国際ジャーナリスト&旅行ジャーナリスト 大川原 明

世界各国、日本各地を周り、多くの場所を写真、動画撮影等で取材

2018年

沖縄で2週間お世話になったレンタカー「トヨタのCH-R」とお別れ

2週間お世話になったレンタカー「トヨタのCH-R」とお別れ。ほぼ毎日、運転三昧でした。やはり、沖縄本島は隈なく周るにはレンタカーがあると便利です。

C-HRは平成28年12月14日に発売開始した次世代世界戦略SUV。トヨタにおいては2016年に生産終了した3代目RAV4以来となる3ナンバーサイズのSUVです。

馬力はないのでそこまで加速力はありませんが
走行の安定性がありますし、デザインも斬新的で凝っていると思います。ホイールも18インチを標準装備。
価格帯は250万~320万程。

別れは惜しいですが
最後のお別れをしました。

19歳の時に車を初めて持ち、ホンダ車→フォード車→日産車→日産車と乗り継ぎましたが
やっぱりトヨタ車がよいなと
実感しています。

沖縄県那覇市国際通り界隈「そら食堂」せんべろ!


せんべろとは!?
1000円でべろべろ酔える価格の酒場の俗称
昨晩はハシゴして国際通り界隈にある「そら食堂」に
オーナーの方が以前は東京吉祥寺井の頭公園前で営業をされていたようですが、2013年11月に移転してきました。

欧州料理+中南米料理
今回は1000円のせんべろ
2杯+ピザとブルーチーズとハムのサラダ
別注でタコライスを注文しました。

店内はこじんまりとしていますが
明るく清潔で店の雰囲気抜群。
接客態度もよくお薦めできるお店です。

沖縄県那覇市・国際通り界隈のお店「昭和村」でYouTubeのオフ会


昨晩は私のユーチューブファンを集めて那覇オフ会。
今までに私のユーチューブチャンネルをご覧いただいている方々で、個別に那覇でお会いした方々は5人いますが
今回はオフ会にしました。オフ会に参加したいという方々があと4名いましたが海外に行っていたり、仕事が忙しくて参加出来ない方がおり、今回は少人数の3名で。
沖縄の人口から考えると東京や大阪のようには人は集まりませんが、沖縄でも見てくれている方々はいます。

今回は国際通り界隈にある
沖縄居酒屋「昭和村」に。島歌のライブも楽しめ、雰囲気もよいお店です。チャンプルー系やタコライス、沖縄焼きそばなどを注文。
ビールはオリオン。熱もあるのもありわりと控えめにしましたが、楽しい会になりました。

沖縄の人々は祖国復帰を望んでいたのか?沖縄本島最北端辺戸岬に建つ祖国復帰闘争碑

【沖縄の人々は祖国復帰を望んでいたのか?沖縄本島最北端辺戸岬に建つ祖国復帰闘争碑】

日本が先の大戦でアメリカを始めとした連合国に負け、アメリカの占領下に入りました。
昭和27年4月28日に発行されたサンフランシスコ平和条約で
沖縄はアメリカの施政権下に置かれるものとされました。

アメリカは、「行政主席」を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなど一定の自治を認めたが、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままでした。

アメリカ軍はその間にも施政権の下に各地に半ば力ずくで基地や施設を建設し、またアメリカ軍兵士による悪質な事故、殺人を含む事件が頻発し県民の死傷者も相次ぎました。

このころから県民はアメリカの施政に落胆し本土復帰を訴え、県民有志は「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こし、昭和35年には沖縄県祖国復帰協議会を結成。

昭和45年12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市で、アメリカ軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生。不平等な日米地位協定で事件はうやむやに。

常日頃からアメリカ軍兵士が優遇され沖縄県民が不当に差別されていたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上沖縄県をアメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめました。

一方では、アメリカ軍による需要がある土木建築業や飲食業、娯楽業(米兵相手に身を売るパンパン娼婦など)などに携わる勢力は、復帰反対やアメリカ軍駐留賛成の運動を展開し、彼等の支援する議員が復帰賛成派の議員と衝突しました。
しかし、圧倒的にアメリカの統治下からの脱却をし
本土復帰を願う人々が多かったのです。(選挙からのデータで90パーセントほどの人々が)

昭和44年に行われた日米首脳会談で、ベトナム戦争終結とアメリカ軍のベトナムからの撤退を公約に掲げ前年の大統領選挙に当選したリチャード・ニクソン大統領が、ベトナム戦争の近年中の終結を考えて、安保延長と引き換えに沖縄返還を約束したが、公選の行政主席である屋良朝苗や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に、アメリカ軍基地を県内に維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し昭和46年沖縄返還協定調印、その後、昭和47年5月15日に日本へ復帰。

