さんの記憶にも新しいでしょう。外務省の危険レベルが1段階引き下げられました。)首都のプリシュティナ訪問。プリシュティナの目抜き通りのマザーテレサ大通りを端から端まで徒歩散策。
かの有名なノーベル賞受賞の修道女マザーテレサの母親がアルバニア人のため、アルバニア系住民が大多数を占めるコソボにおいて、マザーテレサ大通りと名付けられました。
旧ユーゴスラビアのコソボ平成26年(2014年)8月に旧ユーゴスラビア・セルビアから平成20年(2008­年)に独立したコソボを訪問!首都のプリシュティーナ、南西部中心都市であるプリズレ­ン、北西部中心都市のペヤの三都市を訪問。

プリシュナは、コソボの首都。2008年にセルビアからの独立を宣言したコソボ共和国の首都と定められているが、セルビアはコソボ共和国の独立を認めておらず、コソボ・メトヒヤ自治州の州都としている。

近隣の都市としては、約95キロ北東のニシュ、約80キロ南のスコピエ(マケドニア共和国の首都)などが挙げられる。1990年代のコソボ紛争で深刻な打撃を受け、現在も復興の途にあります。

人口は十万人台と首都の割には非常に少ないが、これでもコソボでは最も人口の多い都市であります。

第二次世界大戦後のユーゴスラビア社会主義連邦共和国を率いたヨシップ・ブロズ・チトーが1980年に死去すると、セルビア内で民族主義が高揚。

プリシュティナでは、経済不況や食糧不足でアルバニア人の暴動が頻発しました。

1989年、セルビアの大統領・スロボダン・ミロシェヴィッチが自治を制限、アルバニア語の使用が制限されアルバニア系住民が多くの職場から排斥されると、コソボのユーゴスラビアからの分離を求める運動が激化されました。

イブラヒム・ルゴヴァに指導されたコソボ民主連盟が結成される。これに対してセルビア政府は強硬策で臨みました。

1996年からはコソボ解放軍による武装闘争が開始されるが、プリシュティナは当初は平穏でありました。

1999年3月、コソボ紛争が本格化すると、プリシュティナは戦場と化す。4月、NATOの空爆が開始されると、市内のあちこちで虐殺行為が展開された。多くの住民がマケドニア共和国方面に脱出、その数は、アメリカ合衆国国務省の推定で1999年の5月だけで100,000人にのぼります。

コソボ紛争終結後は、40,000人いたセルビア人の多くがプリシュティナを離れたが、市内に留まった者の多くは、今度はアルバニア系住民の報復に怯えることになり、2009年にはプリシュティナから全てのセルビア系住民がいなくなった、と言われる。また、紛争でロマ人も多くが市を離れた。国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の本部が置かれています。

旧ユーゴ・コソボ・プリシュティナ市・マザーテレサ大通り!

アジアの発展搭乗国のような喧騒感があるコソボの首都のプリシュティナ。NIKONの一眼レフカメラD610によるフルハイビジョン動画!現地にて撮影。コソボ紛争で有名なコソボ(16年前まで紛争状態でありました。皆さんの記憶にも新しいでしょう。外務省の危険レベルが1段階引き下げられました。)首都のプリシュティナ訪問。プリシュティナの目抜き通りのマザーテレサ大通りを端から端まで徒歩散策。
かの有名なノーベル賞受賞の修道女マザーテレサの母親がアルバニア人のため、アルバニア系住民が大多数を占めるコソボにおいて、マザーテレサ大通りと名付けられました。
旧ユーゴスラビアのコソボ平成26年(2014年)8月に旧ユーゴスラビア・セルビアから平成20年(2008­年)に独立したコソボを訪問!首都のプリシュティーナ、南西部中心都市であるプリズレ­ン、北西部中心都市のペヤの三都市を訪問。

プリシュナは、コソボの首都。2008年にセルビアからの独立を宣言したコソボ共和国の首都と定められているが、セルビアはコソボ共和国の独立を認めておらず、コソボ・メトヒヤ自治州の州都としている。

近隣の都市としては、約95キロ北東のニシュ、約80キロ南のスコピエ(マケドニア共和国の首都)などが挙げられる。1990年代のコソボ紛争で深刻な打撃を受け、現在も復興の途にあります。

人口は十万人台と首都の割には非常に少ないが、これでもコソボでは最も人口の多い都市であります。

第二次世界大戦後のユーゴスラビア社会主義連邦共和国を率いたヨシップ・ブロズ・チトーが1980年に死去すると、セルビア内で民族主義が高揚。

プリシュティナでは、経済不況や食糧不足でアルバニア人の暴動が頻発しました。

1989年、セルビアの大統領・スロボダン・ミロシェヴィッチが自治を制限、アルバニア語の使用が制限されアルバニア系住民が多くの職場から排斥されると、コソボのユーゴスラビアからの分離を求める運動が激化されました。

イブラヒム・ルゴヴァに指導されたコソボ民主連盟が結成される。これに対してセルビア政府は強硬策で臨みました。

1996年からはコソボ解放軍による武装闘争が開始されるが、プリシュティナは当初は平穏でありました。

1999年3月、コソボ紛争が本格化すると、プリシュティナは戦場と化す。4月、NATOの空爆が開始されると、市内のあちこちで虐殺行為が展開された。多くの住民がマケドニア共和国方面に脱出、その数は、アメリカ合衆国国務省の推定で1999年の5月だけで100,000人にのぼります。

コソボ紛争終結後は、40,000人いたセルビア人の多くがプリシュティナを離れたが、市内に留まった者の多くは、今度はアルバニア系住民の報復に怯えることになり、2009年にはプリシュティナから全てのセルビア系住民がいなくなった、と言われる。また、紛争でロマ人も多くが市を離れた。国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の本部が置かれています。