国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

沖縄

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊④】沖縄県糸満市・平和祈念公園

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊④】
同じく糸満の平和祈念公園を再訪。

公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地&終焉地。
昭和20年5月、アメリカ軍の攻撃により、首里にあった日本軍司令部は、沖縄本島南部に移動。

日本軍による組織的抵抗は、6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了したがアメリカ軍は翌7月初めまで掃討戦を続けました。

平成祈念公園内には各県の慰霊碑一覧があります。
全てを訪れるのは時間がかかりますので
皆さんの出身県の慰霊碑にて合掌や焼香をするとよいでしょう。

喜屋武岬などと同じくこの摩文仁の丘からも沢山の人間が追い詰められて飛び降りて亡くなりました。

摩文仁の丘で出会った80過ぎのお婆さん。
「お兄ちゃん、慰霊はこちらからだよ。」と言われ
お婆さんの近くにいくと花を持っていってといわれました。
1束300円ですが、最初は断ったのですが
結局購入することに。
慰霊碑に献花させていただきました。
一緒に記念撮影。
80を過ぎても懸命に商売している姿に心を打たれました。

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊③】沖縄県糸満市・ひめゆりの塔

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊③】

本日は糸満にある「ひめゆりの塔」を再訪。
沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。

慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいます。

「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」でしたが、戦後ひらがなで記載されるようになりました。

昭和20年3月24日に沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍。

5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜みました。

戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられました。
既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味しました。

職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名であるが、このうち解散命令以後に死亡したのは117名で全体の86%にものぼり、さらに判明しているだけでも全体の35%にあたる47名が第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっています。

沖縄県那覇市・国際通り界隈・沖縄家庭料理の店まんじゅまい


那覇の国際通りに近い沖縄家庭料理の店まんじゅまいで食事。初めて食すタコライス、パパイヤチャンプルー、てびち、豚の三枚肉、海ぶどうなどを沖縄のビールであるオリオンビールとともに食しました。

昔ながらの古臭さが残る雰囲気の良いお店で味もよくお薦めのお店です。

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊②】沖縄県南風原・沖縄陸軍病院南風原壕群

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊②】
敗色が強まりつつある昭和19年5月に陸軍病院は開設され、同年10月の10.10空襲後に現在の南風原小学校に移動し、小学校の近くにある黄金森に米軍上陸にそなえて壕も掘られました。

南風原陸軍病院の本部壕、第一、第二、第三 外科壕があった。第三外科壕は現在の南風原町役場の後方に位置し、本部壕、第一、第二外科壕は黄金森にありました。

昭和20年年4月1日に米軍が上陸してからは負傷兵が次々に運び込まれるようになりました。
麻酔はすぐに底をつき手術は麻酔無しで行われました。
負傷した兵士は手足を切断する必要のある兵士も多く、麻酔無しの手術のために激痛が走り、手術の間、患者が暴れないよう押さえることや切断した手足や死体の処分等も
ひめゆり学徒の仕事でした。
ここで亡くなった兵士も多くいます。

昭和20年5月25日に南部撤退命令が出て
南部に移動。

ここには実際に使われていた当時のままの壕のうち20壕が有料で見学できます。
縦横180センチほどの小さな通路で70メートル程の長さがあります。

壕内は湿っており、電球がないので安全のためにヘルメットを着用し、懐中電灯を借りて案内人の方の説明を聞きながら
進む感じになります。

沖縄県・那覇市と豊見城境・海軍司令本部壕

【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊①】
沖縄県豊見城市と那覇市の市境に位置する海軍司令部壕。
日本で唯一の陸上線である沖縄戦で大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕。

昭和19年、先の大戦において
絶対国防圏を守る上での最重要拠点であるサイパンやグアムなどのマリアナ諸島やパラオ戦線やフィリピン戦線での敗北でそれらを失い、敗色が強まってきました。

戦線が南西諸島付近まで後退したため最前線となった沖縄の軍備が強化されることになりましたが、沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(現在の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになりました。

