国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

沖縄県

【ソーキそば元祖の店】沖縄県名護市・我部祖河食堂本店!ソーキそば!御歳89歳の会長(創業者)

名護市にある
ソーキそばの元祖である
我部祖河食堂本店に。
沖縄といったらソーキそばという程、
全国的に認知度が高まりましたが
元祖は1966年創業の我部祖河食堂です。
名護の我部祖河という地名をとり
店名に。

1966年創業、ソーキそばの元祖である我部祖河食堂の名護市我部祖河にある本店。現在は沖縄本島に8店舗➕製麺所。

写真の方は創業者であり現会長の金城源治さん。御歳89歳の方です。
この歳で現場に出ているのは尊敬に値します。言語明瞭で足腰もしっかりしていらっしゃいます。
一緒に記念撮影をとらさせていただきました。

沖縄県本島北部・大宜味村のお薦め名所!ター滝!サバイバル体験が出来る!?

沖縄本島北部大宜味村にある平南川の上流ター滝。
本土の滝もしくは今までに海外の滝も数多く訪れてきましたが同じようなものだと思って油断していました。
まず、駐車場到着後に1キロは歩きましたが、歩道が整備されているものだと思っていたら、滝の入り口から道がない!
誰もおらず、どこに滝が?と思いながらも上流にあると思い、川の流れを逆流し、上流へ。

進んでも進んでも滝が見当たらずで間違ったかなと思っていた矢先に戻ってくる人々が。滝から戻ってきとのことで
頑張って滝までいく決意をしました。

最初は裸足で歩いてもいましたが痛くて途中で靴をはき、靴をはきながら沢を歩きました。

深さがあるところは岩場をロッククライミングしたり、ロープをつたって移動したりして冒険気分が味わえました、
やっとの思いで到着したら立派な滝で
森林とともにマイナスイオンに癒されました。

沖縄県・那覇市松山・ビッグダディのジンギスカン屋「きよし」

那覇市内にあるジンギスカン料理きよし。
ビッグダディことキヨシさんがいるお店です。
平成28年(2016年)9月に開業。まだ新しいお店ですが
味も非常に良くお薦めのお店です。
平成18年(2006年)~平成25年(2013年)に放映されたテレビ朝日系のドキュメンタリー番組『痛快!ビッグダディ』にて、長年にわたる取材を受けていたことから注目された方です。
子沢山、離婚歴に関しては多くの方々がご存知の通り。
タレント登録はしてないものの数多くのテレビ番組やラジオ番組、イベントに呼ばれる知名度のある有名人です。
書籍も複数だし、○○出演や50歳にして歌舞伎町でホストデビューしたりと精力的に活動。

独身で妻子のいない自分も見習わねばですが
少子高齢化が進む日本において多大な貢献をされている方です。
自分も含めた今の世代が見習うべき存在です。

意外とミーハーな自分ですが
会いたいと思う有名人やタレント、俳優、女優は結構います。
そのうちの1人がビッグダディのキヨシさんでもありました。

テレビで見たとおりの方でしたが
びっくりしたのは浜松に11年程居住していたようなのですが
その時にキヨシさんが住んでいた家が同じ町内(距離でいうと200~300メートルくらいかな)だったという事です。

ビッグダディががいる店という事でそれ目当てに
お客が集まり、集客力があるのは事実ですが
味を公正に評価しても非常に程度の高いお店です。

【沖縄戦慰霊・最後の慰霊地】沖縄県那覇市・対馬丸記念館


【沖縄戦慰霊・最後の慰霊地】
那覇市内にある対馬丸記念館
沖縄線で忘れてはならないのは、沖縄からの学童疎開に使用された輸送船・対馬丸。アメリカの潜水艦による魚雷攻撃で沈没。1482名の死者を出しました。

対馬丸は1912年(明治45年・大正元年)から整備を開始したT型貨物船のうち、欧州航路向けの第1期船6隻のうちの一隻として、イギリスのグラスゴーのラッセル造船所で高田丸とともに建造される。船価は9万4500ポンド。

竣工後は第一次世界大戦真っ只中の欧州航路などを就航して、当時は日英同盟で連合国側についていた日本。連合国向けの軍需品や食糧輸送で活躍し、特に対馬丸は1916年(大正5年)6月21日、再開されたパナマ運河を経由する貨物船として、横浜~東回りニューヨーク航路第1便として横浜を出航しました。
開戦直前の1941年(昭和16年)9月21日に陸軍に徴傭され、南方作戦に投入されました。後に、船舶運営会使用船となりました。