ちなみに、
2017年5月の沖縄タイムス、 朝日新聞などによる沖縄県民への協同調査による「日本へ復帰してよかった?」との質問に対して、「よかった」が82%で、「よくなかった」は5%だった。「よかった」の年齢別内訳は、18歳から29歳では90%を超え、30代で86%、40代と50代で84%、60代は72%、70歳以上は74%で若い世代ほど本土復帰を肯定的に評価している。過去の調査では1981年4月で62%、87年9月で84%、92年4月で88%、97年4月で87%、2002年4月で87%、2007年4月で89%、2012年4月で83%が日本への復帰に「よかった」と答えています。

【沖縄戦での慰霊訪問】沖縄県南城市の糸数アブチラガマ


【沖縄戦での慰霊訪問】
南城市にある糸数アブチラガマに。
アブは沖縄の言葉で深い縦の洞穴、チラは崖、ガマは洞窟。

沖縄戦時、もともとは糸数集落の避難指定壕でしたが、日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となりました。

軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。
昭和20年5月25日の南部搬退命令により病院が搬退したあとは、糸数の住民と生き残り負傷兵、日本兵の雑居状態となりました。

その後、米軍の攻撃に遭いながらも生き残り、8月22日の米軍の投降勧告に従って、合計7名の住民と負傷兵はガマを出ました。

270メートルのガマ内を1時間程かけて
ガイドの方の案内で周り、最後は慰霊碑の前で合掌させていただきました。

ちなみにここには
靖国神社の遊就館内にある
八九式十五糎加農砲が展示されていました。

ここに八九式十五糎加農砲を2基設置したようですが
1発発射するごとに米軍の数十倍の攻撃に遭ったようです。

沖縄の那覇の宿で仲良くなった高専生

那覇の宿で仲良くなった高校生(正確に高専=高等専門学校)。
宿の居間でくつろいでいると
突然、話しかけてきた彼。よく話しかけてきたなと感心したのですが
16歳の高校生です。高専なので大学と同じような休みで九州+沖縄を春休みを利用して周っていました。
山口の商船系の高専で将来は船乗りになるという頼もしい彼。
沖縄はたったの2泊ということで足がないと遠くにいけないと思い、
レンタカーを借りている自分は1日で本島南部や東海岸を連れて行きました。

高校生ですので流石に昼夕の食事代は出しました。

沖縄県宜野湾市!キングタコス長田店!タコライス

【沖縄発祥のタコライス】
I ate Tacos and Taco-rice at a KIng-Tacos shop in Ginowan city in Okinawa.
メキシコのタコス。タコスはヒスパニックの多いアメリカ西海岸でも広まり、タコベルなどのチェーン店があることでも有名です。

米軍基地がある関係で
沖縄にはアメリカ的なレストランが非常に多いです。(当初は米兵向けであったのだが)
一昔前はジャンクフード大好きな自分で、留学時などはマックやKFC、バーキン、サブウェイなどをよく利用していました。

今回はある方からお薦めいただいたタコスとタコライスを食すことが出来るキングタコスに。
タコライスは名前の通り、タコスの具材を米の上にのせた
ものです。

タコライスは金武町のキャンプハンセンのゲート前に広がる飲食店街にあった「パーラー千里(せんり)」の創業者、儀保松三の考案により1984年に販売開始されました。
後にチェーン展開することになる系列店の「キングタコス」を通して沖縄本島各地に広まっていきました。
現在は沖縄に複数店舗を展開するタコス&タコライスの有名店。

名護から車で南に下り
宜野湾市の長田店に。米軍ヘリが墜落したことでも知られる
沖縄国際大学の近くにあります。
店内は狭く、立ち食いできる場所はあるものの
持ち帰りの人々が多いです。

タコスは今までに食べた事はあっても
タコライスは此間、那覇のレストランで初めて食しました。
両方の味を楽しみたいと思い、タコスとタコライス両方を注文。

沖縄県・古宇利島のビーチ

古宇利島に。2005年2月に古宇利大橋が完成し、名護市の屋我地島と橋で結ばれるまでは、古宇利港と運天港との間に船便でつながれていました。

島は面積3.13平方キロメートル、周囲7.9kmでほぼ円形の形をした隆起サンゴ礁の島です。
琉球人の祖と言われる「沖縄版アダムとイヴ」と呼ばれる神話があることで有名な島でもあります。

前回、訪問時は雨。
今回は晴れていたので綺麗な写真を撮ることができました。
時期的に本土からの卒業旅行生が多かったです。

沖縄本島最北端辺戸岬近くの茅打バンタ


沖縄本島最北端の辺戸岬から茅打バンタ へ。
国頭村宜名真に位置する観光地で、高さ約100mの断崖絶壁。
そこからの景色が抜群です。

バンタとは沖縄の方言で崖のことで、束ねた茅を崖から投げ落とすと強風でバラバラになったことからこの名がついたといわれています。

昔、道路が整備されていなかった頃の往来は断崖絶壁を越えて行かなければならず、岩の裂け目に打ち込んだ杭や木の根を頼りにするという交通の難所でした。

途中で反対方向から来た人と出くわすとどちらか一人が戻って道を譲らねばならなかったことから「戻る道」とも呼ばれていました。