昭和19年8月10日に着工されましたが、実際には十・十空襲以降に始められ同年12月に完成しました。

壕はかなり深さがあり、枝分かれした全長約450mの坑道といくつかの部屋からなり、砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されています。
部屋は作戦室、幕僚室、司令官室、暗号室、医療室、下士官室、兵員室、発電室があり広大な壕です。

昭和20年1月20日から大田実海軍中将が沖縄方面根拠地隊司令官として赴任し現地の指揮を執ることになりました。
アメリカ軍による本格的な攻撃は3月23日頃から始まりましたが、3月31日には那覇市の北西沖約10キロメートルに浮かぶ神山島に上陸し、4月に入ると島に設置された砲台や海上艦船からの攻撃も始まりました。

6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲。

6月11日朝、司令部壕に米軍の集中攻撃が加えられ、同日夜には司令部壕からの最後の報告として海軍根拠地隊が玉砕したとの電報が発せられました。
6月13日に大田司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結し、戦線は南部に。

司令官室には
壁面に大田司令官の愛唱歌「大君の御はたのもとに・・・」の墨書が残されています。

戦後の調査で壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集された、昭和33年には更に1500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立されました。

沖縄は綺麗なビーチが多く見所が多いですが
先の大戦では日本唯一の陸上戦がおこなわれ、約20万人の方が犠牲になった場所です。沖縄を訪れるのあればこういった戦跡や慰霊をしていただきたいと思います。

万座毛&万座毛ビーチ

たまには贅沢をと今晩は沖縄本島にある万座毛ANAインターコンチネンタルホテルに宿泊。
目の前のビーチは泳げる時期ではありませんが
美しい海の景色を堪能できます。
万座毛いいですね★

沖縄県国頭郡恩納村にある景勝地である万座毛に。
東シナ海に面し、沖縄海岸国定公園に属しています。
本島の西側に位置しているので夕陽が綺麗に見られることで
有名。数多くの観光客が訪れる名所です。

沖縄・海洋博公園!エメラルドビーチ、トロピカルガーデン、ウミガメ&マナティー館

前回の海洋博公園は美ら海水族館のみの訪問でしたが、今回は公園内の他施設も利用。
公園内で訪れた場所の1つがエメラルドビーチ。
天気にも恵まれ、綺麗な海の景色を楽しむ事が出来ました。

前回海洋博公園で訪問できなかった海がめ館やマナティー館、イルカのショーが見れるオキちゃん劇場に。

海がめにコバンザメがつく姿やマナティーの仕草、イルカのショーはに心を打たれました。

熱帯ドリームセンター。ランやバンダ、カトレア、熱帯植物などを堪能。
昔は花のよさが分かりませんでしたが
最近になり花のよさがわかるようになりました。

美しいものを見ると心は洗われる。
敷地は広く花好きにはたまらない場所です。

沖縄県首里市あやぐ食堂!ゴーヤチャンプルー定食

沖縄本島の東海岸から車を走らせ、首里に。
ある方からお薦めいただいた「あやぐ食堂」を訪問。

様々なメニューがある食堂ですが、沖縄に久しぶりにきて
まだゴーヤチャンプルーを食しておらず、ゴーヤチャンプルー定食を注文。

ゴーヤチャンプルーは正直、そこまで好きなものではないのですが
ゴーヤチャンプルーを食さねば沖縄を去ることが出来ないと思い、選びました。

20時で閉まってしまうので早めにお店に入りました。

沖縄県の絶景場所の1つ果報バンタ

世界遺産に認定されている勝連城跡を訪問後に
本島の東海岸に。海中道路を通り、平安座島、宮城島、伊計島に。宮城島にある「ぬうちなー」の塩工場の横にある果報バンタ。
バンタは沖縄の方言で崖で、標高120メートルの崖の上からはエメラルドグリーンの綺麗な海を見ることが出来ます。

到着時に曇りで晴れ間のときのように
綺麗な写真を撮ることが出来ませんでしたが
晴れたらより綺麗に見ることが出来ます。

沖縄の人気絶景場所の1つ。