サイパン島玉砕後にアメリカはB29爆撃機による本土空襲が可能になりました。
これを危惧して日本政府は
「本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせよ」との命令を通達しました。
一方で、沖縄本島などへ展開させる兵員や軍需物資の輸送も同時に行う事となり、一部を除いて往路は軍事輸送、復路は疎開輸送に任じる事となりました。

1944年(昭和19年)8月20日に対馬丸と暁空丸、和浦丸で構成されたナモ103船団は台風接近による激しい風雨の中、蓮と宇治の護衛により長崎へ向けて那覇を出港しました。

翌々日の8月22日に西沢武雄船長と陸軍少尉の輸送指揮官との間で激論が交わされました。米潜水艦による魚雷攻撃によりいくつもの船が沈んでいる事を知っている西沢船長はこの航路の危険を熟知していたので、ジクザグコースを取る事を主張。しかし輸送指揮官は、船団から離れる危険や、到着の遅延への懸念の方を重く見て直線での航行を主張し、結局「軍の命令」ということで直線コースをりました。それが命取りに。

対馬丸を撃沈させたのは
アメリカの潜水艦ボーフィン。8月22日夜に攻撃を開始。6発の魚雷を発射し、2本の魚雷が命中。命中した11分後に対馬丸は大爆発を起こして沈没。
対馬丸の乗船者1788名のうち1482名が犠牲に。生き残った人々はイカダでトカラ列島や奄美諸島に漂着もしくは漁船等に助けられました。

平成26年(2014年)6月に慰霊のために天皇皇后両陛下が行幸啓。
慰霊碑「小桜の塔」や対馬丸記念館を訪れ、事件の生存者や遺族らと対話をしました。

沖縄県那覇市国際通り界隈「そら食堂」せんべろ!


せんべろとは!?
1000円でべろべろ酔える価格の酒場の俗称
昨晩はハシゴして国際通り界隈にある「そら食堂」に
オーナーの方が以前は東京吉祥寺井の頭公園前で営業をされていたようですが、2013年11月に移転してきました。

欧州料理+中南米料理
今回は1000円のせんべろ
2杯+ピザとブルーチーズとハムのサラダ
別注でタコライスを注文しました。

店内はこじんまりとしていますが
明るく清潔で店の雰囲気抜群。
接客態度もよくお薦めできるお店です。

【沖縄戦での慰霊訪問】沖縄県南城市の糸数アブチラガマ


【沖縄戦での慰霊訪問】
南城市にある糸数アブチラガマに。
アブは沖縄の言葉で深い縦の洞穴、チラは崖、ガマは洞窟。

沖縄戦時、もともとは糸数集落の避難指定壕でしたが、日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となりました。

軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。
昭和20年5月25日の南部搬退命令により病院が搬退したあとは、糸数の住民と生き残り負傷兵、日本兵の雑居状態となりました。

その後、米軍の攻撃に遭いながらも生き残り、8月22日の米軍の投降勧告に従って、合計7名の住民と負傷兵はガマを出ました。

270メートルのガマ内を1時間程かけて
ガイドの方の案内で周り、最後は慰霊碑の前で合掌させていただきました。

ちなみにここには
靖国神社の遊就館内にある
八九式十五糎加農砲が展示されていました。

ここに八九式十五糎加農砲を2基設置したようですが
1発発射するごとに米軍の数十倍の攻撃に遭ったようです。

沖縄の那覇の宿で仲良くなった高専生

那覇の宿で仲良くなった高校生(正確に高専=高等専門学校)。
宿の居間でくつろいでいると
突然、話しかけてきた彼。よく話しかけてきたなと感心したのですが
16歳の高校生です。高専なので大学と同じような休みで九州+沖縄を春休みを利用して周っていました。
山口の商船系の高専で将来は船乗りになるという頼もしい彼。
沖縄はたったの2泊ということで足がないと遠くにいけないと思い、
レンタカーを借りている自分は1日で本島南部や東海岸を連れて行きました。

高校生ですので流石に昼夕の食事代は出しました。

沖縄県の世界遺産!琉球王国のグスク及び関連遺産群の1つ中城城跡


【琉球王国のグスク及び関連遺産群の1つ中城城跡】
14世紀後半頃迄に先中城按司が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築き上げ、1440年に読谷の座喜味城から移ってきた護佐丸盛春によって、三の郭、北の郭が増築され現在の形が完成したと言われています。

中城王子の居城から1609年の薩摩の琉球侵攻後は番所に。明治になり廃藩置県後は中城村役場として戦前まで利用されました。

興味深いのは日本に開国を迫ったペリーは1853年5月に沖縄本島を訪れ、彼と一行は城壁やアーチの門の建築土木技術水準の高さに驚嘆したとようです。

沖縄の本土復帰と共に国の史跡に、2000年11月に世界遺産登録。
2006年に日本100名城に選ばれました。